第12話 条件と期待

「わかりました。本山さんがそうおっしゃるなら……」


 言い終わる前に机の下で手をつかまれた。

 隣に座る玲の細い指が絡んでいることに気づく。

 たとえ女心がわからなくても、彼女の言いたいことはすぐにわかった。


 自分はまた大事なことを忘れるところだった。

 一志は感謝を込めて優しく握り返す。


「本山さん」


 すぐに口を開いた。

 机の下では、今も玲の手が勇気を与えてくれている。

 一志の中で消えたはずの考えが再び浮かび上がり、今度は自分の意志で声に出す。


「やっぱりこのままではダメだと思います」


 それを聞いた本山の表情は怖いほど変わらない。

 メガネの奥にある瞳も鋭いままである。

 

 だがなにも心配いらない。

 この人はまじめな人だから。

 仕事相手には敬意をもって対応してくれる。

 たとえそれが高校生であっても、こちらの意見にしっかりと耳を傾けてくれる。


「モミジロウくんとモミコちゃんが登場する脚本を考えます。いえ、考えさせてください」

「しかし、もう時間がありません」


 本山の冷静な一言が現実を知らせてくる。

 熱意だけではどうにもならないことがあると。


 一志は首を振る。

 現実が見えていないわけではない。

 見えているからこそ言うのだ。


「本山さん言いましたよね。読み聞かせは、おもしろい物語で朗読が上手くないと子どもたちは聞いてくれないって」

「はい。その通りです」

「上手い朗読は天ヶ沢がやります。だから僕は、おもしろい物語を書きます。モミジロウくんとモミコちゃんが登場する、子どもたちが喜んでくれる物語を書きます」


 一志にとってプロ作家の条件は、お金を得られる作品を書くこと。

 だがそれだけではない。

 作家は読者に対してまじめに敬意をもって接する。

 そのためには最高におもしろい物語を書くことが大事だと考えている。それなら今は、最悪を想定するよりも最善の行動をすべきだ。


 一志はイスから立ち上がり、正面に座っている本山に頭を下げて頼み込む。


「お願いします! 僕に脚本を書かせてください!」


 たしかに〆切までもう時間がない。

 それでもまだ時間は残っている。

 なら限界まで考えて動く。


 これは一志の作品である前に仕事として依頼された作品だ。

 それはわかっている。

 だからといって時間を言い訳にして手を抜くわけにはいかない。

 自分は必ずプロになるのだから。

 仕事として依頼された作品ならなおさらだ。

 できる限りのことはしたい。

 まだプロ作家でなくても、相手が誰であっても、まじめに敬意をもって仕事する。

 諦めたくない。

 今ここで諦めるのは違う。

 そんな想いが一志を突き動かしていた。


「私からもお願いします。どうか時間をください」

 いつの間にか玲も立ち上がって頭を下げる。

「彼は賞の〆切数分前まで小説を書いてたこともあります。だから、きっと大丈夫です」


 まったく援護になっていない発言に一志は苦笑する。

 それでも不思議と心強いと思った。

 あとは本山が同意してくれるかどうか。

 それだけが問題だ。


「二つ。条件があります」


 一志と玲は、顔を上げて聞き入れる準備をする。


「期限は来週。それまでにプロットを考えてきてください」


 イベント当日までわずかな時間しか残されていない。

 事前に脚本の確認や朗読劇のリハーサルもあるとしたら時間はさらに減ることになる。そんな状況で一週間は、十分すぎるほどの猶予ゆうよと言えるだろう。


「プロットは、モミジロウくんとモミコちゃんが登場するもの。それとモミジロウくんだけが登場するもの。この2種類を考えておいてください」


 こんな時でも本山は冷静な判断と行動をとる。

 もし来週までにモミジロウくんとモミコちゃんが登場する物語を考えられなかった時、別の新作を用意しなければならない。

 だが、さらに時間のない状況で新たに物語を考えてイベント当日に間に合うかどうか。そんな最悪の事態を避けるための策だろう。


 こちらを信用していないわけではない。

