19. 頼みごとをきいてちょうだい

 おいしい……!

 ドロドロに溶けた女の腹からしたたる液体をすすりながらシーレンは狂喜した。

 この女にも大切な人がいるだろう。この女を大切に思う者もいるだろう。そんなことはわかっている。だが食欲は止まらない。

 食べること。これはいつの日であってもシーレンにだけ許されたことだ。

 ああ、なんて美味しいのだろう(ヤメテ)。


(ヤメテ、ヤメテ、ヤメテ)


 頭の中で鳴り響く声。それはブラウニーだった。いつもは食事の間中しか出ていられないシーレンが閉じ込めてしまった娘。

 シーレンは、自分の閉じ込められていた場所にブラウニーをつき落としたのだ。二度と彼女が出て来れないように。

 そうなってみて初めて、ブラウニーはシーレンに気がつき、自分の真実を知ったのだろう。

 自分の中の一番暗く寒い場所から外を見つめ——己の正体に。

 今の今まで知らぬようにと目をつむってきていたことに。


(ヤメテ————)

(どうして?)


 こんなにも美味しいのに。

 食べなくては生きて行けないのに。

 今の今まで生きて来れたのは自分のおかげなのだ。辛い思いをしてズタズタになりながら外へ出て、生きのびたのに。


(ヤメテ‼︎)

(なぜ?)


 食べなければ死んでしまうのだ。


(あなただけ死ねばいいのよ。すぐに殺してやるわ、待っていなさい)


 そうすれば何も見なくて済むだろう。消滅するのだから。

 その時、頭の中に小さな歌声が流れ出した。

 歌っている……? ブラウニーが?


(こまどり腹ペコ 母さん食べた

 こまどり腹ペコ 父さん————)


 * * *


 路地裏をもう長いこと歩き回っている。なるべく入り組んだ方へ、暗い方へと歩を進めてきた。

 後ろからは、微かな人の気配。

 尾行されていると気がついてからもうだいぶ経つ。それなのに後ろの気配は消えない。

 路地の深部だろうと思われる場所までシャーリーは入り込み、仕方なく立ち止まった。

 周りには人っ子一人いない。

 背後には、ふわふわと漂うような人の気配。


「もうそろそろいいんじゃない?」


 ふり返らずに背後にかけた声に答える者はなにもなかった。否、答えた。くすっと可愛らしい笑い声が上がったのである。

 ふり返ってみると、そこには空色の髪と青い瞳の美少女が姿をあらわしていた。歳は十歳程度だろうか、真っ白なドレスを身につけている。

 まるで光り輝くような愛らしさ。こんな場所にいるのが嘘のようだ。

 にっこりと笑った彼女のその瞳には、強い意志が宿っている。


「うふふふ。やっぱり気づいてた?」


 見覚えのある少女だ。

 シャーリーが食堂でブラウニーを銃撃した時に一緒にいた少女だ。

 こんなに目立つ美少女を見間違えたりしない。


「ええ。だいぶ前からね」

「ま、そーでしょうねー。あ、わたしはパフィーラよ」

「わたしはシャーリー」


 名乗った少女に、シャーリーもとりあえず名乗る。


「ちょっと訊きたいことがあるんだけど〜」


 甘ったるい声を出しながら、パフィーラはまたくすくすと笑う。

 その青い瞳がシャーリーを捕らえた。その瞬間に、足がすくんだような震えが立ち上る。


(え、なに……?)


 幼い少女だ。怖がる必要などないのに。


(——怖い、ですって?)


