第9話

 晴れ空の下、忙しない足音と大きなかけ声が響く、ひだまり中学校のグラウンド。

 そこで部活動に励んでいた千代は、タオルで汗をぬぐいながら、給水器を求めて校舎へ向かっていた。

「おーい、大丈夫か?」

 聞き覚えのある声に反応して、パッと顔を上げる。

 視線の斜め先、プールにつながる校舎の脇道に爽がいた。隣にいるのは水泳部の女子マネージャーだ。

 女子マネージャーは、部活で使うであろう道具が山盛りに入れられたプラスチックのかごを抱えており、手はふるふると震えている。

「氷室先輩、おつかれさまです! こっ、このくらい平気ですよ!」

「いやいや、さすがに重いだろ! 無理すんなって、貸してみな!」

 爽は彼女が運んでいた重そうな荷物を、笑顔で引き受けている。

 そんな姿を見て、千代の胸は苦しくなった。

 私にも、あんなふうにやさしく声をかけてくれたな。

 爽の言葉を反芻して、千代は彼と初めて会ったときのことを思い出した。

 あれは入学したての四月中旬。

 走ることが大好きだった千代は、部活の希望を聞かれて、迷わず陸上部を選んだ。

 まだ体験入部だから、それほど動かないだろう。

 その日風邪ぎみだった千代の考えをよそに、新一年生の外周は始まった。

「たらたら走んなーっ!」

 スタート地点で張り切る顧問の声を聞きながら、千代は普段の半分ほどの力で走っていた。

 ときどき他の一年生や先輩たちが追いこしていく。

 体が重い。それに、頭がふらふらする。

 調子は優れないものの、周りの気合いの入り様を見ると言い出すことができなかった。

 あと一周。もう少し頑張れば……。

 ぎゅっと拳を握って、辛さに耐えていたその時だった。

「おーい! そこの一年生、大丈夫か?」

 突然、後ろから誰かの声が飛んできた。

 驚きながら振り返る。桜の花びらが舞い散る中、背が高く髪の短い少年が、千代のもとに駆け寄ってきていた。

 澄んだ瞳で心配そうに見つめてきた彼。それが爽だった。

 千代は突然のことに戸惑いながら、ゆるゆると立ち止まった。

「えっと、少し熱があるみたいで……」

「やっぱりな。足がおぼつかない感じだったから気になって……。ほら、行くぞ!」

 そう言うと、彼は嫌な顔ひとつせずに、千代を保健室まで案内してくれた。保健室に向かうまでの間、のろい歩調に合わせてくれていたことを、千代はよく覚えている。

 それからというもの、爽は外周で会うたび千代に声をかけてきた。

「おーう、お千代ちゃん元気?」

「その呼び方、やめて下さい!」

 爽は千代の古風な名前をいじり、妙なあだ名をつけて呼んだ。

 そのからかうような口調の中に、見え隠れするやさしさ。それはいつだって千代の心を激しく揺さぶった。

 彼に話しかけられるたび、うれしくてたまらない。それなのに、なぜか素直になれなくて突っぱねてしまう。

 その理由を、千代は最近になってわかりはじめた。

 彼の人当たりの良さを見て実感する。

 あの人は誰にでもやさしい。だから、期待をしてはいけない。

 爽が自分以外の誰かと楽しそうに話したり、親切にしたりしている姿を見るたび、千代は無意識のうちに気持ちを抑え込んでいたのだ。


「痛っ!」

 額に走った衝撃で、千代はハッとなる。

 部活中から心ここにあらずだった彼女は、昇降口のガラス扉が閉まっていることに気づかずぶつかってしまった。やるせない気持ちがふくらみ、重い溜息を吐く。まるで良いことなしだ。

