【Chapter.9 影降り通り】

 

 突然目の前が真っ暗になって、次の瞬間真っ白になった。眩しさに、瞳孔がくらむ。

 

 どすん。どすん。

 

 恐る恐る目を開けると、そこには奇妙な光景が広がっていた。扉を潜った先、入る前はただの真っ暗闇に見えた、向こう側。私を乗せたタクシーが走っているのは、両脇を煉瓦造りの建物に挟まれた、細い路地裏だった。車一台がやっと通れるくらいの、細い細い、長い長い、どこか薄暗い一本道。どすん。

 扉を潜る時に真っ先に頭に浮かんだ行先、「死後の世界」「あの世」のイメージとは、似ても似つかない。殺風景な河原もしくは幻想的なお花畑だったら、いよいよ覚悟決めてたかもしれない。

 両脇の煉瓦は切れ間なく延々と伸びていて、遥か前方に豆粒ほどの光が見える。この路地の出口?だろうか。煉瓦の壁には大小様々、色とりどりのドアがずらりと並んでいる。等間隔じゃないのが微妙に気持ち悪い。その上には、窓が——

 

 どすん、どすん。

 さっきから聞こえている、この音。いやー、今のは近かった。

 

 どすん。

 ……油断した。今のは、車の真横。私は何も見てない。

 一瞬目が合ったりとか、断じてしてない。

 

 ぶんぶん。気を取り直すため、大きく頭を振った。どすんをぶんぶんで上書きしてしまえ、ぐらいの心意気で振ったから、ちょっと脳みそが揺れた。

 もう一度、見上げる。個性豊かなドアの上の方、煉瓦の建物の二階から上には、無数の窓が並ぶ。こちらはドアと違い、きっちり等間隔に続いているのが余計に気持ち悪い。ベランダとか、カーテンとか柵とか手摺りとか、そんなものはなくて、ガラス張りの、ただただ無機質な窓。一度呼吸を整えて、ふっと黒い影のさした一つの窓を注視する。

 黒い影は、人の形。それが片手を上げて、窓をスーッと横に引く。解放された空間へ、散歩でもするかのように、ごく自然な動作で、何の躊躇いもなく、影は片足を踏み出した。

 

 どすん。

 

 さっきから聞こえている、この音。

 人が、地面に叩きつけられる音。

 

 

 

 

 

【Chapter.10 そんなことはどうでもいい】

 

 すーっ、はあーっ。

 思いっ切り、深呼吸する。

 

 どう見ても現実じゃない、この路地裏。次々と人が飛び降りてくる沢山の窓、どこに繋がっているのか定かではない色んなドア、そして、相変わらずお菓子を貪っている、タクシーの運転手。さっきまで左手だけで食べてたのが、今や右手も参加して、咀嚼の勢いが増している。長ーい左手は運転席と助手席の間から、長ーい右手は右側の窓沿いに、後部座席のお菓子を掻っ攫っていく。よく見たらこの腕、関節、なさそう。そんなハンドル放置状態でも、車は真っ直ぐに進んでいく。不思議なことに、地面に落ちて来た影達の体を、タクシーが踏むことはなかった。

 ……オートパイロット搭載車です?それも最新のやつ。


 まともなことなんて、一つもないけど。まともな精神状態なら、震え上がってそうな場所だけど。でも、今はそんなこと、そんなあらゆる全てのことが、私にとってはどうでもいい。

 さっき、婆ちゃんは私を逃がそうとしてた。ここへ来させないように、この幽霊タクシーから降ろそうとしていた。婆ちゃんは、私の味方だった。あの世へ連れて行こうとも、危害を加えようともしていなかった。なのに、消えてしまった。何で?私を庇ったから?どこへ?元いたところへ?

