第5話
「んーっ! 間に合ってよかった!」
七月七日の放課後、亜美花は病院の前で大きく伸びをした。ここで調理師として働く母に、忘れ物を届けてほしいと頼まれたのだ。
ホームルーム終了後に連絡を受けた亜美花は、急いで自宅に戻り病院にやってきた。今日の退勤時間までに提出しないといけない、大切な書類だったらしい。
「さすがにお疲れですわね」
ハッピーが、かばんの中から顔を覗かせる。
無理もない。亜美花は病院まで止まらずに走って来たのだ。学校から病院までは約十五分。ちょっとしたマラソンの距離である。
「うん、ちょっとどこかで休みたいかも」
亜美花が溜息をつきながら歩いていると、右手に広い空間が現れた。
敷き詰められた青々とした芝生を、季節の花と立派な木々が彩っている美しい庭だ。
そこに横たわる小道の先を見ると、温かみのある木製のベンチがあった。ベンチの後ろからは、淡い木陰も伸びている。
「いいところ見っけ!」
亜美花は軽い足取りでベンチに向かった。運よく他の利用者はいない。
「はぁ、疲れたー」
「わたしは何だか眠いですわ。少し休んだら帰りましょ」
亜美花はベンチに座って、思いきり体の力を抜いた。涼しい風が体を撫でて眠気を誘う。
静かな波に揺られるような心地いい感覚に身を預けていると、どこか遠くから呼ばれているような気がした。
「あ、起きた」
ふっと目を開ける。亜美花の向かいには、ひとりの少年が立っていた。
恐らく同じくらいの年齢だろう。さっぱりとした短い黒髪に、垂れぎみで知的な目をしており、白い半袖のワイシャツが映えていた。
「よかった。もしかしたら、体調が悪いのかと思って」
彼が悠然とした表情で言う。亜美花は何度か目を瞬かせてから、ようやく状況を理解した。
「しっ、心配かけてごめんなさい!」
「いや、俺のほうこそごめん。無理に起こしちゃって……」
亜美花が慌てて背筋を伸ばすと、彼は申し訳なさそうに謝り返してくる。
居眠りしているところを、男の子にばっちり見られてしまった。
亜美花は急に恥ずかしくなり、ごまかすように照れ笑いをした。
「いいの、ほんのちょっとだけ休むつもりだったから! でも、いつの間にか寝ちゃったみたい。ここ、すごく素敵な場所だったから……」
赤く染まった顔を伏せると、かばんの隙間から、気持ちよさそうに寝ているハッピーの姿が見えた。彼女も睡魔に逆らえなかったらしい。
落ち着きなく言葉を並べる亜美花を見て、少年はくすっと笑う。
「ここ、いい場所だよね。俺も気に入ってるんだ」
「そうなんだ」
そのやさしい表情に、亜美花は思わず見とれてしまった。
ふいにそよ風が吹き、彼が結んでいる青葉色のネクタイが揺れる。スラックスも緑がかっており、シンプルながらも印象的だった。
「もしかして、蒼陵の人?」
蒼陵学園は、近所でも有名な中高一貫の進学校だ。周囲に似た制服の学校はなく、格好を見れば一目で蒼陵の生徒だとわかる。
亜美花が聞くと、少年は静かにうなずいた。
「中学一年生。君は?」
「私も一年生! ひだまり中学なの!」
学年が同じという共通点に、急に親近感がわいてくる。
亜美花はパッと顔を輝かせた。少年も、どことなく和やかな表情を浮かべている。
「そういえば、今日はどうして病院に?」
「私、お母さんがここの病院で働いてて。忘れ物を届けに来たの。あなたは?」
「俺は小さいころ体が弱かったから、今でも定期検査をしてもらってるんだ。特に何ともないんだけどね」
そんなことを話していると、亜美花が通って来た小道の反対側から、入院着を着た六、七歳くらいの子どもが二人ほど走ってきた。
「あっ、お兄ちゃん見つけた!」
「もう探したんだぞ!」
恐らく知り合いなのだろう。やや気の弱そうな少女と勝気そうな少年は、芯平に対して親しげに呼びかけている。
ベンチの近くまで来ると、二人は亜美花を不思議そうにじっと見つめた。
「……お友だち?」
「あぁ、さっき知り合ったんだ。えっと……」
亜美花に対して、少年が困ったように視線を向ける。
