ネオン蝶の夢
起
【Chapter.1 熱帯夜行】
横たわって見上げる空は、狭い。
視界の五割が黒いビル、残りの五割は黒い空。熱されたアスファルトが鉄板のように、内側から身体を焼いている。星なんて見えやしない、真っ黒な空。
時刻は、夜。
「暑い……」
ふらふらと立ち上がり、水を探す。振り返って見ると、さっきまで自分が倒れていた場所に、もやもやと蜃気楼が上がっている。昼間だって、あんなものは見たことがない。ここは、砂漠やだだっ広い国道なんかとは違う。この狭い街の、掃き溜めのような雑踏の中では。
「暑い……暑い!!」
あまりの熱気に、呼吸が苦しい。興奮した犬のようにハアハアと浅い息を繰り返し、足を引き摺りながら歩く。
色とりどりのネオンに縁取られた、夜光虫が群れる歓楽街。ギラついた様相は常時のまま、今は自分以外、人っこ一人見当たらない。その代わりなのか、あちこちでモヤモヤと蜃気楼が揺れている。自分の身体からも、よく見ると湯気が立ち昇っている。派手なピンク色をした、派手に
ピンクのもやはゆらゆらと揺れながら、先端が空ではなく、一つの方向を目指して伸びている。顔立ちの整った数人の男性の写真がこちらを見下ろす、街宣看板。その真下に位置する、高級感を偽装した黒い防音扉。その向こうへ、まるで自分が手を伸ばしているみたいに、ピンクのもやがゆらゆら伸びていく。
この先に、今日は居るのだろうか、あの人が。喉が、乾く。舌が上顎に張り付く。
脚が、無意識に扉へ向かう。
腕が、勝手に前へと伸びる。
頭上で、お呼びじゃない男どもが笑っているのが分かる。
そうだ、あの人に、会わなければ。
この渇きを癒してくれる、唯一無二のあの人に。
ノブに、手をかけた。
扉の隙間から、どす黒い液体が流れ出てくる。血ではない、油でもない。アルコールの腐臭と、浮かんだ煙草の燃え滓。
構わず体重をかけ、一気に扉を引く。堰を切ったように溢れた汚物に澱んだ水が、全身を浸す。ああ、冷たくて気持ちが良い。掴んだままのノブも、氷のように冷たかった。
……あの人に、会いたい。
【Chapter.2 久しぶりですね】
暑い。暑過ぎる。
もう、それしか出て来ない。
部屋を出ようと意を決してドアを押し開けた瞬間、熱波が顔面を襲った。一歩踏み出す気力すら湧かない、この灼熱。
「……やばすぎだろ東京……電子レンジかよ」
仕方なく玄関から体を全て出し、反対側のひんやりとしたノブから、こちら側の、無理させすぎたスマホみたいに熱いノブを掴む。うんざりしながらドアを枠に押し込み、小判型のカードキーをシリンダーに差し込んだところで、隣の部屋のドアがガチャリと鳴った。
「お」
いつも無表情の隣人が、私の百倍はうんざりした顔でドアから出て来た。まあ、暑いの苦手そうだしなあ。あと血圧低そう、なんとなくだけど。なんて、観察してみる。
「こんちは、和田さん」
軽く声をかけると、目だけちろっとこちらに向ける。「ちは」とだけ、小さく返事があった。なんというか、機嫌悪そう。
(?……いや、機嫌っていうか……)
ちょっと気になって、去って行こうとしている背中に再度声をかける。あれ。この感じ、なんか懐かしいぞ。
「もしかして、なんか具合悪いです?」
「……は?」
横に並び顔を覗き込んでみるも、やっぱりこの人、全然こっち見ない。暑いし用事あるんだろうし、さっさと出掛けたい気持ちなんだろうけど。
そういえば前回は、チュー太こと花子がポケットから顔を出してくれたおかげで、会話に繋がったんだった。花子というのは、和田さんが飼ってる?和田さん
