放浪編
【02-01】幸運のカタチ
【02】
今思えば、輸血しなければ生きられなかったあの頃とは比較にならないほど、わたしの体力は化け物じみていた。
まともに外の世界、社会に身を出すのは初めてだった。電車など公共交通機関の使い方どころかお金の使い方さえわからない。そもそも着の身着のまま飛び出したので、一銭も持たずだ。目的も定まっていなかった。とにかくあの場所から逃げ出したかった。歩き続けていれば、どこかで父と再会できると思っていた。再会してどうするかは考えておらず、漠然とただ何かが解決するのではないかと思い込んでいた。進み続けなければ死ぬのだ。吹雪の中、凍える身体をなんとか震わせて停止を拒んだ。
【address:nowhere】
屋外であろうと、屋根さえあれば一晩凌げた。繁華街の路地裏でゴミ袋が転がっていれば暖をとれたし、腐っていない残飯があれば空腹を満たせた。
やがて自分と似たような放浪者を良く見かけて、彼らの習性を学ぶようになる。人間の生命力はこうもたくましいものか。少しのモノさえあれば人間は死なないものだ。都市部の生活住民は余剰品を落としていく。無駄なくそれらを活用させてもらった。見た目が女で子供だと苦労するので、オーバーサイズの男物の服を拾い、伸び続けた髪はまとめて帽子の中に押し込んだ。
入院中に比べたら信じられないくらい不衛生な環境で過ごし見た目はボロボロだったが、毎日いつでも自身の生命の鼓動を実感できた。
その時々の衣食住をなんとかする術を身につけて、とにかくわたしは移動を続けた。まだまだ開発途上の淡海府では工事が相次ぎ、多くの人や車両が街を行き交っている。わたしなんぞに目をかける人間はいない。警保局の人間から距離をとっておけば、殺人犯のわたしでも堂々と昼間は出歩き、夜は路地裏やメガフロート建造のための名残である構造的地下スペースで野宿ができた。
もう一ヶ月くらい歩いたのだろうか。暖かいほうへ向かうという理由だけでひたすら南下してきたが、父は見つからなかった。いっそ淡海府の外へ行こうか。しかし今度はどこへ向かって?
湖上最南端の地で、わたしは目的を失いかけた。
【address:SB:24S:08W:668P:L-3】
日も暮れ始めて、屑鉄集めなど日課を終えたホームレスたちの後に続く。彼らが利用する地下区画の入り口は不法に抉じ開けられた箇所である。
淡海府では、水没都市から流れてきた移住人口が増え続け、居住スペースが追いつかないスコッター問題が各地で発生していた。府庁は黙認の形でインフラ整備用地下スペースを開放。上下水道や電線、通信ケーブルが這い通路と倉庫が配置されているだけだが、有事の避難も想定して空間自体にゆとりはあった。地元の警保局も目をつむり、配管をイジったり地上に害をなさなければ追い出されることはない。
しかし都市のスラム街問題を地下に押し込めて地上の見た目を良くしているだけの現状には府民からの避難も多く、行政から民間委託された非営利活動法人が啓発にやってくるが大きなお世話だ。場を仕切るヤクザが嫌がらせを仕掛けるか、それでも帰らなければ恐喝されるだけだった。
日蝕時代は国外へ逃げたい者が大勢いたみたいだが、今となっては三色盤上遊戯に巻き込まれたくない外国人が多数来訪してきて街は様々な人種が入り乱れている。国際規模の闇取引なんて日常茶飯事であった。
地下の整備通路や資材倉庫は非常に入り組んでおり、灯りは最低限の作業灯のみで薄暗かった。天井を埋め尽くす配管の上ではネズミや虫が忙しなく蠢いている。湿度も高く、換気設備も稼動していないので少し息苦しい。それでも凍死にならない温度はありがたかった。
さて、場所取りは慎重に行う必要がある。それぞれのテリトリーを奪うのはご法度で、先住民たちの暗黙のルールを破るものは集団で追放されるのだ。住みやすそうなエリアは既にブルーシートやダンボールなど廃品で拵えたバラックが連立する。かなり歩を進めて、入り組んだ通路の奥地に誰も手をつけていない小さな窪んだ空間を見つけた。寝転んで足も伸ばせないほどの面積だが、わたしは体育座りさえできればどこでも安眠して体力回復できるようになっていたのだ。
さっそく腰を下ろして一息つく。地上で拾った廃棄弁当と公園の水道水を溜めたペットボトルを取り出して夕食にする。着ている服も靴も、この道中のどこかで見つけて拾ったものだ。おまけにわたしは誰かの造血器官のレシピエント、志賀ボタンと呼べるものは何が残っているのだろう。そんなことを考えているうちに夢想となり、眠りに落ちていった……。
【※※※※※※※※※※】
「――ねえ、家出?」
意識を取り戻すと、女がわたしを見下ろしていた。派手な髪色と服装で年上に見えたが、顔立ちはそれらと不似合いで、わたしと同年代のようにも思えた。
わたしは涎を手の甲で拭いながら、問いに頷く。
「どっから?」
「……湖北のほうの、どこか」
「大雪で電車も道路も死んでるっぽいけど?」
「ずっと歩いて」
「はあ?」