 もう何が何だかわからないけど、今やるべきことは一つだ。りんご飴二つをまとめて持って行こうとしている左腕を、鷲掴みにする。

 

 この運転手が、婆ちゃんに何かしたなら。

 こいつが私を連れ出すために、婆ちゃんを利用したなら。

 もし、安らかに眠ってた婆ちゃんを、無理矢理起こしたのなら。

 フルボッコでも足りない。覚悟しろよ貴様。

 

「それさ、誰に許可もらって食べてんの?」

 

 掴んだ腕を、ぐいっと捻り上げた。これね、こないだ父さんに習った護身術。東京行くって言ったら、何個か教えてくれた。今はちょっと、攻めに使っちゃってるけど許してね。非常事態だからさ。

 元警官直伝の技を受けて、運転手が怯んだ……と、思ったんだけど。怯んだ、なんてもんじゃなかった。振り向きはしなかったけど、とんでもない動きで、とんでもない声をあげたのだ。その手に握られていたお菓子達が、ボロボロと座席に散らばる。

 

「ギヤアアアアアアアアア!!」

 

 耳が裂けそう。おまけに、掴んでない方の右腕は、タコの足みたいにビタンビタン車内を暴れている。やっぱ、関節ない。人間じゃない、やっぱり。だからと言って、こちらも黙ってはいられない。さっき、目の前で消えてしまった婆ちゃんの「ごめんなさい」って泣き声が、頭から離れない。

 問い詰めるため、運転席と助手席の隙間、左腕が伸びてるところから、前へ身を乗り出した。殴られても困るので、左腕はそのまま片足で踏んで固定しておいた。思ったより、力はない。あとたぶん、骨もない。

 ぐいっと、覗き込む姿勢になる。あれだけ、絶対見ないぞと決めていたご尊顔を、ようやく拝する次第となりました。

 

 

 

 

 

【Chapter.11 化学反応って知ってます?】

 

 第一印象。

 さっきの絶叫、どこから出した?

 

 今時あんまり被っているのを見ない、古き良き運転手の帽子?みたいな帽子の下。通常頭があるべき場所には、アーモンド型のスライムのようなものが乗っかっていた。水色の、ぶよぶよした、塊。そのスライムかいが、さも自分が顔ですという風に、帽子と首との間に鎮座している。いや……よく見ると、首も水色のぶよぶよだ。やけにぐにゃぐにゃしてると思ったけど、この運転手は全身がスライムなのかもしれない。服、着てるけど。

 顔面には、目も鼻も口も、何もついていない。頭の横にあるはずの、耳もない。どうやって叫んだのか謎だ。お菓子もどこから食べた?耳も口もないから、これから問い質すことに返答が来るのか、一抹の不安を覚えた。覚えたけど、聞く。

 

「ねえ。婆ちゃん、どこ?」


 返事は、ない。再度、聞く。

 

「もし、婆ちゃんに酷いことしたなら、許さない。婆ちゃんはどこ?泣かせてないだろうな貴様」


 やっぱり、返事はない。返事は、なかった。けど。

 恐らく顔だろう部分の、下側半分が、三日月型に裂けた。グググッと、切れ目の両端が上がる。まるで、ニヤニヤと笑っているみたいに。ぷつんと、頭の中で何かが切れた。そうか、これが堪忍袋か。

 

 ニヤッと開いた三日月型の口の中に、左手を思いっ切り突っ込んだ。また、さっきみたいな絶叫が響く。

 

「ギヤアアアアアアアア!!」

「小学校でさ、実験したことない?スライムの。化学の実験なんだけど。お酢と塩とさ、どっちぶっかけられたい?」

 

 突っ込んだ左手に、特段感触はない。舌でもあったら全力で引っ張ってやろうと思ったのに。触った感じ、やっぱりスライムみたいだった。子供の頃よく遊んだ緑色のやつは、触るとヒヤッとして夏場は気持ちよかった。この運転手野郎の水色部分は、生暖かくて、脈を打っている。

 

「ギギ……ギ……ギャ——」

 

