第12話
夏休みに入る少し前のこと。
授業を終えて下校していた光希は、住宅街の片隅で数人の男子中学生を見かけた。彼らはひとりの少女を取り囲むようにして立っている。
肌がぞわぞわと粟立つような嫌な空気を感じ、光希はとっさに近くの電柱の陰に隠れた。
柱の陰から顔を覗かせて、こっそりと様子をうかがう。
「お前がいると空気が暗くなるんだよ」
「まじで消えてくんない?」
男子中学生たちが笑いながら吐き捨てた言葉に耳を疑う。
なぜそんなひどいことが言えるのだろう。いったい彼女が何をしたっていうんだ。
何一つ言い返すことなく耐えている少女を見て、光希の中で同情がふくらんでいく。
しかし、相手は自分より圧倒的に強い中学生だ。このまま文句を言いに飛び出して、暴力を振られたらひとたまりもないだろう。
鼓動がはち切れんばかりに速まる中で、光希は懸命に考えを巡らせた。
そして、ふいにランドセルの左の肩ベルトにつけている防犯ブザーの存在を思い出す。
光希は汗のにじむ手で防犯ブザーのひもを掴むと、どうにでもなれという思いで男子中学生たちの前に飛び出した。勢いよくひもが引き抜かれて、辺り一帯にけたたましい音が響き渡る。
「誰か助けてーっ! 不審者だーっ!」
「はっ!? 何だこのガキ!」
突然現れて叫び散らす光希に、男子中学生はぎょっとしていた。彼らが動揺している間に、周囲の家から住民が一人また一人と顔を覗かせていく。
「くそっ、行こうぜ!」
住民たちの怪訝な視線に耐えきれなくなったのだろう。男子中学生たちはうろたえる様子を見せて、顔をしかめながら逃げて行った。
彼らの姿が完全に見えなくなり、顔を出していた住民たちも家に引っ込んでいく。すると、立ち尽くしていた少女はゆっくりと光希を振り返った。
両耳の下から伸びる墨色の三つ編みは腰に届くほど長く、ひだまり中学のさわやかなセーラー服に包まれた肌は陶器のように白い。重い前髪の下からは悲しげな瞳が覗き、どこかアンニュイな雰囲気をまとっていた。
「あの、大丈夫ですか?」
憂いを帯びた表情を前にして、光希は声を詰まらせながら尋ねる。数秒の沈黙の後、彼女はその薄い唇をゆっくりと開いた。
「……平気。ありがとう」
彼女はそれだけ言い残し、光希に背を向けて静かに立ち去っていく。
光希は呼び止めようとして、伸ばしかけた手を引っ込めた。
彼女の後ろ姿は濃い哀愁が漂い、どこか人を寄せ付けない雰囲気があったのだ。
やっぱり、声をかければよかったかな。
後悔に苛まれる彼のもとに、再会のチャンスはあっさりと訪れた。
それは、メルトレンジャーのみんなで遊園地に行った翌朝のこと。うさぎの世話当番のため小学校に向かうと、例の少女がいたのだ。
彼女は校舎を囲む金網フェンス越しに、裏庭のうさぎ小屋をひとりで眺めていた。薄幸そうな印象は変わらないものの、その乏しい表情にわずかな笑みが浮かんでいた。
光希が思いがけない状況に固まっていると、少女は彼の存在に気づき、駆け足で逃げてしまった。
正門から入り、フェンスの内側にいた光希には、追いかけることもままならない。
それから、数日おきに訪れる当番のたび、同じやり取りの繰り返しだった。
しかし、今日は違う。
光希は気合いの入った表情で、小学校へ向かっていた。
―――話してみなきゃわからないこともあると思うんだ。
それは前回の芯平の一件で亜美花が言ったひとことだ。この言葉に背中を叩かれ、光希は思い切って声をかけようと決意した。
エサの入ったビニール袋をぎゅっと掴んで、ずんずんと力んだ足取りで正門前を通り過ぎ、フェンス沿いに校舎の裏手に向かう。曲がり角から裏手を覗くと、予想通り例の少女がうさぎ小屋を眺めていた。今日は制服ではなく、白いフレアスリーブの半袖シャツに、薄紫色の長いプリーツスカートを着ている。
「あの!」
光希は勢いのままに駆け出し、彼女の前に野菜くずの入ったビニール袋を突き出した。
「エサ、あげてみる?」
目を見開いていた少女が、少し間を空けてからうなずく。
まるで野原いっぱいに花が咲いたような心地になり、光希は興奮気味に彼女をうさぎ小屋まで案内した。
「ぼくは柊光希って言うんだ! お姉さんは?」
