第131話 予期せぬ来訪者

 みんなが東京に向かった翌朝。


 俺は網戸越しに聞こえる大合唱で目を覚ました。


「ミンミン、ミンミン」と、部屋中にせわしない音が鳴り響く。


 蝉の声は嫌いじゃないし、寝ているときは気にもならなかったが、一度起きてしまえば否が応でも耳にこびりついた。


 やたらと騒がしく感じるのは、ここ一帯が封鎖されているせいだろう。周囲の生活音はおろか、近くで回っている扇風機の音すら聞こえない。


「……シャワーでも浴びるか」


 まだ6時前だというのに、じんわりと汗ばむ程度には気温が高い。7月も半ばとなれば当然なのだが……朝晩はともかくとして、今日も冷房のお世話になりそうだ。


 未だ鳴りやまぬ騒音を耳にしながらも、俺は着替えを用意して、そそくさと部屋をあとにする。


(っと。小春のやつ、もう来てるのか)


 寝室から通路に出た瞬間――。


 かすかなコーヒーの香りと共に、リビングのほうからカチャカチャと音がする。なぜかドアが半開きになっているけれど、扉の先にはたしかに人の気配を感じる。


 まあ気配も何も、今このアパートにいるのは俺と小春だけだ。当然、そこにいるのは彼女に違いないと、先に顔だけ出しておくことに――。


 脱衣所のかごに着替えを放り込むと、俺はその足でリビングへと向かった。



「おはよう小春。飯の前にシャワーを浴び、て……」

「おはよう秋文。やっと起きたか」


 リビングに入って挨拶をすると、なぜか爽やかな男の声が返ってくる。


 何がどうなっているのか、俺の声に答えたのは小春ではなかった。見知らぬ美青年が食卓の椅子に腰を下ろし、足を汲んで優雅にコーヒーを啜っていた。


 上着こそ脱いでいるものの、全身、黒のスーツを着込んだ黒髪長髪の日本人。体の線は細く見えるが、引き締まった肉体が服の上からでも見て取れる。


(なんだこいつ。なぜ俺の名前を知って……)


 あまりに清々しい態度を目の当たりにして、一瞬、小春が招き入れた可能性を考慮した。実は彼女の知り合いだったり、もしくは政府の人間なのかもと。小春はたまたま席を外しているだけで――。


(ってアホか。そんなわけないだろ)


 仮に小春の知人だとしても、真っ先に俺を起こしにくるはずだ。アポなしで政府が来ることもないし、それならそれで検問所から連絡が入る。


 っていうかそもそもの話、こんな早朝に客が来るわけがない。控えめに言って不法侵入者、もしくはそれ以上のナニカだと考えるべきだろう。


 俺は通路を背にして身構えつつ、すぐさま覚醒状態に入る、はずだったんだが……。


「あー、それは使えないよ。すべてに戻ってるから」


 男の言葉を無視して何度も覚醒を試す。


 が、いくらイメージしても一向に成功する気配がない。しかも全身の力が抜けはじめ、ついにはその場に膝をついてしまった。


 疲労感というよりは脱力感に近い感覚か。息切れなんかは全然ないけれど、とくかく体が重くて動かしにくい。


「大丈夫。転送前の体に戻っただけさ。そのうち慣れるから心配ないよ」

「…………」


 余裕の態度を崩さない謎の男。いや、 人の姿こそしているけれど、こいつはどう考えても人間じゃない。おそらくは観測者か調停者、もしくはさらに上位の存在なのだろう。


「なあ。おまえは誰なんだ……」


 必死に顔をあげ、相手を睨みつけながらそう言うと――。


「僕は超越者。今日は秋文に会いに来たんだ」


 飄々ひょうひょうと笑顔を向ける男を前に、俺はあらがうことを早々に諦めた。







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