18. 今行ってはいけません‼︎

「さよなら」

「ちょっと待って、待てってば!」


 ドアを開いてさっと外へ姿を消した彼女をとっさに追う。しかし、それを自分よりも大きく白い影が遮った。ケツァールだ。


「ダメです、ジャム‼︎ 行ってはいけませんッ‼︎」


 彼は、両手のみならず翼も広げて出入り口ドアの前に仁王立ちになっていた。ケツァールは低身長のジャムよりも二十センチは大きい。もはや壁だ。

 その瞳には、どうあってもジャムを行かせないという強い意志が見える。


「なんでだよ、彼女っ、あぁもうっわけわかんなくなってきたッとにかく彼女つれ戻して話きかないと」


 本当にわけがわからなかった。ケツァールを押しのけ、ただ無我夢中で外に出ようとする。

 しかし、ケツァールはがんとして動かない。非力を絵に描いたような白い腕は、それでもジャムより太く力がある。致命的なその体格差でジャムの行く手を阻み、押し戻す。


「ケツァール!」

「今行ってはいけません、あなたまで殺されてしまいます‼︎」

「ころ……え?」


 殺サレル? 誰に?


「なんで、なんでそうなるんだよっ」

「彼女なんですよジャム‼︎ 先日の惨殺事件の犯人は‼︎」


 一瞬にしてジャムの頭の中が真っ白になる。言われていることの意味がよく理解できない。

 あのブラウニーが? みんな仲間なんだと言った時、あんなにも嬉しそうな顔をしてくれたブラウニーがまさか。

 そんなこと————。

 その時、はりつめていた空気をつんざく悲鳴がジャムの鼓膜を打った。その鋭い声に一瞬で身体が凍りつく。

 悲鳴がしたのは外だ。それなのにはっきりとここまで届いた。なにかが起きたのだ。重大ななにかが。

 それがなにかを考えまいとすればするほど、そのことを考えてしまう。

 また続けざまに悲鳴が響いた。凍りついた体の呪縛が、雷に打たれたかのように解ける。


「ブラウニー‼︎」


 急いできびすを返して窓へと駆け寄る。


「——ッ⁉︎」


 眼下の通りは大変なことになっていた。人々が無数に倒れ、もがき苦しんでいる。

 そして、その中央にブラウニーの姿。彼女は、どう見ても事切れている女性の体に覆い被さっていた。そのブラウニーごしに見える女性の腹部はどす黒く染まっている。

 血と言うには少し違う。衣服を剥がれたその腹部は、視力があまり良くないジャムの目から見てもまるで溶けているかのように見える。そこにブラウニーの手が伸び、簡単に抉った。そのままその肉塊を口に運ぶ。


「な、んだ……あれ……」


 胸の内側が急激に焼かれたように熱くなる。鼓動が早まる。息が吸えない。

 あれは? あれはなんだという?


