【02-02】ニコチンよりも気分爽快
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白、黒、赤、青、黄色、緑。湖面に並んだ6艇のモーターボートはそれぞれの色の旗と、同じ色のジャケットを身につけた選手が乗り込んでいる。内側から1号艇、2号艇と並び一番外側は6号艇。600メートルの周回コースを3周して、その入着順位を当てれば購入した券の倍の金額が返ってくるのが競艇というギャンブルだ。ボートレースは公営事業なので何も問題はない。あるとしたら、わたしが未成年ということだけだ。ただ無人券売機がわたしに年齢を尋ねることはない。
淡海府のいくつか開発されずに残された内湖のうち、ここは昔からボートレース場として運営を続けていた。
「昔は、この淡海は一面の湖だった。対岸の街や山々が良く見えたんだよ。観光船やらクルーズ船が通り過ぎると波立って、レースにも影響が出る。ここは全国の競艇場の中でも荒れやすい場だったなあ。ほら、湖全体を使って人力飛行機のコンテストも毎年やってたのよ。すごい技術を持った企業や大学のチームがあえて初歩的な造形に立ち返るってのも、中々熱いドラマがあったね」
周回展示で選手の様子をしっかり見ておきたいので、屋外観客席のフェンスに腕を乗せて眺めていると、ここ最近話しかけてくるおっさんが隣にいた。身なりは貧相ではないが何故か歯ブラシを咥えている。見た目は父と同じくらいの年齢だろうか。長い前髪で目元が見えず表情がわからない。顔見知りという仲でもないのでわたしは無視するも、なおもとぼけた調子で話し続ける。
「日蝕時代だの、吸血機関だの、この十数年でなにもかもが変わっちまった。歴史の変動はそれなりに知っていたが、戦争をしないために原油の輸入を諦めた国が、今度は『血液で動くエンジン』なんて仕組みのわからんテクノロジーを開発しちまって。しかし、これまでの科学技術ってやつはだいたいそうだった。信じられなかったモノがあっという間に世の中を支配しちまうし、楽観的な期待だけで誰も疑問に思わない。自分の血が電力や動力になり、血を売った金でそれらを買い取る。善意に頼っていた献血が義務化され当たり前の風潮になる、ってのは良いことなのかい? 反面で、いくら国が管理してるとは言え売血を合法化することで、人の尊厳を奪うような貧困や犯罪も育っていった。……例えば自動車が発明されると移動や物流が盛んになって便利になったが、交通事故や環境問題も増えていった。善悪の二律背反に向き合って納得いくカタチを探し、結局のところ、それが理由で車はなくならなかった。そんな時代の流れなんだろう。そして実証実験として、まさかこんな田舎のでかいだけの湖が大都市になっちまうなんてなあ。変わらないのはこの競艇場と、楽をして生きたい人間くらいだよ」
おっさんは毎度毎度、社会科を教える教師のような口ぶりでずっと歴史や公民について喋っていた。意外と有益な情報で、わたしはおっさんの独り言で社会通念を学習した。
「アステカ帝国の首都であるテノチティトランも湖上都市だった。沼地を干拓して築き上げ、当時の世界の中でもかなり栄えた都市だったそうだ。が、ある日のこと神の再来と思われた来訪者はただの侵略者で、あっという間に征服された。新たな支配者によって湖面のほとんどは歴史と一緒に埋め立てられ、その形跡なんかありゃしない。みんな忘れていく。ココもいずれそうなるだろうよ。競艇がなくなるなら、もう他所へ行くね。あーあ、働きたくないねえ」
おっさんはシャコシャコと歯磨きを始める。いや何故?
「昔はアホみたいに煙草吸ってたんだけども、良いことなんか一つもなかったしね。だから代わりに歯磨きを始めてみたんだ。メンソールみたいなもんだし歯も綺麗になる。最近はホラ、敷地内全面禁煙だって珍しくないだろ? コレなら場所を選ばない。ニコチンよりも気分爽快だ」
耳の中を掻き回してくるようなエンジンやモーターの爆音が止み、跳ね上がった水飛沫も湖面に波打って消えていく。展示航走が終わりボートの群れは退散していった。
しばらくすればレース本番が始まる。わたしは手元の競艇新聞に載っている選手の等級や戦績、それぞれのモーターの勝率も吟味する。コース内側の選手ほど有利である競艇で、A1やA2など強めの選手が1号艇から3号艇を固めていた。三連単『1-2=3-全』でわたしは券を購入する。5号艇は切っても良さそうだったが、まあ保険だ。他の客も似たような考え方か、電光掲示板に表示されたオッズはあまり良くない。投票の一番多い組み合わせである1-2-3と1-3-2になったら儲けにはならないだろう。今日は天候も曇りか晴れ。風も弱く波立ちも少ない。これまでの経験から、ほぼほぼ決まりのレースになるだろうと予測した。
舟券は一口1ドロップから購入できる。コツコツと勝ち続ければ、十倍や百倍にすることだって夢じゃない。……まあ、わたしの場合ほぼ夢で終わるのだけれど。
元いた観客席に戻れば、まだおっさんがその場でブツブツ呟いていた。
「人生、もうここで安定しただろう。そう思ったときに意外とひっくり返されるもんよ」
投票時間が締め切られて、いよいよレースが始まる。
ファンファーレが鳴り響き、選手たちがピットアウトしてくる。
低速でコースを取り合い、並びが確定する。
スタート約30秒前、外側のボートたちが加速する。
順に内側の選手たちも加速を始める。
大時計の針がゼロを切る直前、全てのボートがスタートラインを切った。
綺麗に並んでいる。直線コースで抜かされることはあまりなく、勝負は第一ターンのカーブでほぼ決まる。
1号艇が内周を抑えて曲がりきれればそのまま一着だし、大回りした隙を2号艇や後続艇が差し抜いていくパターンもあり得る。
これまで何度もレース見ていても、ゴールまで心休まらず無意識に手の中の舟券を握り締めていた。生活費が懸かっているのでなおハラハラする。
1号艇逃げ切る。
後続もやや乱れるが2着は2号艇と3号艇の争い、その他を振り切る。
もうこのまま固定だろう。できれば3着は4,5,6のどれかであればオッズ高くなる。少しだけ展開が乱れることを祈る。
そして選手たちは第二ターンに差し掛かる。
「――えっ」
カーブにて1号艇が転覆したのだ。
会場の誰もが息を呑んだだろう。
2号艇3号艇も巻き込まれて大きく遅れをとる。
残りの舟艇たちは失速せず大回りして抜き去っていく。
残り2周して結果は『5-4-6』。まさかの展開だ。皆、声にならない絶叫をあげて会場を揺らした。
スタート後の転覆事故であるため、1号艇を含む舟券は金額返還の対象外である。つまりわたしの今日の有り金は全て溶けた。朝から居座って、確実そうなレースのみ賭けて、少しずつプラスにしてきたというのに、第6レースで予算尽きる。ここで負けた分取り返そうと躍起になる輩も多いが、それがより悲惨な結果を生むことを知っている。深入りする前にこの場を去ろう。
ふと隣を見ると、あのおっさんの手元には5号艇の単勝舟券が握られていた。競艇で人気のない単勝を買う人間はまずいない。狙って買ったのならとんでもない先見の持ち主である。おっさんは驚きも喜びもせずに、手を振って去っていった。
きっと、あの歯磨きおじさんは競艇場の妖精だったのかもしれない。もしくは全てを知り尽くしている預言者か。
とりあえず、次会ったら仲良くしてやろう。軽々しく思ったが、意外すぎる場所で出会うことになる。
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