何かを聞きたそうな顔を見て、亜美花はハッとなり口を開いた。
「私は亜美花! 堤亜美花っていうの」
「俺は椎名芯平。よろしく」
はにかんだ芯平を見て、亜美花も微笑みを浮かべてうなずく。
二人のやりとりを見ていた子どもたちは、待ちかねていたかのように喋りはじめた。
「亜美花おねえちゃんっていうんだー」
「ねえねえ、これわかる?」
少年が亜美花にプリントを見せてくる。内容は小学校二年生の算数だ。
「うん、わかるよ」
「じゃあ、ここ教えて!」
亜美花が快諾すると、少年は大喜びで彼女の隣に座った。もうひとりの少女も、芯平にドリルを見せ、教えてくれとせがんでいる。
芯平もベンチに座り、少女に勉強を教え始める。子どもたちはすぐに理解し、真剣な顔で問題を解きはじめた。
二人の様子を見るに、芯平はいつも彼らに勉強を教えてあげているのだろう。
「できたーっ!」
微笑ましく思いながら見守っているうちに、二人はさっさと問題を解き終えた。満足そうな表情でプリントやドリルを掲げている。
「やっぱり、芯平くんは教えるのが上手だね」
「ありがとう」
少女の言葉に、芯平はやさしく微笑んだ。そんな彼を、少年は不思議そうに見つめている。
「なあなあ。兄ちゃんって、見かけるたびにいつも勉強してるよな」
少年に何でと尋ねられ、芯平は頬をかく。
「叶えたい夢があるんだ」
彼はどこか切ない表情を浮かべている。
しかし、子どもたちはそれに気づくこともなく、元気に口を開いた。
「じゃあ、短冊に書いてみたら? 今日まで商店街に笹があるってママ言ってた!」
「いいね。行ってこようかな」
芯平は立ち上がって、亜美花を見つめた。
「よかったら一緒に行かない?」
その言葉に、亜美花は考えを巡らせる。
もう少し彼と話したい気もするし、商店街はちょうど家に向かう途中で通る場所だ。
亜美花はハッピーがまだ寝ていることを確認して、笑顔でうなずく。
二人は子どもたちに別れを告げると、病院を後にした。
商店街につながる歩道は、人通りが少なくてのどかだ。
「仲がいいんだね」
亜美花が言うと、並んで歩いている芯平は困ったように笑った。
「ときどき話してたら、いつの間にか懐かれて」
その言葉のわりに嫌がっていないのだろう。
芯平の子どもを見守る視線は、とても穏やかなものだった。彼がやさしい人なのだとよくわかる。
「そういえば蒼陵って受験があるんだよね。大変じゃなかった?」
「少しだけ。興味のない科目はなかなか頭に入らなくて、いつもガムを噛んで勉強してたよ」
芯平が、スクールバックの中からミントの板ガムを取り出す。
そういえば、ガムを噛みながら勉強すると暗記がしやすいと聞いたことがある。
「すごいなぁ」
同い年なのに、勉強に対する姿勢が全然違う。
亜美花が感嘆をこぼしたとき、ちょうど商店街に到着した。
聞いた通り、商店街の中央には大きな笹が飾られており、短冊を書くスペースも設けられていた。通り全体がにぎやかで、和菓子屋の店先には七夕にちなんで金平糖が並んでいる。
「わぁ、素敵~!」
亜美花が目を輝かせていると、突然商店街に突風が駆け抜けた。
道行く人々が腕で顔を守ったり、服を押さえたりして、混乱した様子を見せている。
風が止み、人々がそっと目を開けた、その時だった。
「あぁっ、金平糖がない!」
和菓子屋の店主が、青ざめた顔で叫んだ。
つい先ほどまで店先にあった金平糖が、きれいさっぱりなくなっている。
「あっ、あそこ!」
通行人が空を指さす。見ると、空には金平糖の入った小袋が大量に浮かんでいた。
奇怪なできごとに、大人たちは悲鳴を上げて散り散りに逃げていく。
しかし、亜美花は動じない。金平糖の端から、白い影が見え隠れしていたのだ。
「出てきなさい、お菓子泥棒! 人のお菓子を盗むなんて最低よ!」
亜美花が言うと、案の定おばけが姿を見せた。生意気にもあっかんべーと舌を出している。
「盗まれるようなところに置いておくほうが悪いんだよ!」
