【01-04】白い宇宙

【悪魔と過ごした悪夢の日々】


『始めてしまったことに責任を果たしてくる。ここに来る人間には血を与えていれば害はない。いつか全てが終わったら迎えに来る。どうか、奪う人より与える人に』

 最後はいつも通りにの言葉だった。短いメッセージの意味はわからずじまいだった。父はあれから帰ってこない。わたしは待った。


 やってきたのはヤクザである暮雪組の男たちだった。組が用意した闇医者がいつの間にか父の代わりに座っていた。医院の業務は血腥いことに挿げ変わっていった。それでも組の連中は義理堅く、先生は恩人であると告げて娘のわたしを追い出したり暴行することもなく、医院に居座らせ続けた。しかし同時に外出も禁じられた。父のことを訊ねても、誰も教えてくれなかった。彼らが父を追い出したのではないのか?


 相変わらず、採血だけは続けられた。担当するのは闇医者ではなく、長身長髪の黒コートの男だった。鋭い目つきは猛禽類のようだ。左目と左腕を損失していた。

 私の内肘に刺さる針は血液を吸い上げて、チューブを通してパックに溜まっていく。男はそこから目を離さない。

『俺は血液を愛でるヘマトフィリアだ。医者になれば良かったが、環境がそれを許さなかった。教師に進路相談を乞わなくてもハローワークに行かなくてもわかる。俺は殺し屋になるしかなかったのさ』

 男は暮雪組とはまた違う組織の人間らしい。組の連中ですら遠巻きに恐れている存在だった。

『神は信じなくてもいい。だが悪魔は信じておけ。奴らはいつでも人間を蝕んでいる。抵抗するのは苦しい。だったらどうするか。自分も悪魔になればいい。自分の悪魔を解放するんだ』

 男は普段全く喋らなかったが、採血のときだけは雄弁だった。【悪魔崇拝結社】、【グリゴリ】、そんな単語も聞こえたが意味はわからなかった。ようやくわかったのは【アルマロス】、それが男を識別する名前のようだった。右手の甲の、翼を模した文様の入れ墨をしきりに舐めるのが男の癖だった。

『マスターブラッドは高額商品だ。血液公社の取引価格の数百倍の値段でも惜しまないほど、世界中の闇市場で愛好家が多い』

 ――わたしの血液を売っているのか?

『そもそもお前の父親が組織に話を持ちかけたのが始まりだった。とてつもない金額が動くから、あちこちからハエが沸くだろう。俺がついていなけれお前は今頃、ブラッドサッカー同士の戦争に巻き込まれて絞り雑巾にでもなっていただろうな。こんなケチな医院を建て替えて、高層ビルのオーナーにでもなるかと思えば、まさか娘を置いて飛ぶとは』

 ――預血ではなかったのか? 父は初めから血液売買が狙いだったのか?

『感謝してるぜ。この国は、悪魔にとっての天国だよ』

 男の、地面を震わすような低い声が腹の底まで揺らす。耳の奥まで舐められたような不快感。視界が歪んできた。吐き気を催す。気持ち悪い。

 ――奪う人より与える人になれとは、そういうことなのか? 父は与える人でもなく、奪われる人でもなく、奪う側の人間だったのか? 奪い続けたわたしが、今度は奪われ続けるというのは報いなのか? 与える人間というのは、嘘だったのか!


【発火】


 腹の底から沸き立つ感情に身を任せて、わたしは採血針を引き抜いた。

 体内を勢いよく巡る血液が筋肉を支配する。

 頭に血が昇り、その熱で理性が融解した。

 生存本能の獣が唸る。

 これが憤怒というものか。

 引きずられた採血器具が勢いよく倒れて、甲高い音を響かせた――。


【※※※※※※※※※※】


 男は目を開き、薄ら笑いを浮かべて仰向けに倒れていた。わたしは仁王立ちで、それをただ見下ろしていた。男の首筋から一点、噴水のように血液が立ち昇る。落下したそれは床に広がり、血だまりと血飛沫が部屋中を赤黒く染めた。

 わたしはようやく状況を理解して、右手に握りしめている折れ曲がった針を落とした。


 息を吐く、長く、長く。

 息を吸う、長く、長く。

 繰り返す、繰り返す。

 やがて、身体の震えが治まっていく。


『……こんな世界は間違っている。……こんな世界は否定してやる』


 涙を堪えた。無駄な血はもう流したくない。今度こそ、命の使い方を間違えたくない。

 ――ここから逃げるんだ!


【これがわたしの、初めての殺人】


 人生初の全力疾走だった。院内には誰かいたかもしれないし、いなかったのかもしれない。そんなことを気にする余裕はなかった。無我夢中で外に向かった。裏口のドアを蹴破った。


 ――そこは白い宇宙だった。


 降り積もる雪が全ての音を消していく。景色の輪郭を曖昧にさせ、どこに向かえばいいのかわからない。吐く息が白い。肺の中が凍っていくような錯覚。容赦ない降雪が、わたしの身体も白くしていく。絶望に漂白されていく。奪われる、のか?

 そこに一つ、赤い点が滲んでいく。

 左腕から垂れた血。

 わたしから流れる、心臓が鼓動し、脈打って送り出される、熱を持った血液だ。

 白く染まらないわたしの証。

 生きる、生きていく。

 なにがなんでも。

 一歩を踏み出す。膝まで雪に埋まる。もう一歩踏み出す。積雪から足首をなんとか抜いて、さらにもう一歩。繰り返す。温度を全て奪われる前に動き続ける。

 

 これが、生きる。わたしはもう、閉じ込められた存在じゃない。

 

昔、本で読んだ『シンデレラ』や『足長おじさん』の主人公のように、わたしも特別な運命に導かれて幸せになってやるのだ。我武者羅に、ハッピーエンドへと手を伸ばした。


 もうすぐ15歳、初めての家出だった。

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