「千代ちゃん、大丈夫?」

 憂鬱な気分で額をさすり、昇降口を出たところで声をかけられた。爽の親友である快人だ。

 爽と快人はよく一緒にいるので、千代もいつの間にか親しくなっていた。

「はい、大丈夫です」

 中学生にもなって、よそ見をしてぶつかるだなんて恥ずかしい。驚いたような表情で見つめて来る彼を前に、千代は痛みを堪えて冷静を装った。

「先輩はいま帰りですか?」

「あぁ、爽が来たら帰るよ。あいつ、ここに来てから忘れ物を思い出してさ。戻るのを待ってるんだ」

「先輩、忘れ物多くないですか?」

「だよなぁ? 昔からそうなんだよ。まったく、いつになったら治るんだか……」

 快人が爽のそそっかしさを笑い飛ばす。一瞬の沈黙のあと、彼はためらいがちに言った。

「あのさ。千代ちゃん、何か悩みごとでもあるの?」

「えっ、どうしてそれを……」

 快人を驚きの眼差しで見つめる。彼は、そんなの簡単だと言わんばかりに小さく笑った。

「だって、すっごい挙動不審だったからさ。何か表情も思いつめてる感じだったし。俺で良ければ話聞くよ? 吐き出して楽になることもあるじゃん」

 快人が人の好さそうな、さっぱりとした微笑みを浮かべる。

 水泳部の部長を務める彼は、年相応に軽薄な言動はあるものの、根は真面目な性格だ。人の悩みを笑ったりするような質ではない。

 彼にだったら話してもいいだろうか。

 モヤモヤとした気持ちが溜まっていた千代は、少し迷ってから口を開いた。

「氷室先輩って、すごい良い人じゃないですか。明るくて親切で気さくに話しかけてくれて。でも、それって私にだけじゃないんだよなって思ったら……。その、少し寂しくて」

 言っている間に恥ずかしくなって、言葉尻が小さくなる。

 改めて声に出してみると、とても子どもじみた嫉妬心だと実感する。

 穴があったら入りたいとはこういうことだろうか。

 話を聞き終えると、快人はやや困ったような顔で苦笑した。 

「あいつは罪作りな奴だなぁ」

 その言葉が、千代の胸にすとんと落ちる。

 まるで自分の不満を集約したような表現だ。

 少しだけ気分がすっきりしたものの、心の隅にある寂しさは晴れない。

 千代が何とも言えずにいると、快人は話を続けた。

「でも、千代ちゃんはもっと自惚れていいと思うけどな」

「えっ、それってどういう―――」

「快人、お待たせ!」

 千代が言いかけたところで、爽が二人のもとに駆け寄ってきた。

 何てタイミングの悪い人だろう。

「あれ、千代も帰るところ?」

 爽が明るい声で聞いてくる。千代はどことなく居心地の悪さを感じながらうなずいた。

「じゃ、一緒に行こうぜ」

 いつも見惚れてしまう、爽のまぶしい笑顔。それが今は直視できなかった。


 三人で他愛もない話をして、昼下がりの帰り道を歩く。

 その間、千代は快人の発言の意味が気になって仕方なかった。

 もっと自惚れてもいいとは、いったいどういうことなんだろう。

「それじゃ、俺はここで!」

「おう、またな!」

「……さようなら」

 疑問は解決しないまま、快人が分かれ道に消えていく。

 二人きりになると、爽は何も考えてなさそうな顔で口を開いた。

「なあなあ、快人となに話してたんだ?」

 彼の質問に心臓がびくりと跳ねあがる。

「べ、別に大したことは……」

 さっきの会話を聞かれていたのではないだろうか。そんな考えがよぎり、千代は動揺をにじませて答える。視線を合わせることもできない。

「わかった、俺の悪口だろ!」

「違いますよ!」

 言い淀んだ千代に、爽は冗談めいた口調で返した。遠からずなことを言われて、千代は慌てて否定した。

 そんなやり取りをしている間に、二人は住宅街近くの土手に差しかかった。

 にぎやかな声が聞こえて目を向ける。家族か友人同士の集まりだろうか。十数人が川辺で和気あいあいとバーベキューをしている様子が見えた。