 シャーリーが感じていたのは、紛れもなく恐怖。それを自覚したとたん、胸の鼓動が急激に上がった。

 ほほ笑んだパフィーラの表情が幼女のそれから、妖艶な大人のそれへと変化する。その瞳の輝きと薄く引き伸ばされた唇が妙に艶めかしい。

 それは、シャーリーなどよりもずっと年上の者の表情だった。

 全身が熱く、頭がぼうっとしてくる。

 この少女には敵わない。そう本能が警鐘を鳴らす。


「あなたたち、アレを造ってなにをしようとしてたの?」

「————⁉︎」


 息が詰まる。

 決して表には出ない科学者組織である〈黒蝶〉を、そこで行われていることを知っているのだろうか。まさか。

 アレというのは、正式名称ホムンクルスA型・シーレンの事だろう。


「あら、なに驚いているの? アレ、あんたたちが造ったんでしょ?」

「知っているの……?」

「さあ? 知らないから訊いているんだと思ってほしいわ」


 それはきっと嘘だろう。その言葉に反して、彼女の表情は全てお見通しなのだと語っている。


「そう。でも生憎、わたしは目的なんて知らないわ。上からの命令でやっているだけですもの」


 そう、これは真実。シャーリーは〈黒蝶〉がなにをしようとしているのかなど全く知らない。ただ、命令された通りに研究をしているだけ。

 命令は絶対。拒否などできない。そんなことをしようものなら裏切り者の烙印を押されすぐに殺される。

 だから命令には逆らえない。それが当然だった。シャーリーが生まれた時から、今まで。


「へえ。ブラウニーの始末も?」

「ええ。証拠が上がっていないだけで、上はブラウニーをわたしが逃がしたのだと疑っているわ。だからこんな命令がわたしに下ったのよ」


 シャーリーはそれに従った。従うしかなかった。断れば裏切り者にされてしまう。いや、自分が処分されてしまうことなどどうでもいい。でも、それでマリーに害がおよぶようなことがあってはならない。

 それになにより、ブラウニーの始末は自分でつけたかった。他人の手になどかけたくなかった。

 だから、甘んじて命令に従ったのだ。


「あなたが逃がしたの?」

「好きなように思ってちょうだい。とにかく、あんな化け物を野放しになんかできないでしょう」


 化け物。自分で言っておきながら胸が鋭く痛んだ。だが、あの娘のためにもう何十人もの人々が犠牲になっていることは事実だ。

 奇怪で無惨な犠牲を出すことによって、彼女は〈黒蝶〉に見つかった。


「そう。愛してるのにね、彼女のこと」

「そうね、愛しているわ。あの子はわたしの娘なのよ。だから殺処分が決定した時は辛かった」


 ブラウニーを愛さねば良かったとさえ思った。

 培養槽の中で生まれたブラウニーは、シャーリーが造り出したわけではない。

 シャーリーがブラウニーに出会ったのは、彼女が5歳、シャーリーが二十歳の時だ。

 ブラウニーを造り研究していた男が別の研究へと移るため、シャーリーがブラウニーの研究を引き継いだのだ。

 ブラウニーという名をつけたのはシャーリーだった。それまではずっと正式名称の方で呼ばれていた。

 ブラウニーがシャーリーをなぜお母さんと呼ぶようになったのかは忘れてしまった。けれど、そう呼ばれて悪い気はしなかったことを覚えている。

 以来十二年間、二人は母子として過ごして来たのだ。


「訊きたいのはそれだけ?」

「そうね。あなたのことはわかったわ。あなたのいる組織の科学力がすごいってこともね。外の世界なんて、そっちから見れば子どもみたいなもんでしょうね」

「ええ、そうね」


 その通り〈黒蝶〉の科学力は世の中の科学力よりずっと先を歩いている。〈黒蝶〉がその気になれば世界は間違いなく沈むだろう。

 そのくせ〈黒蝶〉はいつの世も表の世界へと出ようとはしないのである。

 組織員にさえも〈黒蝶〉のことなどわからない。ただ組織の中で生まれ、そう教育され、それが当然の事なのだと思いながら研究に人生を捧げているだけだ。上の考えなど理解もできない。


「まぁ、でも今のところその組織に興味はないからいいわ。それより、頼みごとをきいてちょうだい」


 うむを言わさぬ笑顔で、パフィーラはそう言い放ちシャーリーを見つめてくる。

 美しく、気立く、強い瞳。そこにはなに者をも圧倒する輝きがある。


「大丈夫よ、心配しなくっても」


 パフィーラはにっこりして、自分のウェーブした髪をくるくると指でもて遊んだ。


「たいしたことじゃないわ」

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