半年前——私が巻き込まれた、死んだはずの婆ちゃんとの真冬の奇怪なドライブ物語。夕方に昼寝した結果迷い込んだ悪夢の世界から、この隣人とそのペットさんが、私を現実に連れ戻してくれた。なぜ助けてくれたのか、どんな手を使ったのか、詳しくは知らない。元々交流があったわけでもないし、その後は顔を合わせることもなくなった。結構な出来事だった割に、知ったのはお互いの名前だけいう、薄味な最後。あれからもう、季節は二つ巡ったことになる。
そして、今。夏。真夏。梅雨明けの酷暑に焼かれる、アスファルトジャングルの盛夏。あれ、アスファルトだっけ、コンクリートだっけ。まあいいやこの際どっちでも。
私は初めてこの暑さを体感しているわけだけれど、もしかして和田さんも、夏バテとか熱中症とか、その辺の夏の病なのではないか。さっきの私の問いかけに疑問符だけ返して、歩みを止めない隣人の横顔は、やっぱりどこか、青白い。そういや、あんまり今みたいな日中に出かけるとこ見ないな。なんて思いつつ、「大丈夫?」ともう一度声をかけようとした、そのとき。
差し掛かっていた下り階段の一段目に足を下ろした瞬間、ふっと力が抜けたように、和田さんはその場にしゃがみ込んでしまった。
文章にすると、たったそれだけ。本人もやばいと思ったのだろう、倒れることはなく、ちゃんと制御は出来ていたみたいだった。のだが、目の前で一瞬ふらついた姿を見て、咄嗟に身体が動いてしまった。仕方ないだろう、階段で倒れるイコール転げ落ちるイコール重症もしくは死、と、脳内で映像が出来てしまったんだから。
彼が背負っていたリュックの持ち手の部分を鷲掴み、階段と逆の方向に思いっきり引いた。倒れないように、落ちないように、その一心で。私のこの自称細腕のどこにそんな力があったのか、一瞬、首根っこを親に咥えられた仔猫みたいになった和田さんは、親猫もとい私も巻き込んで、盛大に尻餅をついた。
「うわ!ごめんなさい大丈夫⁉︎」
慌てて謝ると、ぼそっと聞こえた返事。それは突然の出来事にビビり散らかし心拍数が跳ね上がった私の、荒い呼吸にかき消された。
くるっと首だけこちらを振り向いて、もう一度、和田さんが言う。
「……悪い」
ん?悪い?そう聞こえた。
「引っ張ったこと?ほんとにごめん‼︎」
「違う」
「え?」
「さっき、聞いたでしょ、具合。悪いみたいって、言ってんの」
ぐったりと言うかげっそりと言うか、喋るのも億劫そうに、和田さんはそう告げた。
【Chapter.3 お邪魔します】
「お邪魔しまあす」
「……」
人間の体って案外重いんだなあ、と呑気に思った。
気のせいじゃなかった、どうやら本当に具合が悪かったらしい和田さんを、彼が今しがた出てきたばかりの自室へ運んだ。運んだ、なんて言うと語弊があるかもしれない。背負うなりお姫様抱っこなりしてあげられたらもっと楽だったんだろうけど、生憎私はパワータイプではない。バストアップに効果的と聞き高校では弓道部に所属していたけれど、運動部の中では動かない部類だったし、肝心のバストに関しても、儚い希望は遺伝子に完全敗北した。少しは増強されたかもしれない腕力も、およそ十年に及ぶ事務員生活で完全に弱体化している。成人男性一人抱えられるはずもなく、とりあえず肩を貸してやり、倒れないように支えながら、なんとか玄関までたどり着いた。渡された鍵を差し込みドアを開けると、和田さんは私から離れて部屋の中に滑り込んだ。
涼しい。外と比べるとまるで天国。最高。人ん
