【02-09】鉄血女王

【闇夜の世界へ悪魔が誘う】


 扉をくぐると男は突然歩みを止めた。暗闇に誰かの気配があった。取り囲む空気が一瞬で凍りつくような錯覚に陥る。わたしからは男の背後しか見えず、向こう側にいるのが誰なのかわからない。


「良い魚を釣るには良いエサを――。グリゴリの下っ端でも引っかかれば御の字なところを、まさかご本人様がわざわざ来るとは」


 声の主は陽気に、しかし冷徹な態度で言葉を吐く。

「わざと情報を流しただろう。本気でマスターブラッドを確保したければこんな猶予はなかった。極秘かつ迅速に動くのがお前らヴァンパイアのやり方だ。おまけに霊柩車に乗って情報を嗅ぎまわる妙な女の噂まで広めやがって。オレを誘き寄せる材料が揃いすぎてる。残念だがエサをかける釣り針が見えすぎだ」

「だが罠と知っていながら、それでもお前はやって来た」

「そうさ。オレは生粋のヘマトフィリアで、今度こそお前を地獄に堕とす。残念だが釣られたのはお前のほうだ」

「お生憎様あいにくさま、一度そこから這い上がってきたとこなの」

 刹那、アルマロスの身体が頭部からガクンと弾かれた。流血はなく、どんな手を使ったのかは不明だ。

 倒れたまま動かない男に近寄るのは虎姫さんだった。あの霊柩車もすぐ近くに停車している。彼女は男の手首と足首に素早く拘束具をはめていた。


「……この世界こそが本当の地獄よ。お前たちがいる限り」

 葬った悪魔を見下し、ポツリと呟く。闇を背負う彼女の表情は見えない。

「……殺したんですか?」

 私の問いかけに彼女は顔を上げる。

「気絶させただけ。ワタシたちは殺し屋じゃないからね。ごめんなさい、来るのが遅れて。怪我はない?」

 わたしは頷き、虎姫さんへ駆け寄ると抱きしめられた。温かく、柔らかい優しさに包まれる。抱擁されると緊張が和らぎ、落ち着きを取り戻した。

「どうしてもこの男だけは捕らえたかった。チャンスは今しかなくて、ボタンちゃんにおとりをさせてしまい申し訳ない。結果は大成功、あなたのおかげよ」

 人生で初めて褒められた。わたしは生きていて良いのかもしれない。

「とりあえず部下たちも合流に向かってきてる。一旦、車に乗りましょう。そういえば保護したいもう一人は?」

 わたしはずっと握り締めていたガーゼを取り出した。中身を見た虎姫さんはすぐに状況を悟った。

「……そうか、辛かったね。ねえ、四葉のクローバーの花言葉、思い出したよ。幸運、約束、そして独占と復讐。……ボタンちゃん、将来はワタシと一緒にさ、奪ってきた奴らを叩き潰そ?」

