じようの肉体はもはや疲れ切っていた。

 ある日、かれは、とある道ばたにぶっ倒れ、そのまま深いねむりに落ちてしまった。まったく、何もかも忘れ果てたこんすいであった。渠はこんこんとして幾日か睡り続けた。空腹も忘れ、夢も見なかった。

 ふと、を覚ましたとき、何か四辺あたりが、青白く明るいことに気がついた。夜であった。明るい月夜であった。大きなまるい春の満月が水の上から射し込んできて、浅い川底を穏やかな白い明るさで満たしているのである。悟浄は、熟睡のあとのさっぱりした気持で起上がった。とたんに空腹に気づいた。渠はそのへんを泳いでいた魚類を五、六尾づかみにしてむしゃむしゃほおり、さて、腰にげたふくべの酒をらつ飲みにした。うまかった。ゴクリゴクリと渠は音を立てて飲んだ。ふくべの底まで飲み干してしまうと、いい気持で歩き出した。

 底のさごの一つ一つがはっきり見分けられるほど明るかった。水草に沿うて、絶えず小さなみなの列が水銀球のように光り、揺れながら昇って行く。ときどきかれの姿を見て逃出す小魚どもの腹が白く光ってはあおどろの影に消える。悟浄はしだいに陶然としてきた。がらにもなく歌がうたいたくなり、すんでのことに、声を張上げるところだった。そのとき、ごく遠くの方で誰かの唱っているらしい声が耳にはいってきた。渠はたちまって耳をすました。その声は水の外から来るようでもあり、水底のどこか遠くから来るようでもある。低いけれどもすみとおった声でほそぼそと聞こえてくるその歌に耳を傾ければ、


こうこくのしゆんぷうふき不起たたず

しやこないてしんかのうちにあり

さんきゆうなみたこうしてうおりゆうにかす

痴人ちじんなおくむ夜塘やとうのみず


 どうやら、そんな文句のようでもある。じようはその場に腰を下ろして、なおもじっと聴入った。青白い月光に染まった透明な水の世界の中で、単調な歌声は、風に消えていく狩りの角笛ののように、ほそぼそといつまでもひびいていた。

 たのでもなく、さりとて覚めていたのでもない。悟浄は、魂が甘くうずくような気持でぼうぜんと永い間そこにうずくまっていた。そのうちに、かれは奇妙な、夢とも幻ともつかない世界にはいって行った。水草も魚の影もそつぜんと渠の視界から消え去り、急に、もいわれぬらんじやにおいが漂うてきた。と思うと、見慣れぬ二人の人物がこちらへ進んで来るのを渠は見た。

 前なるは手にしやくじようをついたひとくせありげなじよう。後ろなるは、頭にほうじゆようらくまとい、頂ににくけいあり、みようそうたんげんほのかにえんこうを負うておられるは、何さまびとならずと見えた。さて前なるが近づいて言った。

 「我はたくとう天王の二太子、もくしやがん。これにいますはすなわち、わが、南海のかんおんさつさつじゃ。てんりゆうしやけんだつより、しゆきん・人・非人に至るまで等しくあわれみを垂れさせたもうわが師父には、このたび、なんじ、悟浄が苦悩くるしみをみそなわして、特にここにくだってとくしたもうのじゃ。ありがたく承るがよい。」

 覚えずこうべを垂れた悟浄の耳に、美しい女性的な声──みようおんというか、ぼんおんというか、かいちようおんというか──が響いてきた。

 「じようよ、あきらかに、わが言葉を聴いて、よくこれを思念せよ。身のほど知らずの悟浄よ。いまだ得ざるを得たりといいいまだあかしせざるを証せりと言うのをさえ、そんはこれをぞうじようまんとて難ぜられた。さすれば、証すべからざることを証せんと求めたなんじのごときは、これをごくの増上慢といわずしてなんといおうぞ。爾の求むるところは、かんびやくぶつもいまだ求むるあたわず、また求めんともせざるところじゃ。哀れな悟浄よ。いかにして爾の魂はかくもあさましき迷路に入ったぞ。正観を得ればじようごうたちどころに成るべきに、爾、しんそうるいれつにしてじやかんに陥り、今このさんりようの苦悩にう。おもうに、なんじかんそうによって救わるべくもないがゆえに、これよりのちは、一切の思念をて、ただただ身を働かすことによってみずからを救おうと心がけるがよい。時とは人の作用はたらきいいじゃ。世界は、概観によるときは無意味のごとくなれども、その細部に直接働きかけるときはじめて無限の意味をつのじゃ。悟浄よ。まずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め。身の程知らぬ『何故』は、こう一切打捨てることじゃ。これをよそにして、爾の救いはないぞ。さて、今年の秋、このりゆうを東から西へと横切る三人の僧があろう。西方きんせん長老のうまれかわりげんじようほうと、その二人の弟子どもじゃ。とうたいそうこうていりんめいを受け、てんじくこくだいらいおんだいじようさんぞうしんぎようをとらんとておもむくものじゃ。悟浄よ、なんじも玄奘に従うて西方におもむけ。これ爾にふさわしき位置ところにして、また、爾にふさわしき勤めじゃ。みちは苦しかろうが、よく、疑わずして、ただ努めよ。玄奘の弟子の一人にくうなるものがある。無知無識にして、ただ、信じて疑わざるものじゃ。爾は特にこの者について学ぶところが多かろうぞ。」

 悟浄がふたたび頭をあげたとき、そこには何も見えなかった。かれぼうぜんと水底の月明の中に立ちつくした。妙な気持である。ぼんやりした頭の隅で、渠は次のようなことをもなく考えていた。

 「……そういうことが起こりそうな者に、そういうことが起こり、そういうことが起こりそうなときに、そういうことが起こるんだな。半年前のおれだったら、今のようなおかしな夢なんか見るはずはなかったんだがな。……今の夢の中のさつの言葉だって、考えてみりゃ、じよ氏やきゆうぜんねんの言葉と、ちっとも違ってやしないんだが、今夜はひどく身にこたえるのは、どうも変だぞ。そりゃ俺だって、夢なんかが救済すくいになるとは思いはしないさ。しかし、なぜか知らないが、もしかすると、今の夢のお告げのとうそうとやらが、ほんとうにここを通るかもしれないというような気がしてしかたがない。そういうことが起こりそうなときには、そういうことが起こるものだというやつでな。……」

 渠はそう思って久しぶりに微笑した。

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