この部屋の住人である和田さん自身も、涼しさに落ち着いたのか、自分のテリトリーに入ったことで安堵したのか、玄関に腰を下ろしたきり動かなくなってしまった。ここまで来た手前、はいさようならと置いていく気にもなれず、どうしたもんかと視線を巡らせる。
私の家もすぐ隣の部屋なのだから当たり前だけど、間取りはたぶん全く同じ。明確な違いというか、パッと目についたのが、シューズボックスの上にトコトコと置かれている、何かの観葉植物。統一感はなくて、肉厚な葉っぱで小ぶりな鉢にモコっと生えてる物から、鉢から飛び出た葉っぱの蔓がシューズボックスの中程までダラリと伸びた物まで、種類は様々。わぁ可愛い〜なんて呑気に思えるほど私は若くなく、これちゃんと虫湧かない土使ってるのかなという心配が真っ先に来た。
いや、今は虫より、和田さんの心配をしなければ。
体育座りしたままぐったりしているこの部屋の住人に、頭上から声をかける。
「和田さーん、大丈夫ですかー?とりあえず奥のリビングまで行きましょ、立てる?」
玄関が狭いから、彼が蹲ったままだと私が中に入れない。背中側に回れれば引っ張っていけそうなんだけど。めちゃくちゃ押し退けるか、めちゃくちゃ跨いでいけば通れなくはないかもだけど、さすがにそれはどうなんだと思った。
蚊の鳴くような声で、返事があった。
「……ほっといて。もう、大丈夫なんで、帰ってもらって——ごめん」
……おお、これはだいぶ参ってそう。でも、引き下がることも出来ない。私は強硬手段に出る事にした。鞄からスマホを取り出し、通話ボタンをタップする。画面に表示されている番号は、私のバイト先。
「あ。もしもし神坂です。店長?ああ、岸辺さんか。すみません、ちょっと出勤途中で急病人に出くわしてしまって、一人暮らしみたいでヤバそうなので病院連れてったり対応してまして……うん、終わったら向かうので、ちょっと遅くなります。はい、大丈夫ですか?よかった、助かります、ありがとうございます。また連絡します。よろしくお願いしますー」
ポチ。通話を切る。
話してる途中、下からじとーっと睨んでくる視線を感じてたけど、無視して喋った。「信じらんねえ……」と、再び俯いた頭からボソボソと聞こえた。
「和田さんは大丈夫かもしれないけど、死にかけの隣人を放置して仕事行けるほど非情じゃないので〜私〜」
戯けて言ったその時、バリン!と鈍い音が響いた。本当に、何の前触れもなく、突然。思わず、肩が跳ねる。
音の発生源は、すぐ近くにあった。さっき私が虫の心配をしていた、小さな多肉植物の鉢。その一つがシューズボックスの上で、真っ二つに割れていた。固まった土は散らばらずに崩れただけのようだが、どう見ても不自然な割れ方にギョッとする。こんな綺麗に真ん中に線が入る事、あります?しかもいきなり。なんとなく嫌な感じがして、忌々しげにシューズボックスを見上げている和田さんに確認してみる。ついでに、奥のリビングの窓をチラリ。引いたままになっているカーテンを一瞥する。南向きの窓には、燦々と日が当たっている。
「いちおう、ですけど、そんなフラフラな状態でどこ行こうとしてたんです?さっき気付いたけど、熱、ありますよね」
「……薬局」
「病院じゃなくて?」
「……意味ない。解熱剤だけでもと、思って」
「意味ないって、なんで?」
「……」
おお、すごい盛大な溜め息。病院は行っても意味がない、ね。ふむふむ、なるほど。
それって、さっき急に割れた鉢植えと、あと、あの——カーテンに映ってる人の影と、何か関係あります?