「おっ、楽しそうだなぁ」

「そうですね」

 いつか、亜美花たちとも出来たらいいな。

 そんなことを考えながら眺めていると、突然辺りに強い風が吹き荒れた。

 目に砂が入り、千代は思わず目をつぶる。

「マシュマロがないぞ!」

「あっ、あれを見て!」

 子どもたちの驚く声が聞こえ、千代は視線を向ける。バーベキューをしている人たちの頭上には、魔女たちが浮いていた。

 地面に落ちる影の一部が、触手のように伸びて、マシュマロの袋を取り上げている。

 魔女は自分の背中から顔を見せているユウとレイに、そのマシュマロを預けた。

「へへっ、頂き!」

「それじゃあな!」

 ユウとレイがマシュマロを見せびらかすように振った後、魔女たちはバーベキューをしている人々に背中を向ける。

 魔女とマリスは誰にでも見える存在だ。大人がいかにもな出で立ちの魔女に怯える中、子どもたちはおばけのユウとレイに注目している。

「それ、デザートで焼くつもりだったのに!」

「おれたちのだぞ! 返せ!」

 少年は魔女たちを追いかけると、勇ましく飛び上がり、ユウのしっぽを掴んだ。

「いでででっ!」

「なにすんだ、離しやがれ!」

 想いもよらぬ展開に、ユウは苦悶の表情を浮かべた。レイが少年を引っ張るも、彼は必死に食らいついている。

「まったく、何を遊んでいるの」

「二人もまだまだ子どもだな」

 魔女たちが呆れたように見ている中、ユウは身を捩って激しく抵抗する。その末に少年は原っぱに振り落とされてしまった。

「ぐあっ!」

 苦しそうな声を上げた少年に、周りの人々が駆け寄る。それを見たおばけたちは、一瞬だけ顔が強張っていた。

「お、お前が悪いんだからな!」

「そうだそうだ!」

 おばけたちの言葉を聞いて、千代は思わず土手から身を乗り出した。

「悪いのはあんたたちのほうよ!」

「いい加減に反省しやがれ!」

 爽と一緒に大声を張り上げる。

 二人の存在に気づいたおばけたちは、思いきり顔を引きつらせた。

「お前らいたのか!」

「まずい、早く行こうぜ!」

 そう言って、彼らが後退りを始めたその時。

 背後から飛んできピンクの光線が、おばけの手をかすめた。

「うわわっ!」

 マシュマロがユウとレイの手から離れて原っぱに落ちる。

「バーベキューを楽しむ善良な人たちをいじめるなんて最低! 今日こそ逃がさないわ!」

 対岸には、スイーツロッドを構えた亜美花が立っていた。隣にはハッピーと芯平と光希もいる。

「二人とも、遅れてごめんね!」

「みんな!」

 仲間の登場に、千代は安堵を覚える。

「お菓子泥棒たち! 今日という今日は許しませんわよ!」

 びしっと指を差すハッピーを見て、おばけたちは苛立ちをにじませる。

「ちんちくりんのくせに、調子に乗るな!」

「本当にうっとうしい奴らだな!」

「ほら、さっさと逃げるよ」

 左右を取られた魔女は、おばけたちを引き連れて川の上を移動していく。

 魔女の能力は影を操ることだ。これまでの戦闘を見るに、影の能力はあまり地面から離れて使うことは出来ないらしい。これはハッピーと芯平が気づいて教えてくれた。

 つまり、空を飛んでいる間は影が遠くなって不利な状況のはず。討つなら今がチャンスだ。

「先輩!」

「おう!」

 千代は爽に呼びかけると、ペンダントを握って彼と一緒に変身した。

 走りながら衣装が変わり、脚力が強化されことを感じる。

 千代は強く足を踏みしめ、爽と対岸で並走している仲間とともに魔女たちを負った。

「スイーツロッド!」

 千代と爽は手のひらを広げ、現れたロッドを握り込む。

「マジカルショット!」

「させるか!」

 千代がロッドを構えたことに気が付き、ユウが手を振り上げる。道端の小石が無数に浮かび上がり、千代たちに向かって勢いよく飛んでくる。襲いかかった石が、ロッドを弾いて半回転した。

