夕虹の後に

西野ゆう

第1話

 喫茶STRAITストレイトは私の第二の職場だ。とは言っても、そこで客を相手にコーヒーを淹れているわけではない。文筆家である私の執筆場所として利用しているだけだ。

「ストレイト」の名が示す通り海峡に面しているそのカフェは、若い男女の客も多い。老いてきた私にとって、若者たちの漏れ聞こえる会話に助けられることもしばしばだ。

 だが今日聞こえてきた会話は、あまりに不可解だった。

 海峡の小高い岬に建つストレイトは、北側のカウンター以外は全てガラス張りだ。その全てから海が見える。日中はあいにくの雨空だったが、夕方になり雨は弱まり、沈みゆく夕日が雲の切れ間と海との境界に姿を現しそうだ。

 ただ暗い色に染まっていた海が、紅色の無数の花弁を散りばめたように輝き始めたとき、私の耳にその会話が届き始めた。

「ラッキートレイン」

 耳慣れない言葉だ。

 しかも、その言葉の前半部分は男の声で聞こえ、一部ふたりの声が重なった後、後半部分は女の声で聞こえた。

 私は耳だけではなく、目もパソコンのモニターから外し、ふたりに向けた。

 私からは向かい合うふたりの横顔が見えた。男は日本人のようだが、女はスカンジナビアンだろうかと思えた。背後の輝く海がそう見せたのか、女の肌も髪も輝いて見えた。少なくとも日本人ではない。年齢はどちらも三十前後か。

 そんな女を眩しそうに見る男が言う。

夕虹ゆうにじかな。じゃあ、その後は」

 女は男の目に世界を見るように目を細めた。

「The Starry Heavens Above Me...」

 男はテーブルの上にある女の手に、自分の手を重ねた。

「そうだね。法則に従おう。ふたりの合言葉に従おう」

 手を重ね、見つめ合うだけのふたりが、私の目には抱き合っているように見えた。

 女が英語で口にした「私の上の満天の星」という言葉には聞き覚えがある。男がその後に続けた「法則」というのはカントの言う「道徳法則」のことだ。

 なぜ今互いの手を取り店を出ようとしている若い男女が、哲学者カントの「私の上の満天の星と、私の中の道徳法則のふたつは、考える度に新しい感嘆と崇拝で心を満たす」という言葉を口にしたのか。

 私の目は、立ち去ったふたりが居た方向に燃える夕日に細められている。テーブルに残されたグラスも、夕日を捕まえてそこにある。

 そのグラスを夕日ごと店員がトレイにのせた。すると、そのグラスは夕日を手放し、代わりに虹を捕まえた。

 私は背中側になる東向きの窓を見た。夕虹の一部がその窓に切り取られて緩いカーブで描かれている。

 額縁の中の絵のようではあったが、夕虹はあっという間に薄くなって消えた。

 どうやら海に近づきすぎた夕日が、溶けてしまったようだ。

「ラッキートレイン」

 私は小さく口にした。不自然な言葉だ。リズムもふたりから聞いた言葉とは違う気がする。

 そもそも、あの男女はそうは言っていなかったのではないか。

落暉らっきとRain」

 落暉、つまり夕日を見ながら口にしてみる。

 落暉と雨が作るのは夕虹だ。

 そう考えれば辻褄は合うが、あの若い二人が今どき落暉などという古めかしい言葉を使うだろうか。

 いまさら思い返しても、ふたりの言葉を正しくリプレイするのは不可能だ。私の印象がブレンドされてしまう。

 完全に落ち切った夕日を見送り、私は「落暉とRain」が辻褄が合うなどと一瞬でも感じた自分に苦笑した。まだ「ラッキートレイン」の方が耳に馴染む。

 そんなことを考えていると、今度はカウンターの方から店員の慌てる声が聞こえた。

「これ、わざと落として帰ったとしても、マズいよね」

 男女のテーブルのグラスを下げた店員の手には、少し離れた私の目にもダイヤモンドだと分かる程度に大きな石を抱いたリングがつままれていた。

 夕日と虹を捕まえていたグラスから取り出されたダイヤモンドは、満天の星と女の憂いを捕まえているようだった。その証のように、雫が涙のように店員の指を濡らしている。

 ストレイトは小高い岬に建っている。海には紅色の花弁が未だ舞っている。

 私はふたりが幸運の列車に乗っていることを祈り、この日の仕事を終えた。

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夕虹の後に 西野ゆう @ukizm

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