後編
もしかして。いや、そんなはずは。
その場に立ち尽くし、ルリはバクバクとうるさい心臓をどうにか鎮めようと服の上から胸元を強く掴んだ。
深い霧。化け物の来訪。彼女が来てからなにかがおかしい。それは、まぎれもない事実で。確かめなくちゃ、展望室に戻って。彼女に直接、聞かなくちゃ。
と、その時。
ギギギギギ、と建物全体が嫌な音を立てて揺れた。振り仰ぐと、剥がれ落ちた天井のモルタルがパラパラと落ちてくる。いつもより外が暗い気がする。さっき霧が立ち込めていたときよりも、さらに。弾かれたように再び階段を駆け上がり、ハッとした。
展望室が、暗闇に満たされていたのだ。
フレネルレンズは回転を止めていた。そればかりか、その中心にあった灯台の火が消えている。
「なんで……」
レンズのフレームの陰から、ゆらりとセーラー服が現れる。
「ルリ」
「なにが……あったの……?」
ミコトはずっとここにいたはずだ。しかし、闇の中でぼんやりと立っている彼女は、ゆっくりと首を振る。
「わかんない。急に止まっちゃって」
「そんな」
外からわずかばかり差し込む月明かりが、ミコトの体をぼうっと浮き立たせる。まるでこの世のものではないような不気味さ。額から冷たい汗が流れる。
「もう少し、時間があると思ってたんだけどな」
ミコトが小さく呟き、窓の外を見た。つられて視線を移したルリは、ごくりと唾を呑み込んだ。水平線付近に、魂ではない、なにか黒いものがモジャモジャと動いている。激しく飛び回りながら、だんだんとこちらに近づいてくる、コウモリのような黒い無数の物体。
悪霊だ。
咄嗟に理解できたのは、本能で感じ取ったに等しかった。灯台の光は、魔除けの意味も持つ。火が消えれば、悪いものを寄せ付ける。
向かってくる悪霊の群れからゆっくりとこちらに視線を戻して、無表情のミコトが静かに近づいてきた。
「っ、来ないで!」
ルリは、悲鳴にも似た叫び声を上げて後ずさりした。ドン、と展望室の冷たい窓ガラスに背中が当たり、耳を塞いでずるずると座り込む。
「ルリ」
押し当てた手の向こう側で、ミコトの静かな声が響き、指が頬に触れる。思わずびくりと肩を揺らす。唇、あご、喉もと、鎖骨。冷たい指先は少しずつ下へ滑っていく。見上げたミコトは、一見なんの感情も浮かべていなかったが、ふとその瞳の奥に、哀愁のようなものがふらりと揺らいだ気がして、ルリは目を瞬かせた。
——するり。
襟元から衣擦れの音がした。慌てて胸元を抑えるが、そこに結ばれていたスカーフは、すでにミコトの手の中にあった。
「なにを……」
灯台は、すっかり悪霊たちに取り囲まれている。
——タマしイ!
——タまシいダ!!
——イぎョウのタまシイ!!!
金属音のような悪霊たちの金切声がざりざりと空気を揺らし、ルリはますます強く耳を塞いだ。
一方、ミコトは無表情で悪霊たちを眺めている。
やがて、ゆっくりとフレネルレンズに近づき、フレームの小窓を開くと、中に半身を入れた。いつも火がともっている炎台から、油が染み込んだ灯身を取り出す。床にそれを置くと、今しがたルリから取り上げたばかりのスカーフの両端をぎゅっと握って細長くする。そして、小窓のすぐ横の、茶色い板——先日、ここは拭くかと尋ねた、あのざらざらした板に、思い切りよくスカーフをこすりつけた。
「あ……」
思わず声が漏れた。摩擦熱で火花が散ったのだ。何度も繰り返すと、やがて灯身に移り燃え上がる。それを押しいただくように持ち上げて、ミコトは再び炎台に灯身を戻した。と同時に、屈折レンズを通して鋭い光があたりを包む。ぎゃっ! と、窓の外で悪霊が叫び声を上げた。
レンズの前で、ミコトが振り返る。虹彩を背後に散らし、寂しげに微笑んで。この世のものではないような存在感を放って。
「返してもらうね」
朱色のスカーフを大切そうに胸の前に持ったミコトを、ぼんやり見上げる。
そうだ。
ルリは唇を噛み締める。
これが正しい姿。
あのスカーフは、ミコトが持っていなくてはいけない。
だって。
だって、この世界に迷い込んだのは、自分のほうなのだから——。
***
外は晴天で、病室は残酷なまでに明るかった。やせこけた幼馴染の前髪が、吹き込んだ風にはらりと揺れる。
部屋には、他に誰もいなかった。気を遣ってくれたようだった。でもその気遣いさえも、今の
「
そっと耳元にささやきかける。反応はない。
この前まで歩いてたじゃない。この前まで話ができていたじゃない。
まさか、何気なく放課後に寄ったあの日が、最後の会話になるなんて。そんなの。そんなの、信じたくないよ。
祈るように組んだ両手に息を吹き込む。が、一曲も吹けなかった。昔、これを
