第19話 大丈夫

 秋葉市立図書館は高台にある。

 敷地内には樹木や色とりどりの花が植えられ、この町出身の文豪の文学碑が建てられている。そこから坂を下っていくと幅のある川がゆったりと流れている。広い河川敷かせんじきでは犬の散歩をする人や読書する人、座って休んでいる人を見かける。


「今日は晴れてよかったですね。日差しも強すぎなくて暖かいですし」

 一志がつぶやく。


「ええ。まさに【あおぞら朗読劇】にふさわしい一日になりそうですね」

 本山も同意するように言葉を返す。


「それにしても、こんなにたくさんの人が来るとは思いませんでした」

 一志は木の陰からそっと様子をうかがう。


 会場となる図書館の敷地内と河川敷に座っている子どもたちは、視界に収まらないほどの人数だ。ほとんどは保育園に通っていそうな幼児だが、小学校低学年くらいの児童もそれなりにいる。


「いつもの読み聞かせは数人程度ですからね。わたしもうれしいです」

 本山の顔には、まったく喜びの感情が見られない。

 だが口元をよく見るとほんの少しだけ口角が上がっているようだった。


「中野零先生。ありがとうございました」

 突然頭を下げられて一志は困惑する。


「いや、お礼を言うのはまだ早いですよ」

「それでも言わせてください。やはりあなたに執筆を依頼してよかったです。おそらく父も、朗読劇の成功を空から見守ってくれていると思います。本当にありがとうございました」 

「あの、失礼ですが、その言い方だとお父さん亡くなってるみたいに聞こえません?」

「冗談です。父は恥ずかしがり屋なので、どこかに隠れて聞いていると思います」


 本当にこの人の冗談はわかりにくい。

 ここ数日で嫌というほど理解した。


「あなたは、いずれ必ずプロ作家としてデビューします」

「……できるでしょうか」

「できますよ。数万冊以上の本を読んできたわたしが言うのですから。間違いありません」


 根拠はともかく、その冊数には驚かされる。

 一志も子どもの頃から本は読んでいるし、今も研究のために読み続けている。それでも数千冊に達するかどうかわからない。


「どうしたらそんなにたくさん読めるんですか? 速読ってやつですか?」

「好きこそものの、ですよ」


 研究のためではなく好きだから読む。

 一志は、しばらくその感覚を忘れてしまっていた。

 このイベントが終わったら意識を切り替えて読書しようか。

 だが、その前に中間試験があったことを思い出してゆううつになる。


「こちらこそありがとうございます。僕もいろいろ勉強させてもらいました」

 一志も頭を下げて感謝の言葉を述べた。本心からそう言っている。


「しかし、あの時の子たちといっしょに仕事するとは思いもしませんでした」

「あの時?」

「中野零先生は、天ヶ沢玲さんといっしょに読み聞かせに来ていたじゃないですか。小学生で来る子は珍しいからよく覚えていますよ」


 一志は首をかしげる。

 なぜ本山が読み聞かせのことを知っているのだろう。

 玲から聞いたという風ではない。

 それなら当時を知っている司書から聞いたのか。

 しかし、その話しぶりは、まるでその場にいたかのようである。


「今日は恥ずかしいから帰るなんて……言わないでくださいね?」


 本山はメガネをそっと外す。

 その顔を見て、小学生の頃の記憶が一瞬にしてよみがえる。

 そうだった。あの場には、子どもたちと司書の他にもう一人いたのだ。


「ボランティアの女子高生!」

「はい。お久しぶりです」


 混乱のあまり金魚のように口をパクパクさせる。

 0番街の駄菓子屋で会った時に見覚えがあるとは思っていたけれど、図書館のカウンターで見たと勘違いしていたらしい。


「まったく気がつきませんでした」


 あの頃はスーツではなく当然セーラー服だったし、今と違ってメガネをかけていなかったから気づかなかったのも無理はない。

 だが一番の原因は表情だ。当時の彼女は笑っていたのに、今はまったく笑顔を見せていない。


「最初にこれをお見せしていたら気づいてもらえたかもしれませんね」


 本山はスーツのポケットから二枚の細長い紙を取り出して見せる。それは栞だった。表面にはかわいらしい絵が入っている。片方はモミジロウくん、もう片方にはモミコちゃんがいる。


「これってスタンプ十個でもらえるやつですよね。本山さんが作ってたんですか?」

「はい。文芸部をやめた後に父から絵を習って作ってみました」

「モミジロウくんの栞はもらいましたけど、モミコちゃんの栞もあったんですね」

「男の子にはモミジロウくん、女の子にはモミコちゃんを渡していました。天ヶ沢さんがモミコちゃんを見たことがあると言っていたのは、この栞のことかもしれませんね」


 企画書を見た時に玲がそんなことを言っていたと一志も思い出す。また、そんな昔から本山がモミコちゃんの宣伝活動をしていたのかと思うとその行動力には頭が下がる。もしかすると、文芸部に入って小説の書き方を学ぼうとしたのもそれが目的だったのかもしれない。


「本山さん。すべては今日のための準備だったんですか?」


 いつの頃からか、一志と玲は本山のプロットに組み込まれていたのだろうか。

 本山はメガネをかけ直すと、いつもの硬い表情と無機質な声でなにか言った。

 けれどそれは、近くを流れる川の音や子どもたちの笑い声でかき消されてしまう。

 一志には、どちらでもよかった。

 最高におもしろいイベントに参加できたのだから。


「ところで、天ヶ沢さんは大丈夫でしょうか」


 本山の急な話題転換にもだいぶ慣れてきた。

 一志は笑って答える。


「大丈夫ですよ。だってあいつは……」


 元プロ声優と言いかけてやめた。


 学校でも気づいている人はいるらしいが、本人はあまり知られたくないように振る舞っている。他人が勝手に話してはいけないだろう。


「プロの声優さんですものね」


 本山があっさりと言う。

 校内だけでなく市内にも知っている人は多そうだ。


「知ってたんですか? あいつが声優だってこと」

「はい。わたしの好きな小説がアニメ化した時にヒロイン役を担当していらっしゃったので。それに珍しいお名前ですよね。天ヶ沢玲さん……芸名かと思っていました」

「本人には言わないであげてください。昔から本名が派手なこと気にしてるので」


 本山は小さく、それでもしっかりとうなずいた。


「しかし、本当に大丈夫でしょうか」

「リハーサルでは問題なかったんですよね。だったら……」

「心配なのは体調のことです。先生もお気づきですよね?」

「ええ、まあ……。ただ何度聞いても大丈夫だと言うばっかりで……」


 秋葉山の野外音楽堂で見つけた後、三人でプロットのことを話し合った。

 その時も玲はうわの空で、作り笑いを顔に貼りつけているようだった。


「あなたに秋功学園の文芸部が合わないと言ったこと、覚えていますか?」

「はい」

「それは、天ヶ沢さんがいることも理由なんです。互いを思いやりながらも互いの意見を正直にぶつけ合っているのは理想的な関係だと思いました。どうか大切にしてあげてくださいね。おふたりは、本当に素敵なパートナーなんですから」


 その言葉にからかう気持ちはなく、本心からそう言っているようだった。

 一志は、深くしっかりとうなずいた。

 その言葉を心に刻み込むように。

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