第19話
薄暗く狭い家の中に、シンクの上で雫の跳ねる音が響く。
渋川つぐみは、自宅のリビングで膝をかかえていた。
―――君たちが犯した罪は消えないよ。
マリスに吐きかけられた言葉が頭をよぎり、つぐみはぎゅっと目を瞑る。
頭がくらくらする。ここ数日、ろくに眠れていない。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
つぐみはまとまらない思考の中で、過去の出来事を思い返した。
最初の記憶は、両親からの拒絶だ。
「はあ、幽霊が見える?」
「いやだ、変なこと言わないでよ。気持ち悪い」
派手な格好の煙草くさい両親が見下ろす。
幽霊が見えることを打ち明けたとき、二人は迷わずつぐみを嫌悪した。
娘が恐怖で震えているのに、なぐさめることもない。それどころか家を空ける時間も増え、つぐみは両親に頼ることを諦めた。
けれど、家以外でも受け入れてくれる人は現れず、つぐみは常に孤立して生きてきた。
そんなある日、つぐみは両親とともに曰くつきのアパートへ引っ越すことになった。
家賃が格安だが、幽霊が出る家。
出来れば避けたい場所だが、どこへ行っても幽霊を見るので、つぐみにとっては大差ない。それに幼いつぐみが、自己中心的で怒りっぽい両親の決定に逆らえるわけもなかった。
せめて怖い幽霊じゃありませんように。つぐみは震える手を胸の前で組み、そう強く願いながら入居した。
そして、そこで出会ったのが優と麗だ。
「かわいそうだな……」
「あぁ、あの子は何も悪いことしてないのに……」
それは、今まで出会った幽霊のなかでは考えられない言葉だった。
幽霊どころか、人間からもそんなふうに言われたことはない。
つぐみが二人と仲良くなるのに時間はかからなかった。
優と麗は少し口が悪いけれど、本当は誰よりも心の温かい人だと知っている。
つぐみがいじめられたら相手をこらしめてくれて、どんな辛いときでもそばにいてくれた。
つぐみに悪口を言う人は絶えなかったが、それでも生きてこられたのは二人のおかげだ。
そして、二人と出会ってから数年経った頃。
定番になっていたお菓子泥棒をした後、つぐみたちはマリスに声をかけられたのだ。
「何でもひとつ願いが叶うよ」
そんな甘い言葉につられて、魔女の役割を始めたのだ。
集めた不幸の蜜で、友だちが欲しいという願いを叶えるために。
つぐみがそこまで振り返ったところで、キッチンのほうから小さな物音がした。
開きかけになっていた戸棚から、何かが落ちたらしい。
ふらふらと近づいて拾い上げると、それは小さい袋に入ったぶどうのグミだった。見慣れたパッケージには、拙い字でお誕生日おめでとうと書かれている。恐らく双子の仕業だ。
「これは……」
そのグミは両親が初めてくれたプレゼントだった。
大方パチンコの景品だったのだろう。それがわかっていても、つぐみは大喜びした。どんなお祝い事があっても、プレゼントなんてもらったことがなかったからだ。
それ以来、つぐみはそのグミがお気に入りになった。
いつか双子にもその話をした覚えがある。彼らはそれを覚えてくれていたのだろう。
明後日は、つぐみの十三回目の誕生日だ。
「……こんなにやさしい友だちが、近くにいたのに」
何て馬鹿なことをしていたんだろう。
つぐみはグミを抱えながら、ぼろぼろと大粒の涙をこぼした。
自分の醜悪な中身に嫌気がさして、涙は絶えずに溢れてくる。
双子は今朝、ちょっと出かけてくると言って家を出た。
きっと、自分に呆れて出て行ってしまったのだろう。戻ってこなくても仕方ない。
「私が、友だちがほしいなんて思ったから……」
今さら悔やんでも、双子は戻ってこない。きっとこのまま一人になってしまうのだろう。
