レクチャーしている暇はない
驚天動地の出来事から一夜明けて、俺は少しばかり早起きをして遊馬さんのアパートへ向かうためバスに揺られていた。
むつみが八色雷神に憑りつかれた委細を大っぴらにする訳にはいかないし、体を取り戻すのにどれほどの時間を要するのか、現段階では全く想像もつかない。
達成すべき目標は大きく二つ。
一つ目はオオカムヅミ――桃の入手なのだが、今は時期外れも甚だしく正規ルートでは手に入らない。ならば加工品でも……と提案した俺の意見は、遊馬さんに一刀両断された。
何でも熱を加えたり冷やしたり、刃物を入れるという行為は本質を変化させてしまうのだとか。神話と同じ効力を期待するのなら、桃そのものの形を崩さないのが理想的だと。
桃に関しては遊馬さんが調べておくと言っていたので、とりあえずは任せることとなった。
問題は二つ目だ。
八色雷神の説得――ネゴシエーション。
ホノさんは今すぐにでもむつみの体から出ていく、と言ってくれてはいるものの、他の雷神たちはそうではない。長い歴史の中で初めてとも言える人間としての生活――彼女たちにとっては願ってもない経験で、一人ひとり説得していくのは骨が折れるどころの苦行ではないが、他に有効な手段がない以上は縋るしかないのだ。
事を大きくするのは俺も遊馬さんも反対だったし、むつみ本人も望まないだろう。
日常生活のフォローは家族である遊馬さんに任せておけば何の問題もないが、学校生活となるとそうもいかない。プレッシャーの重さに胃の痛みを覚えつつも、俺が尽力するほかなかった。
しばらくの間は早起きが確定事項となり少しばかり憂鬱ではあったものの、むつみの為だと自分に言い聞かせ、怠惰な自分を蹴り飛ばして黙らせる。
バスの窓から流れていく街並みを眺める。目に飛び込んでくる見慣れない景色は、俺の日常が紛れもなく変化しているのだと見せつけられているようだ。
昨日までの代わり映えのない日常が過ぎ去っていく。
惰性で漫然と続いていた、俺とむつみの関係。
急激な路線変更を余儀なくされたその先に、どんな結末が待っているのかは誰にも分からない。
浮かんでは消えていく、取り留めもない思考の泡。
ひと際大きな泡が浮かび上がってきたところで、目当てであるバス停の名前がアナウンスされ、俺は降車ボタンに手を伸ばしたのだった。
アパートへ到着し、チャイムを鳴らすと昨日のように遊馬さんの気の抜けた返事が返ってきて、促されるまま室内へお邪魔する。
「おはよう、八雲くん」
制服に身を包んで朗らかな挨拶を発するむつみ――ではなく、漂う柔和な雰囲気はホノさんで間違いないだろう。
「おはよう御座います、ホノさん」
「あら、よく分かったね。ちょっと嬉しいな」
ふふ、と目を細めて笑うホノさんは今日もお姉さんオーラが全開だったが、そこはかとなく言葉尻や顔色から疲労の痕が見え隠れしていた。
「……だいぶお疲れみたいですね」
「昨晩から遊馬さんと一緒に、他の雷神たちへ教えるための規則を書き出していたの」
ホノさんは手のひらサイズの手帳を取り出し、手渡してくる。
パラパラと中に目を通すと、人間社会での過ごし方、遵守すべき事柄やルール、最低限身につけておくべき常識などが事細かに記されていた。
小さな手帳とはいえ、ほぼ一冊書き尽くすのはかなりの手間であっただろう。ひょっとすると徹夜に近い重労働だったのかもしれない。
数時間の早起きに弱音を吐いていた自分は、とんでもない甘ったれだったと思わざるを得なかった。
「表に出ている人格――例えば私が見聞きしたことを他の雷神たちへ共有は出来ないから、こういった方法を取るしかないの。引っ込んだ後なら、むつみさんの中で意思疎通は可能なのだけれど……流石に手間だから」
「それはまた、大変な……お疲れ様です」
漠然と表に出ている雷神の感覚を共有していると思っていたが、そう単純な話でもないようだ。
