中編

 音楽室に美しいピアノの旋律が響いていた。


「宮坂さんのピアノ……とても素敵よね」

「心が洗われるようだわ」

「先日ピアノコンクールで優勝したんだって。やっぱり本物は違うのね」


 はぁ~、と女子集団から熱い吐息が聞こえてきた。

 ……いやいや、葵の演奏にうっとりしてる場合じゃないでしょうよ。男子連中もぽけーっと口を半開きにして見惚れてるし。

 今は合唱コンクールに向けて練習の最中だ。

 ピアノを習っている葵が伴奏者になったはいいものの、一番がんばらなきゃならない歌唱が上手くいかなかった。

 みんな葵に夢中だ。指揮者の男子が注意を引こうと指揮棒を振るが、あまり効果は見られない。


「みんなー。ピアノを借りられる時間は限られているんだから。ちゃんと集中しようね」


 優しく注意する葵の言葉に、クラスメイトが「はーい」と素直に声を合わせる。指揮者の子が涙目……と思いきや、彼も羨望の眼差しで葵を見つめていた。

 一人だけお姉さんみたいだな。クラスをまとめるカリスマ性に、甘えん坊の一面を知っている俺だけは苦笑いしていた。



  ※ ※ ※



「葵ってピアノ弾いてる時だけは大人っぽいよな」

「ピアノ弾いてる時だけって何よー。だけって、トシくんひどいっ」


 葵は泣き真似をする。およよよよ、って演技下手だなオイ。

 みんなの前ではお姉さん。でも二人きりになるとこんなものである。

 下校中の今は俺にくっついてくる。幼馴染と二人きりならリラックスするのか、距離感を忘れてしまうようだ。


「もうすぐ合唱コンクールだな」

「そうだよ。トシくんもがんばらなきゃだね。たまに音程外してるよ」


 さらりと音痴を指摘されて恥ずかしい……。葵に音楽で勝てるはずがないので、ここは素直に聞くしかない。


「そうだ! これから私の家で練習しようよ。個人レッスンしてあげる!」

「なんか補習みたいで嫌だなぁ」

「文句言わないの。お姉ちゃんが特別授業してあげるんだから。トシくんは素直に私の言うことを聞けばいいの」


 いきなりお姉さんぶる葵だった。誕生日が俺より二か月早いってだけだけどね。たまにそのことを思い出してはこうしてマウントを取ってくる。

 まあ嬉しそうにしてるからいいけど。鼻歌を歌いながら、葵はぐいぐいと俺を引っ張った。

 葵に家へと連れ込まれた。なんて言うとこれからいかがわしい行為が始まりそうな予感。


「はいトシくん。もっと口を大きく開くんだよ」


 もちろんそんなわけはなく、健全に歌の練習をした。

 葵のやる気は充分で、俺への指導に熱が入っていた。姿勢が綺麗じゃないってだけで怒られたほどだ。


「おおっ。トシくんの口おっきぃねー。私の指なら……四本はいけそうかな?」


 葵が俺の口に指を突っ込んでくる。どれだけ口が開くか測っているんだろうけど、ちょっと指入れすぎじゃないか? 完全に口の中に入っちゃってるって。

 女の子の指が俺の口内を這い回る。そう表現できるほど、葵は俺の口の中を指でなぞっていた。

 歯茎や頬の裏側など、俺の唾液がつくのも構わず触っていた。何が面白いのか、葵の表情は好奇心に満ちていた。


「ひ、ひはほふはふはー!」

「あははっ。何言ってるかわかんないよー」


 舌を指で摘ままれた。悪戯が成功した葵は楽しそうに笑っている。

 学校の男子ならご褒美と思うかもしれない。いや、さすがにそれはないか。なんか玩具にされた感じで複雑な気分。

 ……でも、普通は触られない部分を触られて、けっこう敏感に反応してしまった。何が反応したかは、葵に言うにはまだ早い。

 葵は悪戯が面白くて気づいていないだろうけど、こっちはかなりドキドキしてしまった。舌を悪戯されてこんな気持ちになるってのも恥ずかしい話だ。


「ごめんごめん。だってトシくんってば無防備なんだもん」


 葵に言われたくない。帰宅してすぐに楽だからって理由で薄着になっている。幼馴染とはいえ、俺も男なんだぞ。


「……次やったらやり返すからな」


 それを指摘してやらないのは意趣返し、ではなく役得だからだったりする。

 スタイルの良い美少女が無防備にも肌面積の多い格好でいてくれるのだ。幼馴染だから許されることであって、葵がちゃんと異性を意識するようになればこんな格好を見せてくれなくなるだろう。

 今だけ……今だけだ。まだ大人になりきらないこの時だからこそ無邪気にイチャイチャしていられる。

 イチャイチャだなんて、そう思っているのは俺だけなんだろうけどな。


「別にいいよ。今やり返してくれても」

「え?」

「ほら。トシくんのお好きにどうぞ」


 そう言って、彼女は俺に見せつけるように赤い舌を伸ばした。

 綺麗な舌が俺を誘うかのようにうねっている。ただ舌を動かしているだけなのに、やたらと卑猥に感じてしまうのは俺の心が汚れているからだろうか?

 さっき葵がしたみたいに、指で摘まんでいいよということだろう。やり返していいってのは同じことをしていいよってことだろう。


「……」


 だけど、俺はできなかった。

 葵の舌がとてつもなく卑猥に見えてしまって、触れるどころか直視すらできなくなってしまった。

 だってもし触れてしまったら、たぶん悪戯では済まないようなことをしてしまいそうだったから。


「むぅ~……」

「うわっ!?」


 葵の方を見られなくてうつむいていた。そんな俺の視界に頬を膨らませた葵が飛び込んでくる。

 驚いて仰け反る。葵は上目づかいで、不服だとアピールしていた。


「あ、あれ? 葵、怒ってるのか?」

「べっつにー。ほら、いつまでも遊んでる暇はないよ。早く練習の続きしよ」


 遊んでいたのは葵の方だったけどな。そうツッコめない雰囲気が、なぜか今の彼女にはあった。

 伴奏をするためにピアノの元へと戻る葵。その後ろ姿が、何か呟いたように聞こえたのは気のせいだったかもしれない。


「……トシくんの、ヘタレ」


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