つぐみが悲しみに打ちひしがれていると、突然家の鍵がカチャリと開いた。
玄関扉がゆっくりと開き、部屋にひとすじの光が差し込んでくる。
そこに立っていた人たちを見て、つぐみは動きを止めた。
それは、ずっと敵対していた少年少女たちだった。
「あっ、渋川さん!」
真ん中にいる亜美花が、つぐみの姿を見つけて名前を呼ぶ。
あぁ、きっと自分を倒そうと思ってやってきたのだろう。
つぐみが身構えていると、玄関の両脇から優と麗が顔を出した。泣きはらしているつぐみを見て、ぎょっと目を見開く。
「おい、つぐみ! 何があった!」
「手でも切ったのか!? 見せてみろ!」
「えっ、あの……」
優と麗は取り乱した様子でキッチンに飛び込み、慌ててつぐみの手を取った。その手に何も傷がないことを確認して、ホッと溜息をつく。
「なぁんだ、よかった! 怪我じゃなんだな!」
「脅かすなよぉ!」
「あの、これを見つけて……」
つぐみは優と麗に、おずおずとぶとうのグミを見せた。すると、二匹はみるみるうちに頬を紅潮させていく。
「えぇっ!? 見つけちゃったのかよぉ!」
「ちゃんと隠しておいたつもりだったのに!」
困惑するつぐみをよそに、優と麗はつまらなそうに口を尖らせる。
「えっと、ごめんなさい。それより、これはどういう状況なの……?」
「あっ、そうだった!」
優と麗は、つぐみの腕をぐいぐいと引っ張った。玄関まで誘導して、亜美花たちの前に立たせる。つぐみは癖でサンダルをつっかけた。
「あのな、俺たちこのままじゃいけないって思って、こいつらに俺たちの事情を話したんだ」
「俺たちだけじゃ、あの猫をどうにもできないだろ? だから、助けてくれないかって……」
優と麗の言葉に、つぐみは唖然とした。
彼らは、自分が人を信じることができないと知っているはずだ。それなのに、お構いなしに人を呼んだ。しかも、この前まで敵対していた人物をだ。
気づかわしげな彼らの視線が、余計につぐみの心を苛立たせる。
同情なんていらない。どうせまた、裏切られるに決まっている。もう傷つくのはごめんだ。
「そんなこと、私は頼んでない!」
「つぐみちゃん……」
彼女は喉が腫れるほどに激しく叫んだ。光希が少し傷ついたような表情で見つめてくる。
つぐみは怒りと悲しみがないまぜになったような感覚に陥った。
「お願いだから、私に構わないで!」
つぐみは亜美花たちを押し退けると、アパートを飛び出した。
荒ぶる気持ちのまま、住宅街の中を駆け抜けていく。容赦なく照りつける太陽が熱い。
息が上がって苦しさを感じて立ち止まる。
どうやら、意識的に人を避けて来たらしい。彼女が辿り着いたのは、町の外れにある薄暗い林の中の一本道だった。
カサッという音が聞こえ、ふと手に持っていたものに気づく。双子が用意していたぶどうグミを持ってきていたらしい。
優と麗の顔を思い出し、先ほど投げかけた言葉がよみがえる。
少し言い過ぎてしまっただろうか。
彼らはいつも、自分のことを第一に考えて行動してくれるのに。
きっと、助けを呼んだことには悪意はなかっただろうに。
それでも、つぐみは帰る気にはなれなかった。どうしたって、彼らを信じることはできない。今までの経験で生まれた心のブレーキがかかり、身動きが取れなくなる。
―――これからどうしよう。
彼女が立ち尽くしていると、背後からひたひたと嫌な気配が近づいてきた。
「いいもの持ってるね。それ、双子からのプレゼント?」
「えっ?」
冷気をまとった声に驚いて振り返る。すると、そこには忌まわしい黒猫がいた。
「マリス!」
「久しぶり。元気にしてたかな」
つぐみが叫ぶと、マリスはまるで先日のことなんて覚えていないかのように、落ち着いた足取りで近づいて来る。得体の知れない雰囲気が恐ろしい。
「いやあ、この体は本当に不便だね。なかなかお菓子を盗むことが出来ないよ」