むつみの中で眠っている人格はともかく、表に出ている際は完全にスタンドアロン――切り離された状態だということか。
「八雲くん、私もホノさんと一緒に必死こいてルールブック作りに力を貸したのに、労いの声ひとつないのは悲しくなるし、妬けてしまうねぇ」
のそのそと姿を現した遊馬さんはジャージに身を包んでいて、確かに疲れ果てた風体をしていた。昨日見た気だるげなオーラに輪を掛けて疲労の色が濃い。
ついでに付け加えると、爽やかな朝には相応しくないアルコール臭も添えられている。考えたくはないがこの人、アル中一歩手前なのでは。
「お疲れ様です……でもあの、酒臭過ぎるんであんまり近づかないで下さい」
「酒に溺れた美人女子大生というのも、男子高校生としてはグッとくるだろう?」
「ちょっと賛同しかねますね」
不満そうにむくれる遊馬さんは、完全に酔っ払いと化している。ホノさんと同じお姉さん属性だというのに、この違いは何なのか。
楚々として気品すら感じるホノさんと、
どちらが神で人間なのか分からない。酒に溺れるダメ人間である遊馬さんの方が神様っぽさを感じさせるのは、皮肉が過ぎて笑えなかった。
「このままだと八雲くんからの評価が、『頼りになる美人なお姉さん』から『酔っ払いの美人なお姉さん』に格下げされてしまうねぇ」
「元の自己評価ですら、首がつりそうなくらい遥か上空ですけどね。しかも頑なに美人の看板を外そうとしない」
もちろん否定はしないけれど、素直に頷くには躊躇いを覚えてしまう。
『黙っていれば』の枕詞を進呈したいと心から思った。
「仕方ない――少しは良いところを見せてあげようじゃないか」
言いながら遊馬さんはストラップにも似たお守りのような何かを取り出した。
赤、白、青、黄、緑の紐が組み合わさり円を三つほど描き、下にある四角い木の立方体を通って色鮮やかな髭のように垂れている。
「何ですか? それは」
「簡単に言えば邪気祓いのお守りでね――
遊馬さんはホノさんの後ろに立ち、卯槌を彼女の首に巻き付けた。かと思いきや、制服のネクタイを緩めボタンを外し始めたではないか。俺は慌てて顔を逸らす。
「おやおや。紳士だねぇ、八雲くん」
「せめて一声掛けてくれません? ビックリしますから……」
遊馬さんの「もういいよ」の声で俺はホノさんの方へ向き直った。崩された制服は元通りになっており、安堵する。
「目立たないデザインでもないから、服の中に隠すのがベストだろう」
「でも邪気祓いのお守りなんですよね? ホノさんは身に着けていて大丈夫なんでしょうか」
「あら八雲くん。私が邪神だって言いたいのかな?」
「いえ、そんなつもりでは……」
ニンマリと唇を歪めながらホノさんが俺をからかうが、品のある言動に不快感は毛ほども感じない。それどころか少しドキドキしてしまったではないか。
遊馬さんの弄りと雲泥の差だったのは言わないでおこう、後が怖いから。
「私が善神だとは口が裂けても言えないけれど――この卯槌はね、『邪気』を祓うもの。八雲くんや遊馬さん、その他一般人に対してみだりに危害を加えないようにするのが目的なの。『危害を加えようとする意志』に反応する仕組み――とも言えるかしら」
つまり雷神たちの無差別な攻撃性を封じ込めるためのもの――という訳か。だから、危害を加える素振りなど微塵も見せないホノさんが身に着けていても、何も起こらない。
これから先、凶暴な雷神と相対した際には俺を守ってくれるのだろう。
すっかり話し込んでいて忘れそうになっていたが、今日は平日で俺たちは学生である。スマホの時刻表示が差し迫った時間を報せていた。
「ホノさん、そろそろ――」
「ええ、でも御免なさい。夜通し起きていたから流石に私も限界なの…いきなりで申し訳ないけれど、ちょっと別の雷神に代わらせて貰うわね」
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