【Chapter.5 ドッキリだって言ってくれ】

 

 夜景なんて、全然見れなかった。

 今窓から流れていく景色は、ひたすら木。木、木、木。

 

 どうせ暗いしと、スウェットにボアパーカーだけ羽織り肩掛けポーチにスマホと財布を突っ込んで、私は婆ちゃんの後に続いた。マンションの玄関を出ると、本当にタクシーが一台止まっていて、見計らったかのように後部座席のドアが開いた。奥に婆ちゃんが、手前に私が乗り込むと、滑るように黒い車体が動き出す。それから暫く、車内を不自然な沈黙が支配した。

 

 私が喋らなかったのは、単純に、喉のせい。まだ寝起きと言えば寝起きだし、喉が渇いていると言えばその通り。あと……あまり認めたくないけど、極度の緊張状態になった、ってのも喉カラカラの原因の一つかもしれない。

 マンションに初めて来たはずの婆ちゃんは、真っ直ぐ、振り返ることも、足を止めることすら一度もなく、タクシーまで歩いた。さっきからちょっと、感じてはいたけど……ああ、嫌だなこんなの、と、何度か唾を飲んだ。もっと無情だったのは、婆ちゃんの上着やカバンなんて物は、タクシーの中にも、何処にも存在しなかったこと。薄着って言ったって限度があるだろう、二月に半袖じゃあ。

 婆ちゃんが喋らなかったのは、たぶん、乗車前に私が掛けた言葉のせい。自分の両足がしっかり車内に入る前に、椅子にどっかり腰掛けてしまうその前に、私は一言だけ、彼女に投げかけた。

 

「婆ちゃん、だよね?」

 

 返事は、なかった。

 

 腹を括って乗り込んだってのに、婆ちゃんはその後何事もなかったかのように、私の方に半身を向けて座り、またあの、人好きのする笑みを浮かべた。と、思ったら、そこから一言も発することはなく、ただただ私を見ている。

 行き先も何も告げていないのに、タクシーは躊躇なく進む。六本木、銀座、新宿、どこが良いかなやっぱ東京タワーか、なんて想像するのはちょっと楽しかったのに、気付いたら窓の外は見知らぬ田園風景。からの、森なのか林なのか、どこかのたぶん山の中。体感的にそれほど時間は経っていない。まだ最寄駅に着いたぐらいの走行距離だと思う。どう考えたって、おかしい。

 

 え?タクシーの運転手?

 見れるわけない。見たくもない。この状況で。

 普通の人なわけ、ないから。

 

 

 

 

 

【Chapter.6 思い出して】

 

「大きくなったねえ」

 

 突然、婆ちゃんが泣き出した。

 それはもう、ボロボロと大粒の涙を溢し、おいおいと声をあげて漫画のように泣いている。あまりにも突然で、「そう言えばさっきワダさんの玄関ドアちょっと開いてたな」なんて、無理矢理思考トリップさせていた私はちょっと咽せた。狐か何かに化かされてるのかと思ったけど、これはやっぱり、婆ちゃんだ。

 

「ちょ、ちょっと何突然!?何で泣いてんの」

「だってねえ、見ない間に、こんなに立派になって、ちゃあんと大人になって、一人暮らしまで始めて……婆ちゃん嬉しくなっちゃって」

「一人暮らしって別に凄いことじゃないよ?それよか私、現状無職独身三十路だし」

 

 自分で言っててちょっと虚しくなった。そんな、泣くほど感動されるような人間に、私はなれていない。大体、まだ上京して一ヶ月だぞ、離れてそれしか経ってないのに——そう笑い飛ばそうと思ったその時、急に頭に衝撃が走った。

 何か、鈍器で殴られたような、頭上から物を落とされたような、強い衝撃。でもたぶん、これは外側じゃない。内側で何かが起きたのかもしれない。痛くはない、痒くもないし、血も出てない。一瞬で去ったその衝撃を逃すように頭を降って、「今の何?」と当てもなく婆ちゃんの方へ顔を向けて、私は再び衝撃を受ける。

 

 婆ちゃんの背後、窓ガラスが光っている。色とりどりの光が夜空で弾け、一拍遅れて破裂音が響く。ぱらぱらと、光と音の残滓が舞った。

 花火が、上がっている。婆ちゃんの、後ろで。それを認識した瞬間、さっきの婆ちゃんみたいに何の前触れもなく、私の左頬を一筋の涙が伝った。

 

「あれ?何、これ……」

「あららら、ニレちゃんこそどうしたの〜泣かないんだよ、ほらこれ食べな、いっぱいあるから!」

 

