結
【Chapter.13 出るように入れ】
紙切れには、こうある。「影が落ちる瞬間に窓の中へ」。
ほー。まずは壁を登れってことね、垂直だけど。
「入れ替わりで窓の中に入れってことよね?チュー太」
ポケットの中を覗き込み、勝手に名付けた白ネズミに問いかける。ネズミはこちらを凝視したまま、前歯を剥き出して何か必死にしーしー言っている。よく見ると、ちっこい手——というか指で、一生懸命上の方を指差している。ああ、早くしろってことか。確かに、もともと片側一車線ほどの広さしかなかった路地が、今は半分ほどまで
私がペシャンコに押し潰されれば、当然チュー太も道連れだ。焦るよな、そりゃあ。一蓮托生、一縷の望み、窮鼠猫噛。たぶん、そんな感じだろう。
ノブの無いドアと同様、窓もこちら側からは開けられない。ならば、落ちるために影が窓を開けた時、その中に滑り込めということなんだろうけど。あの
「んー……」
腕組みして、ちょっと考えて。やっぱり、さっきの婆ちゃんの顔を思い浮かべた。ここへ連れてきてしまったことを「ごめんなさい」と泣きながら謝っていた。
だから、やることは一つしかない。
婆ちゃんがもう泣かないように。後悔しないように。
どこへ消えてしまったのかは、わからないけど。
私は、ここから、生きて脱出する。
紙切れを、チュー太が入っていない方のポケットに突っ込む。
肩掛けポーチを、ぐるっと体の前側に持ってくる。
両頬を、両手でばちんと叩く。
大丈夫。こういうの、映画で見たことがある。火事場の馬鹿力ってやつで、私にだってできるはず。運動神経は悪くない、自称だけど。正面に見ていた壁に、背中を預ける。向かい側から、ゆっくり、じわじわと、壁が迫ってくる。
ステミング、って言うんだっけ、クライミング用語で。
大丈夫、手足を突っ張って、窓まで登る。それだけ。
【Chapter.14 またね】
思ったより、キツくはなかった。突っ張り自体は。
問題は、登ったあとのほうだった。
「ど、どうしようチュー太!!」
二階に当たる窓の高さまで、あっという間に到達した。やるじゃん、私。なんて、言ってる場合じゃなかった。右手側にも、左手側の壁にも、ずらりと窓が並んでいる。並んではいるのだが、現状、それほど遠くまで素早く移動はできない。壁の隙間だって、どんどん狭くなってきている。つまり、選べる窓が限られている。すぐ横にある左右どちらかの窓がタイミングよく開かない限り、詰んでいることに変わりはなさそうだ。呼びかけては見たものの、この体勢ではチュー太からヒントも貰えそうにない。
腹を、括ろう。賭けるしかない。
右手側の窓と、左手側の窓を、交互に注視する。少しでも動きがあったらすぐに気付けるように、呼吸を整えて意識を集中する。ほんの十数秒にしかならないはずの時間が、永遠のように長く感じる。
何回目か、頭を右左させたその時、右側の窓の奥に気配が現れた。部屋の中は真っ暗で見えない。その闇の中に、三日月のように裂けた二つの目玉が浮かび上がった。これから飛び降りようとしてるっていうのに、ああ、めちゃくちゃ嬉しそうに笑ってる。背中を寒気が駆け上がる。ぎゅっと一度目を瞑り、覚悟を決めて狙いを定める。
ゆらゆらと、人型の影が窓に近寄ってくる。最悪なことに、たぶん気のせいじゃなく、めちゃくちゃこっち見てる。血走った目がしっかりと私を捉えている。にっこり、微笑みながら。
その手が、窓枠にかかる。スーッと控えめな音を立てて、目の前の窓が開く。他の影達が一連の流れのように外へ踏み出していたから、よし今か!と身構えた瞬間、もう一つ、最悪なことが起きた。
影が、ぐるっと首ごとこちらを向いた。そして、ギョッとする私へ向かい、手を振ったのだ。バイバイをするみたいに。呆然としている間に、影が傾き、視界から落ちて行く。
なんだそれ。なんでそんな後味の悪いこと、すんのさ。
奥歯を噛み締めながら、開いたままの窓へ滑り込んだ。
こんな極限状態でも、頭は意外と冷静で。チュー太の入っている右ポケットを下敷きにしないよう庇いながら、窓の中の部屋へ転がり込んだ。頬に、毛足長めの絨毯?の、ふわふわとした感触がある。思わず撫でて、手触りを確かめる。この異様極まりない空間にそぐわない、黄色のふわふわカーペットが敷いてある。
幽霊タクシー、人が降ってくる路地、迫り来る壁。今度は何が来るのかと慌てて体を起こして、すぐにその場にへたり込んだ。文字通り、腰が抜けたのだ。
は?