 むしろ期待しているから条件を付けたのだろう。


「よろしいですか?」


 本山の硬い表情も無機質な声も今はまったく怖くない。


「はい。それでお願いします」

「それでは一週間後に。またここで……0番街で会いましょう」


 本山は企画書と名刺を残してその場を後にする。おみやげにあげパンを持って。


 頭を下げて見送った一志と玲は急に疲れが出る。イスに座ると大きく息を吐き出した。

 今すぐプロットを考えたいけれど、しばらくは手も頭も動かせそうにない。


「ごめんね、一志」

「なんで天ヶ沢が謝るんだよ」


 二人とも机を枕にしながら口だけ動かす。

 その際に企画書が何枚か床に落ちていく。


「私が書くわけじゃないのに……あんな提案させちゃったから……」


 玲は申し訳なさそうにしているが、むしろ一志はありがたいと思っている。

 作品の批評と同じ。

 言いにくいことをしっかりと言ってくれるのが彼女のよさだから。

 今まで何度助けられてきたかわからない。

 どれだけ感謝してもしきれないほどに。


「いいよ、べつに」


 一志は自分の手を見る。

 まだ玲の柔らかな手の温もりが残っているようだった。


「むしろ感謝してるくらいだよ。ありがとう」


 あの時、手をつかんでくれていなかったら、きっと本山の提案を受け入れていた。

 時間がないから。

 依頼人が言うから。

 そんな理由で妥協していただろう。


「なんで感謝? どこか頭でも打った?」


 本気なのか演技なのか。

 不可解そうにしている玲を見てまた苦笑する。


「それより、いっしょにプロットを考えてくれないか?」

「もちろん。最高におもしろい物語にしようね」


 ようやく体力気力が回復してきた二人は、机に預けていた頭をゆっくりと起こす。


「へいお待ちぃ! 疲れた時にはチョコ姉特製のあげパンで決まりさ! さあ食いな!」


 注文した覚えのないあげパンを持って千代子がやってきた。どうやら本山が帰る際に注文しておいてくれたらしい。


「おっ! これがリカちゃんの企画書か。どれどれ、あたしも見てやろうじゃないか」

 千代子は、床に落ちていた企画書を拾い上げていく。


「本山さん。すごく仕事ができる人だよな。無表情でほめるのはちょっと怖いけど」

「うん、すごくいい人だよね。ちょっと抜けてるところはあるけど」

 一志と玲は、きなこと砂糖のあげパンを半分ずつにしながら笑う。


「ああ見えて緊張してたのさ。二人に依頼するためにいろいろ準備してたらしいから」


 千代子は企画書を読みながら微笑む。長い付き合いだからこそわかるのだろう。


「それにしても珍しい企画だな。太陽の下でやる【あおぞら朗読劇】って」

「へぇ。そういう企画だったんだ。屋外でやるなら人がたくさん来てくれそうだね」


 一志は、脚本の〆切やゆるキャラの設定にばかり気を取られていた。

 そのせいで企画書にちゃんと目を通していなかった。

 抜けているのは本山だけではないようだ。


 その時、皿の上にあげパンが落ちる。その拍子に白い砂糖が飛び散った。

 玲が目を大きく見開き、口を半開きにして、驚きの表情を見せている。また、その顔色は血の気が引いたように青白くなっていた。


「どうした? 頭でも打ったか?」


 一志がからかうように声をかける。

 だが玲は呆れるでも怒るでもなく黙っている。



『午後5時になりました。それではみなさん、0番街で会いましょう』


 

 今の彼女の代わりを務めるように、昔の彼女の声が古いスピーカーから流れてくる。


「ねぇ一志……」


「なに?」


「あのね……」


「うん」


「私……この企画……」


 そこでまた目を伏せて言いよどむ。

 言葉にするのが恥ずかしいのだろうか。


「最高におもしろいイベントにしような!」


 一志は相手の気持ちを代弁するように告げる。


 玲は、口を開くこともうなずくこともしなかった。

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