女はしゃがんでわたしの顔を覗き込んだ。見返すと、大人とも子供ともとれない外見だ。猫のような大きな瞳。
「歩ける距離じゃないでしょ。それに良く見たら女子じゃん。ヒョロヒョロじゃん」
「たぶん一ヶ月くらい、ゆっくりきた。信じなくていいけど」
「嘘ついてもしょうがないわな。根性あるじゃん」
彼女は煙草を取り出して火を点けた。吐き出された紫煙がゆっくり昇る。
「ここらへん、秋月組のシマなの。ホームレスは邪魔しなければ怒らないけど、ヤクザには礼儀が必要」
「煩わしいなら出てくよ」
「待って待って。行くアテもないし帰りたくもないんでしょ」
わたしは黙って頷く。彼女は煙を大きく吸い込んで、長い時間をかけて吐き出した。空気の流れが悪い地下では、煙はいつまでもうねりながら残る。
「……同類かー。ねえ、私これから夜の間だけ仕事なの。ちょっと留守番頼まれくれない? そうすりゃここで悪さはされない」
彼女の言う通り、行くアテもないし帰りたくもなかった。断る理由がない。もう一度頷く。
「決まり。私はツツジ。あんたは?」
「……ボタン」
「よろしく。とりあえずここではツツジの妹って名乗れば大丈夫だから」
ツツジは煙草を差し出してくるが、わたしは断る。前に落ちていたものを興味本位で吸ってみたが、咳き込んで死ぬかと思った。ツツジは咥えていた煙草の灰を落とし立ち上がった。
「こっち」
歩き出したツツジの後を追いかけた。ツツジからは地下の匂いを誤魔化すような甘い香りが漂っていた。通路を何度も曲がると隠された広めのスペースに出る。様々な廃材で仕切られた壁は他の住居と比べて立派に見えた。
「私の城。昔は母親と暮らしてたけど、今は一人。朝になったら戻ってくるから、それまで寝転んどいて」
「何かあったの?」
「んー? ネズミに用心して」
ネズミというのがこの地下に這う動物のことか、人間の盗人のことなのかはわからなかった。
「あとコレ」
ツツジは両耳にぶら下げていた大ぶりのイヤリングの片方を外して、私に手渡した。
「ここでの身分証みたいなもんだって。昔、お母さんがくれた」
鈍く光る銀一色の、四葉のクローバーをモチーフに十字架のようなデザインだった。わたしも左耳に取り付けてみる。耳たぶがきつく挟まれて、少し痛い。
「似合うじゃん、これで私のモノだね。じゃあねー」
ツツジはそのまま出かけていった。会って一秒の他人に自分の住まいを任せるとは大胆だ。
わたしは城とやらにお邪魔して、贅沢な廃棄マットレスに寝転んだ。ツツジの私物らしいものがあちこちに散らばっている。人間の匂いがする。わたしは左耳に宿った幸運のカタチを触りながら、妙な安心感に包まれてそのまま寝落ちした。
【わたしはそこに居座り続けて季節が変わり、15歳になった】
やはりツツジはわたしと同年代で、ちょっとだけ年上であることがわかった。幼少期に、暴力的なアルコール中毒の父親から、母親と共に逃げてここに落ち着いたらしい。母親もまた蒸発してしまったらしいが、その仕事を引き継いでいるとのことだ。
仕事内容については多くを語らず、『汚物処理』と言葉を濁した。わたしはそれ以上聞かず、彼女が住まいを空ける夜の間は留守番するという約束で居候の身分となった。
彼女にもわたし自身のことはあまり話さず、ただ北区の家を飛び出して放浪していることと、父親を探していることのみ伝えた。
互いに学校などまともな教育を受けていない。この地下世界においてはツツジが先輩で色々教えてもらった。
まず、南区のこの地下街を仕切っている暴力団秋月組のこと。表向きの治安維持は警保局の役目だが、夜・裏・闇がつく稼業についてはヤクザの領分だった。秋月組はいくつかの飲食店や水商売のシノギを得ながら、特殊詐欺や薬物売買の上前を資金源としていた。加えて最近は血液の不正売買のブローカーを多数飼っており、その勢いを増しているとのこと。この地下街を餌にしながらも、その治安は極道連中によって奇妙な安定感を得ていた。絶対に逆らわないことと念を押された。
暮らしについて、体力のある男たちは毎朝、無数に募集している建設現場の日雇い労働などに従事すればなんとかなるが、女で未成年で学のないわたしたちにできることは限られている。春を売るか、落ちているものをひたすら拾い集めるか。最終手段は地下のブローカーや闇医者を通して供血収入を得ること。地上の血液センターだけが公に採血を許可されているが、そこでは身分証の提示が求められる。それはわたしたちにとって大変都合が悪いのだ。不審に思われれば間違いなく警保局の補導や児童相談所へ連れていかれる。わたしはこれまでの経験から、自分で選べない場所に強い抵抗感があった。
稼いだお金はその日のうちに使い切れとも教えられた。貯蓄したところで他人の暴力で簡単に奪われるという。確かにそうだとも思ったが、それはずっとこの地下から抜け出せない呪いのようだった。
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