【Chapter.4 そんなことある?】
「ちょっと……おい⁉︎何してんの」
部屋の主から抗議の声が上がるが、無視する。具合悪いとこ、申し訳ないけど。蹲った和田さんを横に押しやって、適当に足だけで靴を脱ぐと、空いた隙間から部屋の中に上がり込んだ。向かう先は一つ、一直線に進んで、閉じられたままのカーテンを力任せに引いた。
シャッと音がして、部屋の中に夏の日差しが満ちる。紺色のカーテンが一枚、その向こうのレースカーテンが一枚。両方を一気に開けたから、ベランダに続く窓が剥き出しになった。
「なんも——居ない」
さっきまで、たしかにここに何かが居た。ナニカっていうか、普通にストーカー案件の可能性も考えたけど、やっぱり違ったようだ。ベランダにはエアコンの室外機と物干し竿以外、何もない。そういえば、よくベランダで煙草吸ってるの見るけど、部屋の中は全然においしないな、なんて、頭の片隅で思った。
心底怠そうに、和田さんもリビングにやって来た。信じられない物を見るような目で、ベランダと、私を、交互に何度も見ている。顔色悪いのに、体調のことが頭から抜け落ちてるみたいなその仕草がなんとなく面白くて、無言で眺めてみた。
「ほんとに……信じられない……」
「ええっと——なにが?」
カーテンを何度か開閉し、化け物でもみるような目で、今度は私だけを見つめる。その、心外な眼差しの理由を尋ねてみた。
「さっきの、神坂さんにも見えたんでしょ」
「影?みたいなの?普通に人かと思って」
「人は触れずに物を壊したりしない。できない。しかも離れたところから——」
「ああ、やっぱりさっきの『そういうヤツ』なんですね。ぶっちゃけ全然信じてなかったけど、婆ちゃんの夢の事もあるし、有り得なくはないのかと思ってたけど……」
「……やばいものだとわかった上で、突っ込んだの?」
「突っ込んだとは心外な。普通にカーテン開けただけでは——」
「あんたが……」
何か言おうとした和田さんが、へなへなとその場に座り込んでしまった。慌ててソファに連行すると、観念したように肘掛けに頭を乗せて丸くなった。私の部屋には座椅子と小さなローテーブルだけでこんな立派なソファはないから、ちょっと羨ましい。
「何か飲むよね⁉︎あと——なんか掛けるものないです⁉︎あ、そうだ解熱剤うちにあるから、持ってくるからちょっと待ってて!」
「……話聞けよ。一旦落ち着いて」
「ん⁉︎」
バタバタと右往左往する私とは対照的に、和田さんは落ち着いてるみたいだった。さっき言いかけた何かを伝えようとしてると気付いて、とりあえず、ローテーブルを挟んでソファの向かい側に腰を下ろした。
「……さっき、神坂さんがカーテン開けたとき」
「うん」
「窓から見てた影が消し飛んだ」
「うん——うん⁉︎」
「影っていうか……気配も、全部逃げてった。めちゃくちゃ嫌そうに」
「ええっと……それは……謝った方がいい感じ?」
「いや……」
和田さんが、ちょっと笑った。
「前から思ってたけど、神坂さんは陽の気がすごく強い。はっきり言って、異常レベル。まさか消し飛ばすとは、さすがに思ってなかったけど」
「……ちょっとどういうことか分かりかねますけども、私あれですよ、陰陽で言ったら完全に陰キャの部類——」
和田さんが、また少し笑った。
「そういう事じゃない。まあでも、迷惑じゃなければ、ちょっと居てもらえると助かります。でも、少しでも日が落ちてきたらすぐにカーテン閉めて」
「よくわかんないけど、わかりました。居るのは全然構わないんだけど、ちょっとなんか取ってきます、私の部屋から!とりあえず薬と氷枕とゼリーとか!すぐ戻るから!待ってて!じゅ、十秒くれれば!」
言うなり、脱兎の如く駆けた。ダットノゴトクなんて言葉、使う機会あったんだな。脳内とはいえ。暑いの苦手だから、冷凍庫に氷枕常備してた良かった。夏バテで食欲落ちてて、冷蔵庫にゼリーも入れといて良かった。
和田さんの部屋を出るとき、背後から「十秒は無理でしょ……」とかなんとか聞こえた気がしたが、マジで十秒を目指してたので気付かないふりをした。
ついでに。
リビングから続く、隣の、恐らく寝室。閉じられたままになっていたドアの、その前。
さっきカーテンに映っていた黒い影とは違う、赤っぽいモヤのようなもの。漂っていたそれに走りながら軽く手を翳すと、一瞬で霧散するように消えた。
それも、見ないふりをした。
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