「ゆ、幽霊……!?」
芯平は驚いた様子で目を見開いている。彼の視線の先には、間違いなくおばけがいた。
「芯平くん、あれが見えるの」
彼は困惑したようにうなずき、そして一歩前に進み出る。
「よくわからないけど、お菓子が欲しいなら俺のをやる。だから金平糖を返せ」
彼は持っていたガムを差し出した。しかし、おばけは口を尖らせる。
「それじゃ意味ないんだよ! 俺は他人から奪って悲しませたいんだから!」
そう言い捨てると、おばけは金平糖を抱えて逃げだした。
「あっ、こら待ちなさい!」
亜美花は慌てて足を踏み出す。
「変身!」
ペンダントを握って力強く叫ぶ。後ろで芯平の驚く声が聞こえるが、今は人の目など気にしている暇はない。
「スイーツロッド!」
亜美花がすかさずアイテムを取り出したとき、おばけは通りすがりに竹の先端を掴んでしならせて、彼女が近づいて来たところで手を離した。
「きゃあっ!」
笹がぶつかり、亜美花はバランスを崩して後ろに倒れそうになる。その背中を、芯平が間一髪で抱きとめた。
芯平に礼を言いながら、亜美花は地面に目が止まる。かかっていた短冊が、ほとんど落ちてしまっていた。
「そんな、短冊が……っ! 何てことするの!」
「たかが紙切れじゃねぇか。ムキになんなよ。どうせ、大したことも書いてないんだろ」
亜美花が悲痛な面持ちで叫ぶが、おばけはどこ吹く風だ。それがさらに苛立ちを加速させ、彼女はおばけを強くにらみつけた。
「あなたには、短冊を書く人たちの気持ちがわからないの!?」
「―――そんなもんで夢が叶えば、苦労しねえんだよ」
「えっ!? あっ、待て!」
亜美花は動揺を振り払い、おばけの後を追う。すると、芯平も一緒にやってきた。
「芯平くん、危ないよ!」
「一緒に行かせて。行かないと気が済まないんだ」
「どうしてそんなに……」
彼の思いつめたような表情に、亜美花は困惑する。
「どんな小さな願いだって、その人にとって大切なものだ。それを踏みにじったあいつを、俺は許せない」
芯平は静かに怒りの声を上げた。
「いい心意気ですわ!」
「あっ、ハッピー!」
さすがにこの騒ぎで目が覚めたのだろう。
亜美花のかばんから飛び出してきたハッピーを見て、芯平は目を丸くした。
「ぬいぐるみが何で喋って……?」
「それは後! 今はおばけを捕まえることが先決ですわ!」
ハッピーは視線の先のおばけを指さす。距離は全然縮まっていない。
「あなた、何かお菓子は持ってる?」
「これでいいか?」
芯平はスクールバッグからミント味のチューイングガムを取り出した。
「充分ですわ!」
ハッピーはチューイングガムを手に取ると、両手で包んで力を込めた。次第にガムが光を放ち、形状を変えていく。ガムは緑色の宝石をつけたペンダントになった。
「受け取りなさい!」
「これは……!?」
「魔法のペンダントですわ。時間制限はあるけど、これで亜美花と同じように戦えますの」
「わかった。恩に着るよ! ―――変身!」
ハッピーの言葉を聞いて、芯平は迷わず叫んだ。風に触れた場所から、徐々に姿が変わっていく。
芯平はパステルグリーンのノースリーブワイシャツに、八分丈の白いワイドパンツ、茶色い革のブーツという出で立ちだ。緑のコックタイの結び目には、緑の宝石が輝いている。
「くそっ、どれだけ増えるんだよ!」
異変を感じたおばけが後ろを振り返り、怒りまじりに手を振り上げる。
すると、道端にある花のプランターが浮き上がり、芯平に向かって飛びかかって来た。
亜美花はロッドを銃の形に変形させた。
「マジカルショット!」
狙いを定めて光線を放つ。プランターは芯平に当たる前に弾け飛び、残骸が地面に散らばった。
「ありがとう!」
間髪入れずに立て看板や置物やらが飛んでくる。芯平も緑のビーズが付いたロッドを手に取り、光線で応戦していた。しかし、依然として距離は縮まらない。
「まずいよ、このままだと時間切れになっちゃう!」
亜美花は胸元の宝石の光が弱まり始めたのを見て、慌てて叫んだ。