ここ……私の部屋じゃん。
【Chapter.15 油断した頃に】
飛び込んできたはずの窓、外の景色は見慣れた夜の住宅街。
迫ってくる煉瓦の壁も、果てしない路地裏も存在しない。
「えー……ええええ?」
ベランダには今朝干した洗濯物がそのままになっているし、予約炊飯にしていた炊飯器からは薄く蒸気が上がっている。いや、何これ。何この生活感。生活感に半端じゃない有り難みを感じる。リビングの壁掛け時計を確認すると、針は間もなく十九時を指そうとしていた。
「戻って、きた?」
少しの間ぼーっと立ち尽くし、ハッとして慌ててポケットを探った。そうだ、チュー太は?
「あれ?いない?」
パーカーの右ポケットは、ファスナーが閉まっていた。開けて中を覗き込んでも、白い小ネズミの姿はない。恐る恐る手を突っ込んで探しても、やっぱりチュー太はいなかった。まさかと思い左ポケットも同じように開けると、窓へ入るよう書かれた小さな紙切れだけが、丸まって入っていた。
なんだかよくわからないが、どっと疲れた。
変な時間に昼寝したりしたから、悪い夢でも見たのかもしれない。気分転換に、コンビニにでも出かけよう。ついでにお酒とつまみでも買ってきて、実家の父さん母さんと通話しながら一杯やろう。そうしよう。うん。
さすがにスウェットにパーカーでコンビニには行けない。そこまで遠くはないけど、さすがにそれは女子としてダメだろう。適当でいいから私服に着替えようと、寝室のドアを開けた。
その瞬間、私は見事に悲鳴をあげて尻餅をついた。
ベッドに、誰かいる。誰かが、横たわっている。
本日二度目の、腰が抜けた。
だがしかし、放置するわけにもいかない。横たわった何者かは、やかましいと定評のある私の悲鳴にも目覚める気配はない。脚を引きずるようにしてそーっとベッドに近付き、意を決して顔を覗き込んだ。
ベッドで眠っていたのは、私だった。
認識した瞬間、ぶつりと意識が途切れた。
【Chapter.16 昼寝は昼までに】
無機質な機械音の、「きらきら星」が聞こえる。
予約時間の十九時ぴったり、米が炊き上がった音だ。
がばりと、毛布を跳ね除けて飛び起きた。
冷や汗が止まらない。全身にじとりと汗が吹き出している。それもそのはず、あんな夢を見たんだから、仕方ない。
今度こそ夢じゃないという確信が欲しくて、枕元に置いてあったスマホを手にとる。ニュース画面を開くと、政治からゴシップまで、私の知らない最新の情報がずらりと並んでいる。リビングに駆け込んでテレビの電源を入れると、ゴールデンタイムのバラエティ番組のオープニングが流れている。卓上カレンダーの日付も、今日で合っている。間違いない、ちゃんと現実だ。
部屋に満ちている炊き立てのご飯の匂いに、腹の虫が鳴いた。安心したからか、急に強い空腹感を覚える。夢の中の自分もそうだったけど、やっぱりコンビニに行きたい。着替えを済ませて軽く歯を磨き、財布だけ握りしめて、部屋を出た。
「あ」
「……どうも」
部屋を出たところで、お隣のワダさんと鉢合わせした。彼もちょうど出かけるところだったようで、軽く会釈をする。ほとんど話したこともないけれど、改めて見ると私より少し若いように感じる。特に会話が始まることもなく、ワダさんはそのままこちらに背を向けて歩き始めた。なんとなくその後ろ姿を見ていた私は、次の瞬間慌てて後を追いかけた。
ワダさんの、肩に。ひょこっと顔を出したのだ。真っ白の、小さくて小綺麗な、ネズミちゃんが。
「あ、あのー!ちょっとすいませんワダさん!」
「はい」
返事はしてくれたけど、振り返ることはなく階段を降りて行く。集合玄関で追いついて、隣に並んだ。ネズミはそのまま肩を降りて、ジャケットの胸ポケットに潜っていった。
「あの、ね、ネズミが、乗っかってたような?ポケットに、入っていったような?」
「それがなにか?」