その言葉に、つぐみは少しだけホッとする。不幸の蜜は、先日会ったままの状態だ。まだ完全に溜まりきっていない。
「そのまま猫の体に入ってたらいいじゃない!」
こいつは双子を殺した悪党だ。もとの姿に戻って好き放題させてなるものか。
つぐみが精一杯の虚勢を張って言うと、マリスはニタリと笑った。
「そんな悲しいこと言わないでくれよ。仲間だっただろう?」
「人を騙しておいて、よく言うわ!」
「ふーん、つぐみはひどいなぁ」
マリスの目が細まり、つぐみはびくっと肩を震わせる。
「ねえ、つぐみ。そのグミをこっちに寄越してよ」
「い、嫌よ! 絶対に渡さない!」
つぐみは、ぶどうのグミをぎゅっと抱きかかえた。
「それなら、―――強引に奪うまでだ!」
姿勢を低くしたマリスを見て、つぐみは身を翻して走り出した。マリスは背後から猛烈な勢いでつぐみを追いかけてきている。
当てもなく逃げ惑い、つぐみの息が上がって行く。
徐々にマリスとの距離が詰まっていき、鼓動がはち切れるほどに速くなった。
足がもつれて、地面に滑り込むように倒れる。
「きゃあ!」
「もらった!」
飛びかかって来たマリスを見て、もうダメだと目を瞑ったその時。
「おらぁぁっ!」
つぐみの背後を白い影が横切り、鈍い衝撃音が聞こえた。
「つぐみ、無事か!?」
「優、麗!」
現れたのは優と麗だった。彼らはマリスに体当たりをしたらしく、マリスの体は道の端に転がっていた。
「ぐっ、この野郎。よくも……」
しかし、致命傷は負っていないらしい。マリスは前足を地面につけて、ぐぐっと体を起こしていた。
「待ちなさい。彼女には指一本触れさせないわ!」
優と麗の後ろから声が飛ぶ。
つぐみを守るように立ちはだかったのは、亜美花たちだった。
「あなたたち……」
「現れやがったな……」
メルトレンジャーの登場に、つぐみは目を丸くした。マリスは口惜しそうに顔をしかめている。
「つぐみちゃん、大丈夫?」
光希がつぐみのもとに駆け寄り、体を気遣うように背に触れた。
あれだけひどい言葉をかけたのに、彼の目はつぐみのことを案じている。
「何で、助けてくれるの。私は酷いことをしてきたのに……」
「だからこそだよ」
つぐみの弱々しい言葉を遮るように、亜美花が言う。
「渋川さんは、自分が悪いことをしたってわかってるんでしょ? それなら、尻ぬぐいは自分でやらなくちゃ。そのための手伝いなら、私たちはよろこんでするよ」
「倒すべき相手は一緒だからね!」
「昨日の敵は今日の友ってやつだな!」
「あぁ、一緒にマリスを倒そう」
「つぐみちゃん。助けてって言えるのは恥ずかしいことじゃない。勇気のある証拠だよ」
暖かい言葉をかけられ、つぐみの目の奥が熱くなる。
「うぅっ、ありがとう。今までごめんなさい……!」
「反省するのは後だよ! さあ、立って渋川さん!」
亜美花の言葉を聞いて、つぐみは彼女の差し出した手を取った。
「決まりですわね! では、つぐみ! あなたにマリスを倒すための力を与えますわ。何かお菓子を持っているかしら?」
亜美花の肩の上で流れを見守っていたハッピーが、つぐみの周りを飛び回る。
「えっと、じゃあこれを」
つぐみは双子がプレゼントしてくれた、ぶどうのグミを差し出した。
ハッピーはいいですわねと言って、グミに両手を触れた。触れた個所から光が放たれ、グミの形が変わっていく。
光が収まると、それは紫色の宝石がついたペンダントになっていた。
「さあ、これで変身するのよ。つぐみ! いえ、メルトパープル!」
絶対にマリスを倒してみせる。
ハッピーの言葉に、つぐみは決意を込めてうなずいた。
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