「きゃあぁぁっ!」

 光線が頬をかすめて驚いた千代は、土手から足を踏み外して宙に放り出された。

 体を縮こまらせて、恐怖から目をつぶる。しかし、覚悟していた痛みは訪れず、その代わりに逞しい腕が千代の体を包んだ。

 ズサッという草の上をすべるような音がやみ、動きが止まったところで、そろそろと目を開ける。すると、至近距離に爽の顔があった。

 彼が飛び出して受け止めてくれたらしい。いわゆるお姫様抱っこだ。千代は赤面して言葉を失った。

「怪我してないか?」

「だ、大丈夫です」

 そっと地面に下ろされた千代は、火照った頬を押さえた。

 正直大丈夫ではない。こんなことをされたら、どう頑張っても期待してしまう。

 お願いだから、これ以上私の心をかき乱さないでほしい。

 他意はないのかもしれないが、思わせぶりなことをする彼に、半ば苛立ちすら感じていた。

 落ち着かない思考のなかで、千代はふいに今の状況を思い出す。

「そういえば亜美花たちは!」

 千代は慌てて視線を走らせる。

 数十メートル先にいる亜美花たちは、おばけたちと攻防戦を繰り広げていた。

 助けに入ろうと、二人は彼らのもとに急いだ。

「しつこい奴らだなぁ」

 魔女の肩の上で、マリスが前足を上げる。

 すると、キィーンという耳鳴りのような音がして、周囲の草むらからバッタやトンボがわんさかと飛び出して来た。

「わっ、突然何なのっ!?」

「きゃあぁぁぁぁーっ! 虫は苦手ですわ!」

 恐らくマリスに操られているのだろう。虫たちに周囲を取り囲まれて、一同は大混乱だ。特にハッピーは半狂乱状態で、亜美花の背に貼りついて凌いでいる。

「いい悲鳴だなぁ、ちんちくりん!」

「くっ! マジカルリボン!」

 芯平が苦渋の表情を浮かべ、虫の大群を光の帯で払い落とす。

 開かれた隙間から魔女たちのもとに駆け出すも、彼の足首を触手のような影が掴んだ。

 バランスを崩した芯平の体は土手に投げ出され、川に落ちていく。

 みんなが思わず彼の姿を目で追った。その隙に、魔女たちは逃げ出した。

「ははっ、いい気味だね」

 去り際、ボロボロの亜美花たちを見てマリスがニヤリと笑う。

 その首輪につけられている小瓶の中では、以前より溜まった不幸の蜜が揺れていた。


「芯平、大丈夫か!」

「あぁ、何とか……」

 亜美花たちのいる川辺に駆けつけた爽は、変身を解いて芯平にタオルを手渡した。

 川から這い上がって来た芯平は、変身を解いてもずぶぬれのままだ。

 それを見て、千代は怪訝な表情を浮かべてハッピーに問う。

「こういうのって、普通変身を解いたら無事なものじゃないの?」

「そっ、そんな都合のいいものはありませんわ!」

 ハッピーは先ほどの虫の大群が堪えたようだ。顔は青ざめ、体は小刻みに震えている。

 怒っているというより、恐怖で物言いが辛辣になっているらしい。

 いくら魔法と言えど限界はあるのだろう。

 千代がそんなことを考えていると、四人は魔女たちを取り逃がしたことを悔しがっていた。

「ごめん、ぼく全然力になれなかったよね」

「光希くん、そんなことないよ!」

 落ち込む光希を、亜美花がなぐさめる。

「とりあえずお菓子は取り返せましたし、また次がありますわ!」

 ハッピーが意気込んだその時、芯平が盛大にくしゃみをした。その体は微かに震えている。

「……本当に大丈夫か?」

 何だか嫌な予感がして、四人は顔を強張らせた。

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