「いけない、窓を閉じて下さい‼︎ 毒にやられます‼︎」


 ケツァールの言葉が耳を素通りする。なにを言っているのか、聞こえているのにわからない。わかりたくない。

 眼下の光景から、ブラウニーから目が離せない。

 背後からケツァールの腕が伸び、窓を閉めた。それでも視線は釘付けになったままだ。

 次々に肉を、さっきまで生きていただろう人の肉を口に運ぶブラウニー。その残酷な光景にめまいがしてくる。

 その姿はまさに化け物だった。人を溶かし血肉をすする悪そのもの。


「ジャム‼︎ ジャム、しっかりして下さい‼︎」


 突然ジャムの肩が乱暴につかまれた。あっと思う間もなく、窓から身体を引き剥がされる。

 そこには、友を思う顔。

 その顔を見たとたん、激しい吐き気が込み上げ床にへたり込んでしまう。吐きこそしなかったが、胸がむかついて気絶しそうだ。

 頭の中がぐるぐると回っている。


「ブラウニー、俺たちのこと、騙して……」


 搾り出すように吐き出し、胸を押さえる。言葉が震え、上手く出てこない。苦しい。

 目頭が熱い。


「いえ、ブラウニーは騙してなどいませんでしたよ。彼女は本当に狙われていましたし、惨殺したのもブラウニーではなかった」


 ケツァールがジャムの前に膝をつき、肩に手を添えてくる。真っ直ぐにジャムを見つめる緑の瞳。


「惨殺ををしたのはさっきの彼女、シーレンでしょう。よく聞いて下さいジャム、ブラウニーは二重人格だったのですよ」

「——⁉︎」


 二重人格⁉︎


「シーレンが言っていたでしょう、ブラウニーというのは食べるのを知らなかった子の名だと」


 たしかに、さっきはそんなことを言っていた。あの時はもう、ブラウニーではなくシーレンだったのだ。


「その通り、ブラウニーは食べることを知らなかった。自分が普通の食物を食べられないことすら知らなかった。それは、今まで食事というものをしたことがなかったせいだと考えられます」


 食事をしたことが……では、どうやって今まで生きてきていた?

 たどりついた答えにジャムは戦慄し、ケツァールを見上げる。否定して欲しいのに、その彼の瞳はジャムの出した答えを肯定していた。


「それはなぜか。答えは、食事は全てシーレンの人格の時に行っていたからでしょう」

「そんな」

「彼女の名前はホムンクルスA型・シーレン。このことからも、彼女は人工的に造られた人であると思われます。彼女も、そう言っていましたし。『わたしを造った組織」と」


 ホムンクルス——人工生命体。たしかそういう意味だったような気がする。いつだったか、ケツァールが勝手に延々とジャムにその可能性を語ったことがあった気がする。

 あの時は、よくそういうことを考えつくなと話半分で聞いていたのに。


「そしてシーレン。これは人を喰う伝説上の化け物の名前です」


 それが、ブラウニーだと?


「それじゃあ、やっぱり……」

「ええ。彼女は人喰いです、ジャム。人以外のものは食べられない。そして彼女は人体を害し溶かすなにか、毒のようなものを持っているでしょう」


 溶けたような傷が残されていた惨殺死体。外傷もないのに死んでしまった人たち。それが毒が原因だというのなら……。

 少し背伸びをして、ちらりと窓の外を見る。すでに、そこにはブラウニーの……いや、シーレンの姿はなかった。 ただ、食い散らされ、ドロドロに溶け骨までむき出しになった死体が三つ。

 そして毒でやられたのであろう無数の死体がいたる所に転がっているだけだ。


「ブラウニー」


 無意識のうちに立ち上がろうとしたジャムは、ケツァールに押さえられる。


「ブラウニーが……‼︎」


 行かなければ。


「シーレンはブラウニーを殺すって‼︎」


 同じ体に二つの意思。

 シーレンがブラウニーを殺す。ブラウニーの意思を殺す。そんなことになればあのブラウニーは消えてしまう。

 そんなことが本当にできるのかはわからない。しかし、止めなければ。

 それに、シーレンを放っておいてはまだまだ犠牲者が出るかもしれない。

 今ならわかる。ブラウニーを狙っていたあの女はシーレンを止めようとしていたのだ。これ以上犠牲を出さないために。


「まだですジャム。まだ外には毒が残っている可能性が高い。何人も殺すほどの威力なんですよ。まだ外へ出ては駄目です‼︎」

「そんなこと言ってる間にも誰かが……ッ」

「そうかもしれません。ですが‼︎ 私はあなたと違って、見ず知らずの他人とあなたの命を天秤にかけられる人間です。そしてあなたの命を取ります。それをあなたはなんとでも言えばいいですが、譲りません」

「ケツァール……」


 こんなに必死なケツァールは初めてだ。だからこそ、事の大きさがよくわかる。

 怖い……。


「ジャム」


 急に涙がぼろぼろとあふれ出す。

 怖い、本当に怖い。

 どうすればいいのか全くわからないのだ。ジャムにあの少女の体に宿る二つの意志をどうこうすることが出来るとは思えない。

 かと言って、彼女を殺すことだってできない。できるものか。

 ブラウニーに罪はない。それどころかシーレンにだって罪はないかもしれない。ただそう生まれただけなのだ。人工的に造られたのであれば、シーレンはそう造られてしまっただけ。そうしなければ生きていけないように人の手によって造られてしまっただけなのだ。

 言ってみれば被害者。ケツァールの言ったように彼女を責めるなどお門違いもいいところである。


「落ち着いて下さい、ジャム」


 ケツァールの優しい声が耳を打つ。


(俺は、どうすれば……)


 * * *


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