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夜もすっかり更けた九時頃。カーヤの帰りを待つ橘家に一本の電話がかかってきた。

「はい、もしもし。橘です」

『ご無沙汰してます』

 三ヶ月振りに聞く声に、一瞬橘柚月の母は誰かわからなかったが。

「あ、はい。畦野さん。変な言い方かもしれませんが、いつも娘がお世話になっています」

 ここ数ヶ月は本当に柚月の母には夢みたいな生活だった。諦めかけていたことが、目の前で当たり前のようになったこの日常を。

 娘の帰りを待って食事を作ることも、お風呂を沸かすことも、一緒に入ることも、食卓を囲み、娘の話に耳を傾けることも、自室で気持ちよさそうに眠る娘の布団をかけ直すことも。今日もこうやって、娘が帰ってくるのを待っている。そして玄関が空いた瞬間に彼女にいう。

 ただいまと。

 そんな感情的な柚月の母とは違い、畦野の口調はどこまでも淡白で、事務的だ。

『突然で申し訳ありませんが。橘柚月さんを迎えに来てもらっても宜しいでしょうか?』

 その一言に背中に冷たいものが走る。

「柚月の体に何か!もしかして!」

 その叫び声に、思わずソファーで新聞を読んでいた柚月の父も歩み寄ってくる。

『あ、安心してください。多分想像していることとは逆です』

「ぎゃ、逆?」

『はい』

 そこから畦野の声がはっきりと変わるのを柚月の母は感じとった。

『橘柚月さんの意識が覚醒しました。

 多分、明日の朝に目覚めた時には完全覚醒しているでしょう』

 最初は何を言っているのかわからなかったが。

『三ヶ月間実験に付き合って頂きありがとうございます。実験は無事成功です。

 橘柚月さんの体を橘柚月さんにお返しします。

 そして今晩にて実験は終了。今、実験所にいる橘柚月さんのお身体を返して完全完了となります』

 端的にそう告げられて、電話は切られた。

「どうしたんだ?」

 柚月の父にそう問いかけられても、彼女はしばらく受話器を耳から話すことも、言葉を発することもしなかった。

 嬉しいことのはずなのに、喜ばしいことなのに、何故か彼女の瞳からは涙が溢れた。

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