3、

 カーヤが橘柚月になってから二週間が経った頃。彼女は地元の公立高校の試験を受け、半月遅れで入学した。

「今日から皆さんと一緒に勉強することになりました。橘柚月さんです。

 彼女は事故の後遺症で以前の記憶がありません。

 知っている方々は戸惑う方もおられるかもしれませんが、仲良くしてあげてください」

 実にテンプレみたいな紹介をされたなと思いながらも、郷に入れば郷に従え。人間社会で生きるのなら、人間に従え。とカーヤは心の中で呟きながら、頭を下げた。

「皆様、初めまして。橘柚月と申します。よろしくお願いしゅます」

 思いっきり噛んだ。

 彼女の表情が一気に赤面する。

 下げた頭が誰かに押さえつけられるようにあがらない。

 それでもまばらに聞こえてきた拍手のおかげでようやく顔をあげて、笑顔を作った。

 吊り目で、無理矢理頬を突貫工事したように動かし、口をうっすらと開けて、まるで普段子供の相手などしたことのないのに、いきなり『いないないばぁ』をしたような。もはや笑顔というより嘲笑に近い。大多数の人をドン引きさせ、一部の人間にえもしれぬ感情を湧き立たせた。

「そ、それじゃ。橘さんの席はあそこで」

 割り当てられた席は教室の丁度真ん中付近の座席。

「承諾いたしました」

 そういって、歩き出した初めの一歩は盛大に躓いた。

 再び、カーヤにあの感情がこみ上げてくる。 

 彼女はこの感情を知っていた。

 それは数日前、道端で盛大に転び、小学生の男の子に『水玉』と呟かれた瞬間に初めて知った。

 そしてまた同じ状況。身体中が熱くなる。初めてギャクを呟いて、盛大に失敗し、部屋の隅で三角座りをしていた畦野の気持ちがようやくわかった。

「ちょっ、何やってんの、柚月」

「早く、スカート戻しなさいよ!」

 近くにいた女子生徒二人が慌てて、柚月のスカートを戻して彼女を起こした。

「め、めんぼくないです」

「め、あんた、本当に変わっちゃったのね」

 その言葉にカーヤは目を見開く。

「そ、そんなに私は橘柚月じゃありませんか?」

 言ってから自覚した。

 何を言っているんだと。

「すいません。変なことを言ってしまいました」

 項垂れながら、ゆっくりと立ち上がるカーヤ。もはやその姿はくたびれたサラリーマンのように、どこか疲れ切っていた。


「だから、登校はもう少し経ってからで良いと言っただろ。

 向こうの両親も別に急かしているわけじゃないんだろう?」

 初登校日は散々な結果で終わり、初めてカーヤは敗北感を味わった。

 歯痒い。羞恥心。屈辱。

 この二週間で、人間になったカーヤが知った感情。

 なんとも切ないラインナップである。 

 一応言っておくが、別にカーヤはドジっ子ロボットとして、設定されたわけではないし、むしろ幾度となく人命救助や事件解決に一役買ったこともあるぐらいに優秀だ。

 じゃあ、何故噛みまくり、動きもぎこちなく、まるで歩き始めた子供のように失敗を繰り返すというと、彼女は文字通り、産まれたばかりの子供なのだ。

 ロボットの体として、数年間活動をし続けてきたカーヤ。畦野が全身全霊をかけて作った彼女の肉体ではあったが、やはり本物の肉体とは違う。いくらスムーズに動く人工関節を使っていたとはいえ、人間の関節の動かし方とは微妙に違う。

 喋り方も、耳についた鼓膜の代わりをしていた機器から音を聞き取って、瞬時に演算して、最適解を人間が声を発するような口の動きと共に口についたスピーカから自動的に発していたのだが、当然ながら、人間の体ではそれは全て自分でやらなければならない。普通の人なら考えるまでもなく、自然と出来る動作もカーヤにとってはとても難しいことなのだ。

 なにせ人間の体はとても複雑で、声ひとつ発するのにも様々なプロセスを瞬時にして行っている。数日前までロボットだったカーヤにはとても高度な事なのだ。

 わかりやすく言えば、今カーヤは人間というロボットを遠隔操作で動かしている。馴染まないのだ。

 当たり前だ。人間が立てるまで、歩けるようになるまで、喋られるようになるまで、数年は必要なのだ。

 それを二週間で、ドジっ子女子校生レベルまでに押し上げたのだ。目覚ましい成長だと畦野は思いながら、

「ほら、データ取れた」

 カーヤの頭からヘルメットを外す。

「機器に異常はなし。うん、おおむね順調だな」

「全然、順調ではないです」

 どうやらカーヤは少し、いやかなり不満そうにしている。

 こんな負けず嫌いの設定にしたかなと畦野は訝しむ。

 それともこの性格はもしかしたら、橘柚月本来のものかもしれない。

 まだデータを見ている限り、彼女の脳が動き出す予兆は見られない。

 でも、未だに謎の部分が多いのが脳というものだ。もしかしたらデータには映らない何かが動いているかもしれない。

「あまり無理するなよ。変に頑張りすぎて、機器や橘柚月の脳に深刻なダメージを与えることには絶対にならないように」

「でも、今回のミッションは人間らしく振る舞い、橘柚月の社会的地位を守ることです。そのためにはまだまだ足りない」

 あまりにも早すぎる入学も、また彼女を浪人させない為の、彼女の社会的地位を守るための行動である。

 確かに間違っていないのだが。

 畦野は盛大なため息をついた。

「お前さ、もうちょっと人間を楽しめよ」

「人間を楽しむですか?」

 よくわからず、首を傾げるカーヤ。

「ああ、折角人間になったんだ。

 今までロボットじゃ、できなかった。感じなかったことを精一杯に味わえ。

 そうしていたら、必然とお前は人間になっていく。橘柚月の社会的立場の維持とか、そんなの後で良い」

 人間を楽しむ。

「あの、博士」

「ん、なんだ?」

「実に格好良く、最もらしく、まるで映画の予告編に使われるような、そんな言い回しを使ってもらって、恐縮なのですが」

「一言も、二言も多い!」

「楽しむってなんですか?」

 その質問に当然、真っ当な返答など返ってこず。

「自分で見つけろ!」

 と投げやりな言葉をぶつけられただけだった。

 人間を楽しむ。

 全くわからなかった。

 そもそも今まで、カーヤが抱いた人間への感情は一つ。

 不便。

 ただ、それだけだった。

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