「何か良いアイデアはありませんの!?」
「えーっと、あっ!」
ハッピーに聞かれて、芯平はおばけの進行方向の先に銃口を向けた。
店頭にたくさんの風船が飾り付けられている。
芯平が引き金を引くと、風船は大きな破裂音を立てて割れた。
「なにっ!?」
その音につられて、おばけはわずかに動きを止める。
「今だ!」
芯平が叫び、亜美花はおばけに飛びかかる。それと同時に変身が解けてしまった。
生身のまま必死で伸ばした手が、あと少しでおばけに届きそうになったその時。
「こっちに寄越せ!」
どこからともなくした声につられて、おばけが金平糖を投げた。
金平糖はきれいな放物線を描き、白く小さな手に収まる。
地面に転がり落ちた亜美花は、痛みをこらえて顔を上げた。
「えっ、どういうこと!?」
亜美花は困惑して、視線を左右に動かした。なんと、まったく同じ見た目のおばけが二匹いたのだ。
「ふふん、オレたちは双子なんだよ。ずっと交互に来てたんだ。気づかなかっただろ!」
驚きを隠せない亜美花に向かって、おばけが得意げに鼻を鳴らす。よく見れば、おばけたちの目の下には、鏡合わせの位置にほくろがあった。
「金平糖を返せ!」
芯平が飛びかかると、金平糖を持っていたおばけは、もう一方に金平糖を投げた。
おばけたちは必死に取り返そうとする彼を弄ぶように、下卑た笑いをこぼしながら金平糖を投げ合っている。
「いい眺めだなぁ」
「でも、もう飽きちゃった」
一匹のおばけが手をかざすと、強い風が巻き起こり、芯平を吹き飛ばした。彼の体は地面に打ちつけられる。
「芯平くん!」
「へっ、あばよ!」
二匹が金平糖を抱えて彼方へと消えていく。亜美花は無力感に襲われながら立ち上がった。
ハッピーと一緒に芯平のもとに駆け寄ると、彼の宝石の光は弱まり始めていた。
「彼の力は、もって五分というところですわね」
そう言いながら、ハッピーは彼に近づき、傷ついた体に白い手をかざした。
薄黄色の温かな光が、傷を癒していく。芯平の体が回復すると、ハッピーは亜美花も同じように治療した。
「とりあえず、戻りましょ」
ハッピーに言われて、二人は来た道を引き返すことにした。
「あの、迷惑かけてごめんね」
亜美花は、足元の影を見つめながらつぶやく。
自分がおばけを捕まえていれば、お菓子も取り返せていたかもしれないのに。
ハッピーに回復魔法を使ってもらい体は治ったが、心の痛みはなくならない。
「俺こそごめん。さっき、上手いことお菓子を取り返していれば……」
「芯平くん……」
申し訳なさそうに言う彼の姿に、亜美花は胸が痛んだ。
「二人とも、落ち込むことはありませんわ! 亜美花は格段に射撃の腕が上がっていますし、芯平も初めての戦いにしては上出来だと思いますの。この調子で、一緒にお菓子泥棒を捕まえていきましょ!」
ハッピーが白い手をぎゅっとにぎりこんで言う。
「そうだな。俺も協力するよ」
芯平が神妙な面持ちで答える。こうして、芯平が五人目の仲間に加わることとなった。
そうこうしているうちに、亜美花たちは商店街に到着した。
「あ、笹が戻ってるね」
芯平の言う通り、おばけが荒らした笹はしっかり立て直され、散らばった短冊も元通りに飾られていた。先ほどまで隠れていた町民たちも、再び笹の周りに集まっている。
「書いていこうか」
「うん」
亜美花は箱の中から、薄桃色の短冊を選んだ。
少しだけ悩んだ後、みんなが幸せでありますようにと書いた。
同じく書き終えた芯平と一緒に、短冊を笹に結びつける。彼は少し高いところに結んだので、何と書いてあるのか亜美花には見えない。
「何をお願いしたの?」
亜美花がおずおずと尋ねると、芯平は薄いくちびるの前に人差し指を立てた。
「……内緒」
彼は少しいたずらっぽく微笑む。
風にはためいた黄緑色の短冊には、あの子と会えますようにと書かれていた。
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