緊張しながら聞くと、彼女は「つぐみ」と答えた。亜美花から聞いていた、幽霊の見える少女で間違いないだろう。
「つぐみちゃん、こっちこっち!」
やや駆け足で小屋の前に向かい、少し後ろのつぐみを手招きする。
足高な木製の小屋から、つぶらな瞳の白い毛玉が見つめ返す。光希のクラスで飼っている雌のロップイヤーだ。
「この子はユキ。すごく人懐っこいんだよ! はい、好きなのあげてみて!」
光希はエサやりを促すように、ビニール袋の中身を広げて見せた。
「……ありがとう」
つぐみはおずおずと人参の皮を摘まむと、網の隙間に差し入れる。小さい鼻をくんくんと動かして近づいたユキが、人参の皮をぱくりと口に含んだ。もさもさと一心不乱に食んでいるユキを、つぐみはじっと見つめている。
「うさぎが好きなの?」
「……動物や植物は好き。私のことを、裏切らないから」
重みのある返事に、光希はたじろいだ。
「何かあったの? あっ、嫌なら言わなくていいんだけど……」
逡巡してから、ためらいがちに問う。
亜美花から大まかな話は聞いていたが、彼女の口から直接聞きたい。そうしなければわからないことも、たくさんあると思う。
それに光希の目には、彼女の態度が聞いて欲しいと言っているように映ったのだ。
「信じられないかもしれないけど、私には幽霊が見えるの」
つぐみはユキが人参の皮を食べきったのを見て、怖々と口を開いた。
「そのせいで、周りからはずっと奇異の視線を向けられてきたわ。思い切って打ち明けたら、なぐさめの言葉をかけてくれる人もいた。けれど、みんな裏では気味悪がっていたの。誰も信じてはくれなかった。同級生や先生はおろか、両親でさえも」
彼女はうつむきかげんで、訥々と語った。
その姿に胸が痛み、光希は思わず口を開いていた。
「ぼくは信じるよ!」
光希が力強く答える。
つぐみのことを信じ、彼女の力になりたい。ありきたりだが、それが今の彼の正直な気持ちだ。
ひと昔前の彼なら、信じていなかったかもしれない。正確に言えば、怖くて信じたくなかっただろう。けれど、お菓子泥棒のおばけたちを目撃して、否が応でもその存在を認めることになった。
光希はつぐみの目をじっと見つめて返事を待つ。
彼女の反応は鈍く、その顔には戸惑いも喜びも浮かんでいない。
「気を遣ってくれてありがとう。でも、仕方ないと思うの。誰だって、自分が見たことのないものを信じることはできないから」
彼女の物言いは無気力だった。もう何にも期待をしていないかのような雰囲気がある。
「ぼくは本当に信じてるよ! だって、動物が好きな人に悪い人はいないでしょ! つぐみちゃんが嘘をついているようには見えないよ!」
光希が懸命に訴えるも、つぐみの表情は先ほどと同じだ。彼の気持ちが届いた様子はない。
「ごめんなさい。みんなが幽霊を信じられないように、私は人の言葉を信じることができないの」
「えっ……」
はっきりと線を引かれたような気がして、光希の体は強張る。
「これ以上、私に近づかないほうがいいわ。それが、あなたのためでもあるの」
つぐみは淡々と告げると、スッと立ち上がり静かに校舎裏を後にした。
彼女の後姿を、光希は呆然と見送った。
当番を終えたあと、光希は溜息を落としながら商店街に向かっていた。母親におつかいを頼まれていたのだ。
「もう、来てくれないかなぁ……」
先ほどの会話を思い出して、とぼとぼと歩いていると、途中にある噴水広場になにやら人が集まっていた。
レンガを敷き詰めた円形の広場の隅には、ポップなラッピングのキッチンカーが停まっている。横に建てられたのぼりを見るに、ドーナツの移動販売らしい。キッチンカーの前には十数人の列が出来ており、周囲のベンチでは学生や親子連れ、カップルなどが楽しそうにドーナツを頬張っている。
―――彼女には、ああやって笑い合う存在がいないのかな。
楽しそうに待っている人々を見て、光希の胸がズキンと痛んだ。
力になりたくても、はっきり断られたのでは話にならない。
光希が肩を落としたその時、広場を掻き回すように鋭い風がうず巻いた。
人々は突然の出来事に、何があったのかと騒いでいる。