 半べそ半笑いの婆ちゃんが、ズボンのポケットからお菓子を取り出した。え〜、ポケットに入れるものじゃないでしょ。無造作にもほどがあるよ婆ちゃん。何次元ポケットだよってくらい、次から次へと、お菓子が出てくる。駄菓子にチョコにスナック菓子、おつまみみたいなのまである。私が子供の頃、好きだったものばかりだ。あ、毎年決まって大晦日の年越し用に買ってた、赤と青のりんご飴まである。たしか一本四十円。最近はスーパーの駄菓子コーナーで見かけなくなってしまった。懐かしい、すごく。

 てか、婆ちゃん私のこと子供扱いしすぎ。もう三十だっての。

 

 鼻の奥がツーンと痛い。目頭が熱いのは車内の暖房が効きすぎているのか。半袖のご老人なんて乗せてるから、温度高めにしてくれたのかな運転手さん。いいヤツじゃん、顔は絶対見ないけど。

 

 

 

 

 

【Chapter.7 昔話の花道】

 

「あれ、いつだっけ。私が蛇捕まえてさあ、ペットボトルに入れて持って帰ったの」

「あああああ、あの時ねえ!本当にどうしようかと思っちゃったわよ!お母さんの悲鳴、すごかったねえ」

「あれはウケたね。母さん玄関に鍵かけて、『それ持ってうちに入らないで!』って叫んでたもんね」

 

 これは、たしか小学校に入ってすぐ。その後すぐに婆ちゃんが駆けつけて、蛇入りペットボトルを離さない私を近くの河川敷まで連れて行った。「ニレちゃん、おうち好きでしょう?蛇さんもおうちに帰りたいって」と、ちょっと無理のある説得をされたのを覚えている。それから二人でビビり散らかしながらペットボトルを傾け、無事に蛇さんは野に帰って行った。

 

「婆ちゃんいっつも元気だったからさ、入院した時はほんとにびっくりしたんだよ」

「……」

「……ほら、中学の時さ、私が部活の遠征中に」

「ああ、そんなこともあったねえ。ぜーんぜん大したことなかったのに、あなたったら病室で泣き出すんだもの。こっちまでもらい泣きよ、もらい泣き」

「はは。だって、帰ってきたら居ないんだもん、そりゃ焦るよ普通」

 

 私が中学の頃、それまで病気なんてしたことなかった婆ちゃんが、風邪を拗らせて入院したことがあった。ちょうど私は部活の合宿遠征で他県に二泊三日の外出中、帰宅と同時にそれを父から聞いた。軽い肺炎だからすぐに退院できる、なんて言葉も耳を通り抜け、気付いたら私は病室のベッドの横、婆ちゃんの足元に突っ伏して泣いていた。

 その時初めて、婆ちゃんが死んでしまったらどうしようという恐怖に、全身を支配された。それから度々、「いつか婆ちゃんが死んでしまったら」を想像しては怯えるようになった。

 

 婆ちゃんを、直視できない。

 

「私が入院した時さ、あそこの病院のご飯全然おいしくなくてびっくりしたわ。絶食明けじゃなかったら毎回残してたな、たぶん」

「……」

 

 これは、就職してたしか、三年目だったか。父母が結婚三十周年の記念旅行に出掛けている間、私はタイミング悪く胃腸炎になった。家に一人でいられるような状態ではなく、父母にも連絡し、大事をとって入院することにした。せっかくの記念旅行だから、途中で帰って来させるのも気が引けた。

 

 婆ちゃんは、何も言わない。

 震える唇をギュッと噛み、握った拳に力を入れる。

 

「せいじん……成人式のさ、あれ覚えてる?私が二次会でデロデロに酔って、帰ってから夜中にラーメン作り始めてさ、熱くて食べれなかったから冷まそうとして冷凍庫入れてさ、次の日母さんが冷凍庫開けたらどんぶりに綺麗に盛られたカチコチのラーメン出てきてさ、何コレえ!?って叫んだの」

「……」

 

 やっぱり、何も言わない婆ちゃんの後ろで、また花火が上がる。

 婆ちゃんは、一度も花火の方を見ない。

 

「婆ちゃん……ねえ、婆ちゃん、もう一回、入院したの、覚えてる?私が高校卒業してすぐさ、婆ちゃん、具合悪くなってさ、春がくるちょっと前だよ、覚えてる?」

「……」

「ねえ、婆ちゃん……」

 

 返答は、ない。穏やかな笑顔で私を見つめるばあちゃんの背後では、終わりに向かって次々と大きく派手な花火が咲いては散っていく。堪えきれなくなった涙が、両目から溢れてぼたぼたと落ちる。

