第三楽章 奥手と晩生と八重奏

耳も覆うべきだったのでは

     ◇




 晩生=おくて。種を蒔いてから収穫までの期間が長いもの。晩稲とも。対義語として早生わせ、早稲がある。




     ◆


 クロとの一戦を終えた休日、俺は例によって遊馬さんのアパートへお邪魔していた。

 話を耳にしたホノさんが心配そうに気遣ってくれる。

 遊馬さんの部屋はいつ何時来訪しても、室内の散らかりようが一定の水準をキープしているので、必然的に腰を下ろせるスペースは決まっている。俺とホノさんはテーブルから少し離れた空きスペースに並んで座っていた。家主はベランダで一服中である。


 「大変だったわね……」

 「……正直、命の危機を感じました」


 遊馬さんから渡された卯槌を、心の底からアテにしていた訳ではない。しかし心のどこかでは、有事の際に危険から身を守ってくれると信じていた。

 まさかクロが、お守りを引きちぎる暴挙に打って出るとは夢にも思わなかったし、これまで実際に危害を加えようと試みた雷神がいなかったのも油断する一因だった訳だ。


 「首の傷は大丈夫?」

 「まだ少し痛みますが……そのうち落ち着くかと」


 鏡で視認した傷は、切り取り線にも似た点々が楕円だえん形にクッキリと残っていた。

 雷神による噛み付きの結果とはいえ、あくまでもむつみの体によるものだと動かぬ証拠に少しホッとした自分もいる。

 これで如何にも蛇の牙に刺し貫かれた丸が二つ、といった傷痕なら精神的ダメージが上乗せされたいたかもしれない。


 ……想い人による噛み付き痕、と表現すると何だか少々エロティックな響きもあってドキドキしてしまうのは内緒だ。

 俺の傷を目にしたホノさんは、顔をしかめて頭を下げる。


 「……黒雷が迷惑を掛けて本当に御免なさい。あの後、厳しく叱っておいたから」

 「いえ、問題ないですよ。クロにも辛い思いをさせましたし……痛み分けってところで」


 俺の強がりを聞いても、ホノさんは表情を曇らせたままである。

 彼女に非は無いというのに、自分の失態であるかの如く責任を感じてしまう慈悲深さを見ていると、本当に凶暴な雷神なのかと疑わしくなってきてしまう。

 ホノさんを笑顔にしようと知恵を巡らせてみるも、なかなか妙案は浮かばずにいた。すると不意に何かを思いついた様子で身を乗り出してくる。


 「……八雲くんが嫌がるなら無理強いはしないけど……少しは治癒を早められると思う」

 「え、本当ですか? 是非お願いしたいです。一体どんな……」

 「……具体的には、傷口を舐めとります」

 「え」


 べろり、と常人よりも遥かに長い舌を覗かせるホノさんに、ドキリとしてしまう。

 今なんて言った。舐めとるって言ったか。

 ナニで? 舌で? ナニを? 傷痕を?

 ただでさえお姉さんオーラに溢れ、魅力的なオーラに満ち溢れたホノさんが。

 八色雷神の中で最もエロ――否、色気がある(深川八雲調べ)ホノさんが?


 「え……っと……」


 ハッキリとした拒否の意思を示さない俺を見て、オーケーだと納得したのだろう、ホノさんが更に身を寄せてくる。

 ふわりと香る甘い匂い、耳に髪を掛ける仕草、淑やかな雰囲気に反比例する長い舌。

 全ての要素が男子高校生には刺激が強すぎる。


 「……因みに松、竹、梅、と三種類のコースがあるけど」

 「……っ……う、梅でお願いします……」


 いかがわしいお店のレセプションを想起させるやり取りに、俺の鼓動は早鐘みたいにテンポアップしていた。

 ……いや、そんなお店に行った経験はないけれど。

 一瞬だけ松を選んでいたら……と好奇心に駆られたが無視する。

 体が触れ合わない距離ギリギリで、ホノさんは俺の首筋に舌を這わせていく。

 生暖かい感触が唾液を潤滑油にして、艶めかしい生き物の如く動き回り、むず痒さと気恥ずかしさが渾然一体となって襲い掛かってくる。


 「……んっ……はっ……」


 漏れ聞こえてくるホノさんの声と荒い吐息も相まって、俺の理性が微塵切りにされていく。

 目を閉ざして心の平穏を取り戻そうとしたけれど、視覚情報を遮断したせいで聴覚と触覚がフル稼働を初め、動悸はオーバービートの一途を辿る。


 まるで永遠のような時間が過ぎ、ホノさんが体を離す。

 長い舌から唾液の糸が一筋伸びていたのが、今日イチでドキドキしたシーンだったのは絶対に秘密だし、コース選択で松を選んでいたらどうなっていたのか……なんて全然全く思ってはいない。本当だ。


 「……お疲れ様、八雲くん。気持ち悪くなかったかな?」

 「はい、ありがとう御座いました。二つの意味で」


 俺の言葉の意味を図りかねたのか、ホノさんは可愛らしく首を傾げていた。

 それとなく傷口に意識を集中させてみると、心なしか痛みが和らいだ気がする。


 「別の雷神の力も混ぜれば、治りも早められるんだけど……」


 ホノさんが口元に手を当てて、不穏な呟きを漏らした。


 「えっ……」

 「あの子なら大丈夫かしら……」


 俺の困惑を知ってか知らずか、反応を待たずに雷鳴が響く。

 バチィ! と短めの雷とともに現れた雷神は――


 「おいっす八雲! 話は聞かせてもらったよ! 傷口をペロペロして治してあげれば良いんだね? この八色雷神の中で最も治癒能力が高いと言われている私に任せて!」


 ワカちゃんは高らかに叫び、悪戯っぽく舌を出すのだった。

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