 わたしは手を引かれるまま車の助手席に乗り込んだ。この人の向かう先に、わたしも一緒に行きたかった。

「どこまでも、連れて行ってください」

「地獄までエスコートしてあげる」

 運転席に腰掛けて微笑んだ虎姫さんの顔が、何かを捉えた瞬間、強張った。


「――奇遇だな。オレも地獄から追い返された」


 アルマロスは拘束具を解き放ち、立ち上がっていた。車に向かってゆっくりと歩み寄ってくる。

「あの拘束具、溶断でもしない限り壊れないんだけどね」

 やはり人間じゃない、悪魔的怪力だ。

「オレを殺したのは左目をえぐったお前でも、左手を奪ったあの吸血鬼でもない。そこの娘、志賀ボタンだ」

 男はまっすぐにわたしを指差してきた。

「……本当に?」

 虎姫さんからは疑いの目。当然だ。

「記憶が曖昧なんですけど、北区の医院にあの男が出入りしていて。直に採血される毎日が嫌になって、それで……」

「殺人? いや、死んでないしな。……あーあ、やっぱ殺すか」

「へっ?」

 エンジンが始動して小刻みな振動がシートから伝わる。

「シートベルトして。あと口閉じて、舌噛むよ」

 言い終わる前に、車は急発進した。

 一瞬で男に迫り衝突する。

 鋼鉄と肉が弾け合う。

 人体がボンネットに乗り上げてフロントガラスにヒビを入れるも、虎姫さんはアクセルを踏み続ける。

 そして加速する車体はついに肉塊を振り落とした。地面に叩きつけられたそれは何回か跳ね上がる。

 手足が折れ曲がった状態で横たわった。

 車は急旋回と急ブレーキにより急停止、わたしは勢いのままダッシュボードに頭を激突した。

「こりゃまた総務に怒られるな」

 運転席から降りた虎姫さんは車体のへこみ具合を確認するなり言った。人間一人を轢いたことについてはおとがめなしなのか。わたしにはあの嫌な衝撃が忘れられそうになかった。トラウマ決定だ。


流石さすがだな、鉄血女王。しかし、オレを殺すにはまだまだ足りない」


 ――嘘だろ。確かに骨格があらぬ方向に曲がっていたはずだ。

 しかし、あの男は少し転んだと言わんばかりもう立ち上がっている。

 何が起こっているんだ。

「スタントマンにでも転職すれば?」

「残念ながらグリゴリは強制生涯雇用だ。死ぬまで働くか、働いて死ぬか」

「最悪な職場ね」

「今度は両腕だけでなく両足も切断してやろう。ボーナスが増えるかもしれない」

 アルマロスはコートの内側から黒い刀身のようなものを取り出した。虎姫さんはスキットルを口にすると思いっきり傾けて中身を呑み込んだ。

「ボタンちゃん、けっこうヤバいかもしれない。ワタシが引きつけてる間に、この車で逃げて」

「……免許ないですよ」

「足元の右がアクセルで左がブレーキ、ハンドルを切ったほうに車も曲がる。運転なんて、それだけだから。とにかく五条通りまで出て突っ走って。この車を見れば仲間がすぐに保護してくれる。たぶん、あの男は単独で動いているはずだけど、あれ以外の敵に出くわしたら【棺】を開けて。殲滅せんめつしてくれるわ」

 気が動転して動けないでいると、虎姫さんはわたしの襟首を掴んで無理矢理引き摺り下ろした。

「無理ですよ! わたし一人じゃ何もできない!」

 パンッと、平手打ちを喰らった。

「甘えるな小娘。神様から運命ってやつを奪ってみろ」

 運転席に身体を押し込められる。虎姫さんは厳しい表情を崩して微笑んだ。

「求めよ、さらば与えられん。探せよ、さらば見つからん。叩けよ、さらば開かれん。――あなたならできる。そうでしょ?」

「……ううっ、で、できます!」

 もうヤケクソだった。わたしは涙と鼻水を拭って頬を叩く。

 図書館で教習所の本を読んだはずだ。記憶を反芻はんすうする。ブレーキを踏みながらギアを入れてサイドブレーキを下ろす。足を離すとゆっくり前進を始める。合っていたと安堵する。アクセルを徐々に踏みこんで少しずつ加速していく。ハンドルの感覚がよくわからず右往左往するが、深夜なのが幸いして道路には他に車はいなかった。

「じゃあまた後で、ねっ!」

 虎姫さんは車の後部を思いっきり蹴ってきた。わたしは尻を叩かれた馬のように驚いて、アクセルをベタ踏みしてしまう。エンジンは唸り、わけのわからないスピードで何度も障害物を擦りながらその場を離脱した。必死という言葉はこういうときに使うのだ。


「逝っけえーっ!」

 もう笑うしかない。ハイになった頭でタコメーターを振り切った。わたしの精神も暴走している。わたしの犯罪歴に無免許運転が追加されたが、免許剥奪がないと思えば何も怖いものはない。

 舗装ままならない道路を突き進んだ。最悪な運命から逃げるように――。

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