第136話 最高の1年にしよう

 陽が暮れるまで野球をしていた俺達は、そろそろと名残惜しくグラウンドを去った。


 運動用のスポーツウェアじゃない普通の私服は泥だらけになっている。正吾の家、芳樹の家、そして俺と有希の帰る方角に分かれる。


 どこからか、和風出汁の匂いがして、お腹を鳴らしながらもみんな姿が見えなくなるまで手を振り合う。小学生にタイムスリップしたみたいに、また明日学校で、なんて出そうになってしまう。


「ふふ……」


 駅へと向かう途中、有希の嬉しそうな笑い声がこぼれた。


「なんだか童心に帰ったみたいな日でした。こんなに体を動かしたのはいつ振りでしょうか」


 有希は誰よりも野球を楽しんでいる様子であった。打てば女の子とは思えない打球を放ち、守れば、普通に取れる打球もあえてダイビングキャッチしていた。なので誰よりも泥だらけである。


「今日はありがとうな。こんな茶番に付き合ってもらって」

「いえ。私も楽しかったですので、晃くんが気を使う必要はございません」

「でも、服もドロドロだし」

「思い出と引き換えに服が泥だらけになるなんて大したことではありません。面白い方を選んだ結果です。それに、服は洗えば綺麗になります」


 女の子なのにそんなセリフが迷いなく出てくるこの子は、本当に大物なのだと改めて実感してしまう。


「良かったですね。岸原くんが野球を続ける気になって」

「うん」


 沈んでしまった気持ちを浮上させるのは相当精神を要するだろう。でも、今日の一件で目指していた未来とは違うかもしれないが、続ける選択をしてくれた。


 もしかしたら、俺も続ける選択をしたのが彼の選択に関わっているのかもしれない。


 ただ、それが決めてではないだろう。


「ほんと、単純な話なんだよ。続けてもプロになれないから野球をやめる、強豪校に必要とされないから野球をやめる。そうじゃない。結局は自分が好きかどうか。やりたいかどうか。プロとか強いとかそんなもん関係ない。どんな環境でも好きなことができるならやるべきだよな」


 芳樹も、目指すところはプロのトッププレイヤーだったろうが、怪我をして強豪校のスタメンから外れたらもうプロにはなれない。


 だから野球をやめる。


 精神的にまいっていたからそんな極論になったのだろう。


 でも違う。


 あいつも根は野球バカなんだから、好きかどうかだ。


 今日、あいつはやっぱり野球が好きだから続ける選択をした。ただ、それだけだ。


「芳樹が続ける気になったのは有希のおかげでもある。本当にありがとう」


 軽くだけ頭を下げると、なにかに気が付いた有希が俺の頭へと手を伸ばす。そして、軽く撫でるように泥を払った。


「ふふ。頭に泥を付けるなんて、わんぱく小僧ですね」

「おてんば娘に言われたくないわ」

「あら。おてんば娘はポケットにハンカチを忍ばせていませんよ」


 言いながらハンカチを取り出して俺の顔を拭う。


「ほらほら晃くん。顔も泥だらけにして。もう、仕方のない人ですね」

「ど、ども」

「高校野球のマネージャーってこんな感じなんですか?」

「いやぁ。どうなんだろうな。シニアにはマネージャーなんていなかったからわからん」

「仕方ありませんね」

「なにが?」


 こちらの疑問を無視して、コホンと咳払いをしてから声を作る。


「せんぱい♡ 有希がいっぱい気持ち良くしてあげます♡」

「後輩マネージャー設定の有希、好き」

「せんぱいの汚れたバットはお家で拭いてあげますね♡」

「それ、ド下ネタだよね? ね? でも、好き♡ 拭いて」


 2人して、笑い合う。まるでオールの後のハイな気分での会話である。


「マネージャーってこんな感じですかね?」

「いや、男の妄想が強すぎて絶対そうではないだろうが、俺は好きだ。というか有希が好きだ」

「息をするように告白してくれる晃くんが好きです」

「でも、なんで後輩マネージャー設定なんだ? 有希はどっちかというとお姉さん系だけど」

「そうですね。やっぱり年上って憧れがありますからね。先輩に恋する後輩ってシュチュは、私的に超激エモです」

「有希は年上が好きなんだな……」


 沈んだ声が出てしまうと、ガシっと腕を組んでくれる。


「晃くんだって年上じゃないですか。誕生日。私より早いでしょ?」

「そうだけど」

「だから、あなたが私の憧れの年上の男性なんです」


 そんな可愛いこと言われたら抱き着きたくなる。でも、自分が泥だらけなのと、公共の場なのでなんとか我慢する。


「年上と言えば、もう3年になるんだな」

「そうですね。最高学年となりますね」

「修学旅行が終われば高校生活はあっという間って聞くけど、その通りかもな。もう、イベントもあんまりないし」

「なにを言っているんですか」


 寂しい声をだしてしまうと明るい声で否定されてしまう。


「まだまだ、球技大会も、体育祭も、文化祭もあります。それに学校行事以外でも、世間的には春夏秋冬、沢山のイベントがあります」


 それに、と真っすぐ俺の目を見つめてくる。


「特別な存在であるあなたといるだけで、それはもう1つの特別なイベントなのです」


 そんな嬉しいことを言ってくれる有希に我慢の限界が来て、俺は彼女を抱きしめてしまった。


 公共の場で泥だらけで抱き着くカップルを周りの視線がどう捉えるかは容易に想像できるが、こんな嬉しいことを言われて我慢できるはずもなし。


 有希も同じようなことを思ってくれているのか、拒絶する様子はなく、受け入れるように手を俺の後ろに回した。


「高校生活最後の1年。最高の1年にしような」

「あなたと一緒ならなにがあっても最高の1年にしかなりませんよ」

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