【02-06】彼女に溺れた
【address:home】
いつもの寝床に戻ると、とっくに仕事で出たものだと思っていたツツジがまだいたのだ。
「あれ、今日仕事は?」
「……キャンセルされた。それより遅くない? 留守番するって約束でしょ」
「ごめんごめん。それよりいい話かも」
不機嫌そうなツツジは疑いの目を向けてきた。
「妙な女が話しかけてきた。やっぱり血税局の人だって」
「なんでアンタなんかに」
「隠すつもりじゃなかったんだけど、私の血液って珍しいらしくて。それの出所を探してたみたい。で、わたしを見つけた」
「それで?」
「……保護してくれるって。新しい身分と学校も約束してくれた。こんな地下とはおさらばして地上でまともな生活ができるんだよ」
ツツジは表情を変えずに
「お気楽な頭ね。そんな甘い話あるわけないじゃん。罠よ、罠」
「疑いすぎだって」
「役人を名乗る詐欺師がどんだけ
「名刺も見せてもらったし、車もなんか高級そうだった」
「そんなものどうとでもなるでしょ。呆れた。一人で勝手に地上でもどこへでも行けば。どうせ血液農場にぶち込まれて、死ぬまで搾取されるのよ」
ツツジの攻撃的な言動に、わたしの心は揺れていた。声が細くなってしまう。
「……違う。最初はわたしも誘拐されるかもって思ったけど、無理矢理連れて行かれずに、ここに戻って来れた。友達も一緒にいいって。だからツツジ」
「……友達?」
ツツジの表情はみるみる険しくなり、こちらをきつく睨んできた。わたしは見返すことができず俯いた。
「もうやめようよ、こんな生活」
乾いた音が響いて、わたしの視界が揺れていた。帽子が足元に落ちる。頬の痛みが遅れてやってきて、ツツジに平手打ちされたのだと理解した。彼女は振り下ろした右手をさらに振りかぶり、わたしの髪を掴んで顔を寄せてきた。膨らみ切った風船のように、苛立ちが破裂したのだ。
「ふざけないで! アンタを拾った恩を忘れたわけ? 私のモノが勝手なこと言わないで。私たち地下の底辺に
「…………ごめんなさい」
わたしは放心状態だった。毒舌が多くて感情的になることもあったツツジだけど、ここまで
「あー……、ごめん。言い過ぎた」
ツツジは血の気が引いたのか、わたしから手を離して、両手で顔を覆った。
「……最悪だよ。こんなの、お父さんとお母さんと一緒じゃん。こんなことしたくないのに。……ボタン、私を捨てないでよ。ああ……、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいお父さんごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいお母さんごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
ツツジは小刻みに震えて泣きじゃくりだした。情緒不安定な彼女にどう接していいかわからない。目の前にいるツツジは明るくサバサバしたお姉さんではなく、親とはぐれた迷子の幼女のように小さくなっていた。肩を抱き、背中に手を回すので精一杯だった。
「捨てないよ。どこにも行かないよ。ずっと一緒だよ」
「……本当に?」
「この地下で暮らそう」
応えるように、ツツジもきつく抱きついてきた。繰り返す
「ねえ、ハグとキスしてる間は、苦しいこと全部忘れられるんだよ」
そうして彼女は顔を近づけ、唇を塞いできた。わたしは心が追いつかないまま、されるがままに身体を預けた。一晩中、彼女に溺れた。
【※※※※※※※※※※】
事後、落ち着くとツツジは私の髪を
「こっちのが可愛いよ」
「可愛いとか必要ないから」
しかし編みこみが終わり仕上がると、首周りがスッキリして動きやすく気に入った。これなら帽子にしまいやすい。
ツツジは私のイヤリングに触れる。
「お揃い」
「うん。ねえ、四葉のクローバーの花言葉って知ってる? 幸運と約束と、それ以外にもあるんだって」
「ふーん。知らなくていいや」
「そう。……わたし、もう少し眠る」
「うん、おやすみ」
まどろみから目を覚ますと、ツツジはいなかった。わたしは一日中待ち続けたが、それから彼女が帰ってくることは二度となかった。これが喪失感というらしい。
…………嘘つき。
毒づいても虚しいだけだった。そして、ツツジとは最悪な再会をすることになることを、まだ知らなかった。
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