「ねぇ、
そっと肩を揺すってみる。頬を撫で、手を握ってみる。その体が切ないくらいに冷たくて、
こんなにつらい思いをするのなら、出会わなければよかった。
友達になんてならなければよかった。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。あなたがいない世界は嫌だ。
だったら私が代わりに。
代わりに、あの世へ行くから——。
静かに輝きながら回るフレネルレンズ。平常を取り戻した展望室に、悪霊の気配はもうなかった。
「嫌だよ、ミコト」
はらはらと泣きながら、ルリは訴えた。
「もう、離れたくない」
ミコトが、思い出したんだね、とくしゃりと笑って、ルリの前に膝をつく。
「びっくりしたよ。強い力で三途の海に弾き飛ばされて、引き上げられた灯台にはさも当然のようにあなたがいて」
記憶喪失だったのはルリ。
この灯台の真の守り人は、ミコト。
「身代わりに、なろうとしてくれてたんだね」
無茶しないで、と抱きしめられて、さらに涙があふれる。
「だって……、あなたのいない世界で生きる意味なんてないから……」
呟くと、腕の力が強くなる。波音を遠くに聞きながら、ルリも細い背中にすがりついた。
レンズの炎の加減だろうか。虹彩がよりいっそう強くなる。もう、ここが天国なんじゃないか。そう錯覚させるように、光が美しく部屋に飛び散った。
「でも、」
ミコトがルリの肩口に顔をうずめたまま、呟いた。
「もう、行かなくちゃね」
ルリは、はっとして顔を上げる。
「嫌だ」
あなたのいない世界に帰る意味などない。だったらここで、二人で暮らすほうがいい。
しかし、ミコトはゆっくりと首を横に振る。
「灯台が止まったの、見たでしょう。半端な魂は、この世界に異常をきたす」
「そんなの……、そんなの、関係ないよ」
泣かないで、とミコトが手に持ったスカーフでルリの目元をぬぐう。……自分も、涙でぐちゃぐちゃなくせに。
「あのね、ルリ。虹の橋って知ってる? 天国の入り口にある橋で、先にあの世へ行った魂が、後から来る愛しい人をずっとそこで待つの。……そして、この灯台もね、虹の橋と同じ役割を果たせる」
虹彩がミコトの背後で弾ける。
「私は、あなたがちゃんと天寿を全うしてこの世界へ来るまで、ここでずっと待ってる」
「そんなの、いつになるか、わからないじゃない」
「うん。でも、”いつか”は絶対に来る。必ず、私はここで待ってる」
「ずっと?」
「うん」
「永遠に?」
「うん」
約束、とミコトは繰り返す。そして、胸の前にスカーフを広げ、さっきの衝撃でできた破れ目にぐっと力を込めると、二つに裂いた。
「ここで灯台を守りながら、ずっと待ってる」
半分をルリに渡して。
「絶対に、また会えるから」
ザザン……と、窓から流れ込んでくる波音が大きくなる。
フレネルレンズが、より強く虹を放つ。
涙のせいか虹彩のせいか。ミコトの姿が、視界の中で遠くぼやけた。
***
「それで……?」
おばあさんが言葉を途切れさせたので、すっかり話に引き込まれていた私は恐る恐る聞いた。
「続きは……?」
部屋の白い壁は夕日に染まっていた。おばあさんの顔にも影が落ちる。
「この話は、ここでおしまい」
おばあさんが視線を落としたままハンカチを撫でて、うっすらと笑う。
「聞いてくれて、ありがとう。いい暇つぶしになったかしら」
「はい、すごく……」
感嘆の溜め息をつきながらなにげなくその手元を見て、私は目を見開いた。
少し光沢がある、擦り切れたような生地。端がほつれたそれは、おそらくハンカチなどではなかった。
色が抜け、うすいオレンジ色のようになっているけれど、それは。
その布は——。
顔を上げると、おばあさんの優しい瞳と目が合う。二の句が継げない私の様子を見て、静かに笑う。
「ずっと、待たせているの。大切な人を」
たぶん、作り話なんかじゃないのだ。
ずっとずっと、誰かに語って、思い出が色褪せないようにしているのだ。
「あの、」
なんとか言葉を紡ごうとするのを遮って、つまらないと思いながらもね、とおばあさんが言った。
「でも、彼女がくれた命だからと、懸命に生きてきて。そして、よかったなと思うこともたくさんあったわ」
だから、と。
「あなたにも、このために生きてやるんだというなにかが、早く見つかりますように」
静かに、寂しげに、でも優しく。
おばあさんが微笑むと、開け放した窓から、潮の香りと波の音が、ふわりと迷い込んできたような。そんな気がした。
彼岸の守り人 @ayako_annie
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