 

 あの日も、こうして花火を見たんだ。病室の窓から。

 涙でぼやけた視界が、キラキラしてうるさかった。

 夏の終わり、大好きな人の最期。

 

 私のウエディングドレス姿を見るまでは死んでも死なない、なんて豪語していたのに、成人式の晴れ着姿すら、見せてやることは出来なかった。

 

 ミヨ婆ちゃんは、十一年前の夏にこの世を去っている。

 

 

 

 

 

【Chapter.8 連れて行かないで】


 癌だった。それも、末期の。

 

 判明してからは、あっという間だった。あっという間に病状は進み、余命一年と言われたのが、次の説明では半年もつか、次は三ヶ月と、どんどん短くなった。本人がとても元気だったからか、癌細胞もとても元気だったらしい。クソが。

 あんなに元気だった婆ちゃんは、元から小柄ではあったけど、もっと小さく、骨と皮だけになった。亡くなる瞬間、本当にフッと、本当に魂が抜けていったみたいに、婆ちゃんの呼吸は止まった。両脚から力が抜けて床にへたり込んだ私の時間は、あの日を境にどこか止まってしまったんだと思う。

 

 ……でも、だ。でも、よ?

 

 私だって、伊達にその後十年余り、人間生活送ってない。

 辛いこともしんどいことも、いっぱいあった。それでもこうして生きて来られたのは、婆ちゃんとの思い出があったからっていうのも大きい。だから。なんで今になってこうして目の前に現れたのかはわからないけど、何か伝えたいことがあるのなら、全部聞きたい。もしも、絶対にないとは思うけど、何かが気に食わなくて私を連れて行こうとしてるなら、同行はできないと毅然とした態度で伝えなければならない。

 そして何より、こうして予期せずではあるが再び会えたのだから、あなたのことが大好きだと、ありがとうと、ちゃんと言葉で伝えたい。そばにいた頃は、気恥ずかしくてちゃんと言えなかった言葉を、今度こそ。

 

 ばちん、と両手で頬を叩き、婆ちゃんに向き合おうとした、そのとき。

 

 滑るように走っていたタクシーが、突然停車した。ブレーキに気付かなかったぐらい、静かに、すーっと、止まった。花火は、もう上がっていない。何事かと車外に目をやると、私たちが乗った車の正面に、扉が見えた。それ以外には木と細い畦道しかない夜の帷の中に、銅色の片開きドアがポツンと置かれている。ヘッドライトに照らされたそのドアに気づいた瞬間、婆ちゃんが慌てて車のドアを開けようとし始めた。ガチャガチャとノブを引っ張っているが、ドアが開く気配はない。鍵が、かかっているのか。

 

「婆ちゃん、どうしたの?」

「ああ、大変!大変なの、ごめんなさい、私、私のせい!車を降りて、早く!ああ、ニレちゃん、早く!」

 

 幽霊なのは間違いないのに、私より婆ちゃんの方が慌てている。いや、私が落ち着きすぎなのか。あの扉が、まずいのだろうか。

 

 前方に見えている扉が、ゆっくりと反対側へ吸い込まれるように開いていく。扉の先は、何も見えない。ヘッドライトの光も、扉の枠の所でブツンと不自然に途切れている。

 うん、確かにあれはまずそうだ。入らない方が良さそう。車はゆっくりと進み始めたけれど、婆ちゃんはまだドアノブをガチャガチャやっている。どうせ飛び降りるなら、一緒に連れて行こう。伝えたいこと、あるし。そう決めて、婆ちゃんの肩にそっと手をかけた、その瞬間。

 

 婆ちゃんの姿が、消えた。

 

 もとから何もなかったみたいに、誰もそこに乗ってなかったみたいに、後部座席には、私一人。

 

「婆ちゃん!?」

 

 慌てて車内を探す私の耳が、異様な音を拾った。

 ガサガサ、ボリボリ。ゴソゴソ、ムシャムシャ。

 

 違和感に気付き、ゆっくりと視線を下げる。座席の上に、さっき婆ちゃんがポケットから取り出した、大量のお菓子が散らばっている。そのお菓子を、細長い、黒い、腕が、鷲掴みにしては持っていく。腕は、運転席と助手席の間から伸びている。

 

「うわっ!?」

 

 思わず、声を上げた。座席の上に尻餅をつく。

 異常に長い、運転手の左腕が、婆ちゃんがくれたお菓子を次々に取っていく。奇妙な音は、運転手の咀嚼音だった。

 

 タクシーは、扉の中に吸い込まれていった。

 

 

 

 

 

 

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