「いや、あの、なんていうか……」
話しながら、隣を歩く。玄関を出て、夜道をコンビニの方向へ、一緒に進む。何この人、こんだけ必死に喋ってるのに、全然こっち見ないんだけど。ネズミが乗っかってましたよなんていきなり言われたら、普通驚くと思うけど。ペットでもない限りは。
「なんていうか、ついさっき、白いネズミに恩ができたというか、もしかしてワダさんちのネズミさんですか?その子」
「そうですが」
「……」
「……」
会話が途切れた。どうしよう。タイミングがタイミングだし、チュー太かと思ったけど、白いネズミなんて世の中にはいっぱいいるかもしれないし。「すみません、ネズミ違いでした。失礼しました」と声をかけて、別れようとしたその時。
「夕暮れ時の昼寝は、しないほうがいいですよ。悪夢、見るから」
いきなり、ワダさんが喋った。
それだけ聞いたら、意味不明な言葉だけど。確信してしまった。さっきのネズミはやっぱりチュー太で、この人が私を助けてくれたんだ。どういう事情なのか、なんの特殊能力なのか、見当もつかないけど。
「……名前、なんて言うんですか」
「俺?」
「いや、ネズミさんの」
「花子」
まじか。チュー太、雌だった。
「その子、めちゃくちゃ賢いですよね。ペットですか」
「いや。勝手に懐かれて、一緒に住んでる」
「そんなことあるんだ。不思議。なんでですかね、懐いたの」
「俺が
「やば。よかったですね、
ワダさんが、ちょっと笑った。普段ベランダでめちゃくちゃ煙草ふかしてるからちょっとアウトロー感あったけど、笑うとやっぱり若く見える。
「差し支えなければですけど、ワダさんの名前も聞いてもいいですか?」
「……トキオミ。時間の時に、大臣の臣で、
「へえ。いい名前ですねえ」
ワダさんが、ちょっとびっくりしたみたいにこっちを見た。珍しいとはよく言われるけど、いきなりいい名前と言われたのは初めてだと、小声で言われた。ちょっと、気持ちわかる。
「……カミサカさんは?」
「おえ?私?」
カミサカは、私の苗字。神様の神に、坂道の坂。
「ニレです。植物の名前らしいけど、きへんに、諭吉の諭の右側みたいな、なんかこう、説明しづらいな私の漢字」
「いいです、わかります楡の字。いい名前ですね」
今度はこっちがびっくりした。いい名前、と、最初に言われたのは私も初めてだった。楡ちゃん、と、名前を呼ぶ婆ちゃんの声が、聞こえた気がした。
「……私の、婆ちゃんなんですけど、名前つけてくれたの。夢の途中で、いなくなっちゃって。無事だと……思いますか」
「……」
ちょっと悩んで、ワダさんは不思議なことを言った。
「チョウチンアンコウって、知ってます?」
「ああ、知ってますよ。顔キモいヤツですよね」
「……キモいかどうかは別として、カミサカさんが見たお祖母さんは、その提灯の部分です。だから、お祖母さんご本人には、悪夢の影響は無いかと」
「……ああ、なるほど」
半分ぐらい、意味はわからなかった。わからなかったけど。
婆ちゃんが無事だと言いたいんだということは、わかったから。
それだけで、じゅうぶんだった。
「ありがとうございます、助けてくれて」
「……どういたしまして」
ワダさんの胸ポケットから、ひょこっと花子が顔を出した。花子にも、ありがとうの気持ちを込めて、小さな頭を指で優しく撫でた。
どうせまだ、仕事も決まっていない。明日の朝一で、一度実家に帰ろう。帰って、仏壇おがんで、墓参りに行こう。お墓、めちゃくちゃ寒いだろうけど。婆ちゃんの好きだった、モンブランを買って行こう。東京には色んなケーキ屋さんがあって、美味しいモンブランもいっぱいある。そんな話を、してみようと思った。
ニヤついてたからか、隣でワダさんが怪訝な顔をしていた。
完
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