「あっ、ぼくのドーナツ!」
風が止み、三歳くらいの少年が上空を指さす。
そこには、胸に大量のドーナツを抱えたユウとレイがいた。その少し後方にはほうきに乗った魔女とマリスもいるが、魔女はいつにも増して重たい空気をまとっている。
人々が怯えたのは、おばけか魔女か、はたまた空中に浮くドーナツか。
広場からはたちまちに人が逃げ去り、先ほどまでの賑わいは悲鳴と泣き声に塗り替わった。
「んーっ! これ美味いなぁ!」
「泣き顔を見ながら食うドーナツは格別だぜ!」
おばけたちは、人々から巻き上げたドーナツを、遠慮なく貪っている。
「そっ、そのドーナツを返せ!」
頼れる仲間がいない中、光希は震える声で叫んだ。
見るからにおどおどとしている光希の姿に、おばけたちは腹を抱えて笑う。
「見たか相棒、傑作だな!」
「ちびすけだけで、いった何ができるんだよ!」
光希は怒りと羞恥心で顔を赤らめながら、ペンダントをにぎりしめる。
「変身!」
かけ声とともに、光希の格好がオレンジの衣装へ早変わりする。
周りの人々は、木やベンチの陰などから、何事だろうと遠巻きにその様子を眺めている。
「スイーツロッド!」
手元に現れたロッドを手に取り、光希は駆け出した。
噴水の縁に足をかけて飛び上がろうとしたとき、ユウが手を振り上げる。
すると、噴水の中央から突然水が吹きあがり、光希を上空へと押し上げた。
「うわぁっ!」
「はははっ、愉快だな!」
慌てふためいている光希を見て、ユウは声高らかに笑う。
光希は体が高く浮き上がった瞬間に、ロッドの先端を何とかおばけたちのいる方面に向けた。
「マジカルリボン!」
勢いよく飛び出した光の帯は、双子の間を通り過ぎ、背後にある街灯の柱に絡みついた。
光希は力任せに引っ張り、噴水の上から脱出する。
そのまま、瞬時におばけたちとの距離を詰めて飛びかかった。
しかし、そこにはユウだけしかいなかった。
「隙ありっ!」
困惑していると、光希はレイに後ろから背中を蹴られ、地面に転がり落ちた。
痛みに耐えながら体を起こし、ロッドを銃の形態に変化させる。
「マジカルショット!」
おばけたちに目がけて光線を放つ。
「ミスティックシャドー!」
「うわぁっ!」
魔女が周囲の影を操り、光線を跳ね返した。光線のいくつかが体をかすめ、光希は再び地面に倒れ込んだ。
「へへっ、まだまだ甘ちゃんだな!」
「俺らに勝とうなんて、数年は早いぜ!」
そう言って、おばけたちはドーナツを持って魔女のもとに向かった。
「ほーら、戦利品だぜ!」
おばけたちに差し出されたドーナツを手に取って顔の前にかざすと、魔女は真ん中の空洞をじっと眺めた。
「……まるで、私みたいね」
悲しげな魔女のつぶやきが、かすかに光希の耳にも届く。
「光希くん! 大丈夫!」
「げっ、早く帰ろうぜ!」
遅れて亜美花たちが到着した頃、魔女たちはローブをはためかせて姿を消してしまった。
薄暗いアパートに、影をまとった少女が降り立った。
体からさっと影が離れ、シュルシュルと足元に吸い込まれていく。
家に戻って来た魔女―――渋川つぐみは、気だるげに歩いて、リビングの床に座り込んだ。
「どうした、つぐみ? 元気がないな」
「今日は久しぶりに成功したのに」
後ろからついてきたおばけたちが、ドーナツを頬張りながら口々に声をかけてくる。
「……外の暑さがきつかっただけよ」
つぐみが力なく答えると、おばけたちは目を見開いた。
「えっ、熱中症か!?」
「待ってろ。いま水を持ってきてやる!」
二人が慌ててキッチンに向かったのを見送り、つぐみの肩からマリスが下りる。
彼はテーブルの上でつぐみに向き直り、しゃなりと足を揃えて座った。
「つぐみ、あと少しの辛抱だよ。ほら見てごらん。不幸の蜜もこれだけ溜まった。願いが叶う日は近いんだ」
マリスは気づかわしげにつぐみの顔を覗き込み、首輪に付いた小さいガラスの小瓶を、器用に前足で揺らしてみせる。
ゆらゆらと波打つ、透きとおった琥珀色の液体を、つぐみはうつろな目で見つめていた。
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