恋着、恋情、恋慕、恋々

 ひんやりと冷たいクロの両手が、俺の首に絡みつく。さほど力の込められていない行為の目的は、別にあるのだろうと即座に理解する。

 彼女の恍惚とした顔を形容するならば、さながら待ち侘びた瞬間が訪れた幼子。あるいは、捉えた獲物を甚振ろうと楽しみに打ち震える捕食者。


 くぐもった雷鳴が耳を貫いた時には、俺の体をくまなく雷が駆け抜けていた。

 満遍なくシェイクされる頭と思考、映像出力に異常をきたした視界は点滅を繰り返し、手足と指先の末端にも痺れをもたらしていく。

 一説によると、雷が人体に直撃するケースは落下してきた隕石に当たるよりも低確率だとされ、どちらかというと木や建物に落ちた雷の影響を受けるパターンが多い。


 一般的な生活を送る上で雷を直接体に浴びるなどは、まず有り得ないと見えて問題ないはずなのだが、俺の現状はどう見るべきなのだろう。

 幼馴染が雷神に憑りつかれ、彼女の体を取り戻す為に交渉に駆け回り、過程で雷神に好意を寄せられて拘束された挙句、雷を浴びせられながら「自分を好きになれ」と脅されている。

 長い歴史においても史上初のレアケースだと断言出来るはずだ。


 「ほらほら八雲……痛いよね? 辛いよね? 苦しいよね? だからほら、言って? 私のことが好きだって……ね?」

 「がっ……ぁあ……」


 瞬きをするのも疎かになった瞳で、クロは俺を覗き込みながら好意の催促を行う。

 全身に走る雷の衝撃により、意識を繋ぎ止めるのに精いっぱいで、肯定も否定も口にする余裕は一切ない。


 雷をここまで断続的に浴びれば、至って普通の人間である俺は意識障害と心肺停止を引き起こして、とっくに帰らぬ人になっている。

 それでも苦しみながら意識を保ち続けているのは、ひとえにクロが力をセーブしているからに他ならない。

 生殺与奪の権利が、半ば正気を失いつつある彼女の手の内にある状況は、絶望に近いものがあった。


 「ねえ八雲……! 八雲ってば……! ねえ……!」

 「……ぅ……ぁ……」


 絞り出す声も次第に弱々しくなっていき、今では首を振って意思を示すしことしか叶わない。ぼやける視界の中、次第に意識すら遠のきそうになっていく。


 一向に思い通りにならない現状に業を煮やしたクロは、首から手を放して顔を近づけてきた。

 次の瞬間、左の首筋に走った鋭い痛みで、俺の意識は強制的に引き戻される。

 噛みつかれたのだと思い至ったのと、生暖かい出血を感じたのは、ほぼ同時だった。


 日が暮れていき低下していく気温の中、首筋を濡らす血だけが妙に熱い。まるで俺のちっぽけな命が、少しずつ流出していくかのようだ。

 再びクロの両手が俺の首筋に掛けられ、全身を伝う雷。

 鈍い雷鳴に紛れ、水分が蒸発していく音が耳に届く。恐らくは付着した血液が奏でる断末魔だろう。

 鼻をつく血の匂いと鉄の匂い。

 雷の衝撃と首筋の痛みで、意識が薄れていく。


 「何で……? 何で……? 何で……!?」


 雷神の力を、雷の力を以てすれば、俺が頷くと考えたのか。

 衝撃と痛みで脅せば、他愛もない人間一人の気持ちなど、動かせると侮ったのか。

 クロの困惑する様子が、手に取るように分かった。


 「私だって、大好きな八雲にこんなことしたくないよ……! でも八雲は私が好きじゃないから……好きになってくれるように力づくで……! 何で何で何で……? 痛いはずなのに、辛いはずなのに、苦しいはずなのに、八雲は頷いてくれなくて……! 私の、方が……痛くて、辛くて、苦しくて……っ……!」


 目まぐるしく変化していくクロの感情の昂ぶりは、困惑を経て彼女の頬を濡らしていた。

 ゆっくりと、首筋に掛けられた力が弱まっていく。


 「……なあ、クロ」


 遠のく意識の中、俺は震える体と声でクロに向かって言う。

 両手が辛うじて動くのを確認し、彼女の手をゆっくりと自分の首から剥がしていく。


 「……せっかく勇気を出してくれたのに、答えてやれなくて申し訳ない。心も体も傷つけさせて……」


 力なく垂れたクロの右手に目をやる。

 卯槌を引きちぎった際の彼女の血と、俺の首筋の血。混ざり合った血液は赤黒く変色し、焼けただれた手のひらは見ているだけで痛ましい。

 俺はクロの右手を、両の手で優しく包み込む。


 「……本当に、ゴメン」


 人から好意を向けられることに慣れていない俺は、他人の感情の機微に疎い自覚はあった。

 だがこうして真っすぐな――真っすぐ過ぎる想いをぶつけられて、想う側、想われる側の気持ちというものに初めて触れた気がした。


 「――改めて言わせてほしい。クロの気持ちは嬉しいけど、俺は自分の想いに嘘をつきたくないし、やっと向き合う勇気の出たこの気持ちを――むつみに伝えたい」


 両の手に、力を込める。

 クロが小さくしゃくりあげ、鼻を鳴らす。

 荒々しく鳴り響いていた雷は、身を隠して姿を見せない。

 季節外れの霹靂神は、現れる時も去る時も、一瞬だった。


 「分かった……八雲のこと、諦めるから……嫌いにならないで?」


 ぐしゃぐしゃの声でクロが呟き、俺の胸に顔を埋めてくる。


 「ああ、それは勿論」

 「……でも精神的な浮気は大歓迎だよ?」

 「いや、一言多い」

 「……蛇だけに、蛇足な感じを表現してみた」

 「別に上手くはないな?」


 こうして。

 一番の難敵とされた黒雷とのネゴシエーションは、俺の体を賭した必死の説得によって幕を下ろすこととなった。

 情けなくても、泥臭くても。

 打ちのめされようが、転んで傷だらけになろうが、歯を食いしばって立ち上がる。

 不格好でもやり切る大切さを学んだ俺は、また一つ成長出来た気がした。

 寝ころんだまま見上げた空は、とっぷりと暮れて雲も流れ、散りばめられた星が輝いている。

 肌を撫でる、冷たくて澄んだ空気。


 秋は終わりを告げ――冬がそこまでやって来ていた。

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