 ぶるぶると、運転手の体が、タクシーの車体が、震える。三度目の絶叫のあと、運転手が溶け始めた。ドロドロと、服も帽子も巻き添えにして、どす黒い液体になっていく。

 

「ちょ、え!?」

 

 さすがに焦った。塩もお酢も、かけてないんだが。

 

 

 

 

 

【Chapter.12 ネズミの手も借りたい】

 

「うおおおお、お!?」

 

 柄にもなく、テンパりまくっている。

 運転手が溶け切ったあと、今度はタクシーが溶け始めた。

 

 フロントのバンパーが溶け、ボンネットが溶け、ガラスが溶ける。前方から融解が始まっていると気付き、慌てて後部座席から脱出を試みようとするが、婆ちゃんがやった時みたいに、ノブが空回る。ドアに鍵がかかっている。誰もいなくなった運転席に身を乗り出し、右側のボタンを操作してロックを解除した。ボタボタと、溶けたルーフの液体が降ってくる。後部座席に尻餅をつき、もう一度ドアノブを引っ張ると、今度はガチャリと手応えがあり、そのまま外へ転がり出た。

 走行中の車から飛び降りたことなんて、人生で一度もない。徐行レベルのスピードだったとはいえ、かっこよく着地なんてできようわけもなく。私が無様に地面に突っ伏している間も、のろのろドロドロと進んだタクシーは、二十メートルぐらい先で完全に動きを止めた。着色に失敗したスライムみたいな、きったない色のぶよぶよが、狭い路地を塞いでいる。

 

 ズズズ、ズズズ——ゴゴゴゴ。

 

「は!?もおおおおお」

 

 一息つく暇もなく、今度は両脇の煉瓦の壁が、路地を押し潰すように迫ってくる。婆ちゃんの安否を確認できなかったこと、嘆く時間くらい寄越せ、この野郎。

 どすんどすんも、相変わらず続いている。世界の異変なんか、気にも留めていないようだ。乗車中、遥か遠くに見えていた白い光は、いまだに遥か遠く。迫ってくる壁の方が早い。間に合わない、潰される。きっとぺしゃんこだ。

 ハッとして、光とは逆方向へ振り向く。タクシーが入ってきた扉なら、まだそう遠くはないはずだ。

 

「お、オーノー……」

 

 扉なんて、ない。反対方向へも、延々と道が伸びている。やっぱり、遥か遠くに豆粒大の光があるのみだ。

 手近なドアに飛びついて中に逃げようと試みるも、惨敗に終わる。ドアに、ノブがない。こちら側からは開けられない。見渡す限り、全部のドアがそうだった。

 

 絶望。詰んだんじゃない、これ。

 

 よし。念仏でも唱えよう。

 そう思い胸の前で両手を合わせた時、どすんじゃない、何か凄く小さなものが、視界の隅で動いた。

 緩慢に視線を向けると、壁に付いたカラフルなドアの一つが、ほんの少しだけ開いていた。その真下、開いたドアの隙間から、真っ白のなにか、毛玉のようなものが、すごい速さでこちらへ向かってくる。白毛玉が飛び出してきたあと、ドアは音もなく閉まった。

 

「な、なにこれ……ネズミちゃんだ」

 

 駆け寄ってきたのは、真っ白で、ちっちゃい、小綺麗なネズミだった。現実の世界にいるような、ちゃんとした、ネズミ。よく見ると、口に何か咥えている。ぐいぐと、咥えたものを差し出そうとするような仕草。ネズミって、野生のは絶対触るなって教わった気がするけど、都合よく忘れることにする。慌てて、小さな口から小さな何かを受け取る。紙切れのようだ。私がそれを開いて目を通す間に、ネズミが脚を登り、パーカーの右ポケットのファスナーを歯で開けて、上手にその中におさまった。

 

 ……器用ってレベルじゃねえぞ。

 

 

 

 

 

 

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