中編

次の日。起きるなり嫌な胸騒ぎがしたルリは、外に出て絶句した。




 どうしたの? と後ろから寝ぼけ眼で顔を出したミコトも、うわ、と声を上げる。


 昨日まで暗いなりにも遠くまでよく見えていた岬には、濃い霧が立ち込めていた。どこまでが陸地で、どこからが海かもわからない。これまで一度も経験したことのない事態に、ルリはうろたえた。




「これじゃ、魂たちが……」




 呟いたそばから、白い光がありえないほど近くを通る気配がした。そのまま、見当違いな方向へ飛んでいく。灯台の光が見えず、魂たちが迷っているのだ。




「どうしよう」




 呆然としていると、ミコトがそっと肩に触れた。




「この霧じゃ光はだめだね。でも、音ならなんとかなるよ、きっと」


「……音……?」




 ルリが眉をひそめるのに構わず、ミコトは、行こう! と叫んで階段をかけ昇り始めた。ルリも慌てて扉を閉め、後に続く。霧のせいか、灯台の中はいつもより暗い。慣れているはずのルリでさえ、つまずきそうになるが、ミコトは颯爽と数m先を走っている。




 辿り着いた展望室では、いつもは遠くへ光を放っているフレネルレンズが、今日は窓のすぐ外の深い霧に光を反射させ、どこか所在なげにしている。そんな光を尻目に、ミコトは唯一開閉式になっている小窓をこじ開けた。


 続けて、神に祈るようにサッと両手を組み、口の前へ当てる。一瞬、静かな時間が流れる。波音がはるか眼下からわずかに聞こえ、霧混じりの風が、ゆるりと室内へ入ってくる。




「……なにを……?」




 ピクリとも動かない彼女の真意を確かめようとしたとき、ミコトは突然、組んだ両手へ向かって、息を吹き込んだ。ピーッと、笛のような、不思議な音が響く。




 ふわ、と目の前に迫ってきていた魂がなにかに気づいたように揺れ、航路を変えた。灯台の存在に気づいたようだった。




 ミコトはやがて、曲のようなものを奏で始めた。器用に指の隙間の広さを変化させ、音程を変えているらしい。オカリナに似た、郷愁漂う音色が響く。心の奥底へ染み渡り、揺さぶるような。風に乗って、どこまでも飛んでいくような。


 いつしかルリは、ぼんやりとミコトの横顔を眺めていた。目を閉じて、なにかを祈るように指を吹き鳴らしているその姿に、聞き惚れ、見とれていた。




「ルリ?」




 どれくらいそうしていただろう。気付けばすっかり霧は晴れていて、ミコトがこちらを見ていた。




「大丈夫?」




 尋ねられて、はじめて、自分の頬に熱いものが流れていることに気づく。




「ごめん、……」




 意味もなく謝って、弱々しく袖口で涙をぬぐう。ミコトがくしゃりと笑って、そっと体を寄せてきた。冷たい指先が、目元を滑る。ゆるりとした手の動きに、どきん、と心臓が激しく脈打った。




「あ……」




 なにかが脳裏にひらめく感覚に小さく息をのむ。そんなルリの顔を覗き込んで、ミコトは言った。




「ハンドフルートっていうの」


「え……?」


「さっきの指笛。ルリも、やってみる?」




 頬を寄せるように顔の前に手を突き出すと、こんな感じで組むの、と教えてくれる。なんだか、妙に既視感を覚えた。




「あのね、ミコト。前に、どこかで……」


「聞き覚えあった? 魂に刻まれて残るんだ、音楽は」


「いや、そうじゃなくて、私……」


「ほらルリ。もう鳴ると思うよ。吹いてみて」




 促されて、しかたなく手を口に当てた。そんな簡単なもののわけがない。そう思ったのに、吹き込んだ息は美しい笛の音となる。心がおもむくまま吹き鳴らせば、不思議なことにそれは一つの曲となった。さっきの曲ともまた違う。ミコトが隣で目を細め、フッと笑う気配がした。





 ——ジリリリリ。




 突然、大きな機械音が鳴り響き、二人は文字通り飛び上がった。どうやら玄関のベルのようだった。今まで人が訪ねてきたことなんてない。なんだか変な感じだった。




「ミコト。ここで待ってて」




 なぜそう言ったかはわからない。でも、彼女を訪ね人に会わせてはいけない、そんな気がした。


 展望室から玄関までは数分かかる。まだ待っているだろうか。玄関まで降りて、おそるおそる扉の隙間から外を覗くと、




「ご め ン く ダ さ イ」




 闇に紛れるようにして立っていたのは、真っ黒なもやのような形をした化け物だった。思わずドアを閉めそうになる。が、化け物はわずかな隙間に「ガッ!」と手を差し込んで、扉をこじ開けてきた。ギィィィと、蝶番が嫌な音を立てる。




「こ コ の 灯 台 守 さ ン デ す か」




 ルリの胸元のスカーフに目をやって尋ねるので、震えながら黙って頷くと、化け物は、「わタしは冥界の番人デす」と続ける。




「本 日 は、警 告 に 参 り マ し た」


「け、けいこく?」




 化け物の体から、ドライアイスのように冷たい風がすぅっと漂ってきた。




「コ の 世 界 に、異 形 が 迷 い 込 み マ し た」




 異形はあなたでしょう、と言いたくなるのをごくりと呑み込む。




「記 憶 の ナ い 異 形 は、居 場 所 を 作 ろ ウ と、な ニ か に ス り 替 わ ろ ウ と す る」


「居場所……?」


「あ ナ た も 異 形 ニ、心 を……、 灯 台 ヲ、 乗 っ 取 ら レ な い ヨ う に」




 化け物のがらんどうの二つの目がニタリと笑う。




「ど ウ ぞ、お 気 ヲ つ け て」




 化け物の背後から室内に向かって強風が吹き込んだ。とっさに腕で顔をかばい、目を開けると、もうそこに化け物の姿はない。バタァン!! とけたたましい音を立てて扉が閉まった。




***


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る