2、
そして一週間後。研究所基、畦野のボロ家屋に橘柚月の体は運び込まれた。
本当はこんなボロ家屋に彼女と彼女の両親を招き入れるのはどうかとは思うのだが、橘柚月の脳に意識を送った時点でカーヤのロボットの体は動かなくなる。総重量百キロの彼女の体を運ぶのはとても大変だからだ。
初めてみる橘柚月を見て、とても綺麗だとカーヤはそう思った。
真っ白な肌に、黒く綺麗な長い髪。とても大切にされていることがよくわかる。そして規則的な寝息は今にも動き出しそうで、それが逆に彼女の両親から希望を捨てきれないようにするのかもしれないと、漠然と思った。
畦野は両親に隣の部屋で最後の説明をしていたが、やがて戻ってきた。
「それじゃ、カーヤ。準備は良いか」
「はい、ハカセ」
不安気な様子の橘柚月の両親も、人間にしか見えないカーヤの姿を見て、その瞳に一筋の希望を宿らした。
電子機器が一斉に稼働し、カーヤの脳と柚月の頭に、いくつものコードがついているヘルメットが装着される。柚月の体は母親によって抱き支えられている。
「それじゃ、約束事をもう一度復唱してみろ」
パソコンのキーボードを叩きながら、畦野は椅子に座るカーヤにそういった。
「1、自分はロボットじゃない。人間らしい振る舞いをする。周りに自分がロボットだと悟られてはいけない。
2、一日に一度。必ず研究所によって脳波のチェックと機器の充電を受ける。
3、自分がロボットだと、告げても問題ないと判断した人間にはロボットだと告げて良い」
「よし、オーケーだ」
「ハカセ。1、2はわかるのですが、3は何のために?1と矛盾するように思えるのですが?」
「うん、ああ、まぁ、それは、おいおいわかる。
別に無理に明かす必要はない。ただ、その、出来れば作って欲しいという、俺の願望だな」
「いつも偉そうにふんぞり返って発言をする博士らしからぬ歯切れの悪い発言ですね」
「カーヤ。そういうところは徐々に治して行こう。
というかお前は今日から柚月さんになるんだぞ。彼女の社会的地位を守るのも、お前の重要な役目なんだぞ」
「そう、ですね」
思わずキーボードを叩く手を止める。今までにないカーヤの声だったからだ。
スピーカーから発せられるとはとても思えない、どこか感情の乗ったような。
カーヤは真っ直ぐ橘柚月をみる。
正直実感はあまりない。
ロボットがこんなことを思うのは凄く不自然なようにカーヤ自身も思うのだが、今までやってきたどんなことよりも、どこかウヤモヤで、もしゃもしゃで、データベースの中のあらゆる言葉のどれにも合致する言葉が出てこなかった。
「どうしたんだ?」
不意に畦野そう言われ、視線を彼に向ける。
「なんでしょうか?」
「いや、手」
畦野の視線を追うようにして、見てみるとカーヤはいつの間にか自分の胸に両手を置いていたことに気がついた。
「なんでしょうか?」
「なんで変わらないんだよ。なんだ緊張しているのか?」
「緊張?」
首を傾げるカーヤ。
言葉では知っているのに分からない。人間でいう努力や成長のようなものだ。
「そういうものも徐々にわかるかもしれないぞ」
そう言った畦野に、
「女性の胸を見るなんて、セクハラです」
軽蔑の視線を向ける。
「お、お前、それは不可抗力だ!」
「触らなくでいいのですか?揉み納めですよ?」
「まるで、いつも触っているようにいうな!」
「小さすぎず、かといって大きすぎず、服が少し盛り上がっている良い塩梅にするのがとても難しかったと、いつも熱く語ってたじゃないですか?」
「だから、今いうことじゃ。いや、違うんです!決してやましい気持ちではなくてですね」
慌てふためきながら、軽蔑の目線を向ける柚月の両親を必死で説得する畦野。
それを横目に、カーヤは再び自分の胸に手を添える。
動いていないのに、動いている気がする。これって確か。
「疑似妊娠?」
そんな取りとめのない言葉は誰にもつっこまれることはなく、ようやく場が収まったところで、実験はスタートした。
「それじゃ、今からカーヤを電気信号として柚月さんの脳に送ります」
畦野がエンターキーを押した瞬間からカーヤの記憶はない。
そしてしばらくしてゆっくり目を開けた。
痛かった。
痛い?
決して感じたことのない感覚のはずなのに、自然とそう思えた。
思わず目を閉じてから、
「‥‥‥眩しいです」
言葉を発しているはずなのに、聞こえてこない。上手く言葉が出てこない。耳もおかしいのか、目の前で涙を流す柚月の両親の声もよく聞こえない。
その時ポンと肩を叩かれて、そちらを見ると、そこには畦野が座っていた。その隣にはカーヤが。
私が。
「これ、見えるか?」
畦野が掲げるディスプレイにはこう書いてあった。
『成功だ。今日からお前はカーヤじゃない。橘柚月だ』
2○〇〇年。10月。秋が深さを増し始めた時、初めて人工知能で動く、人間の体が日本の片田舎の町で誕生した。
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