第四章 真実と幻

17. それは、わたしの名前じゃないわ

 その朝は、いつもとは様子が少し違っていた。

 まず、ジャムにおはようのキスをしてくれるパフィーラがいない。結局、彼女は帰って来なかった。

 そして、ケツァール。まだジャムが目覚めないうちからやって来て、それ以降なんだかそわそわと落ち着かない様子なのだ。沈着、冷静を絵に書いたような彼にしては珍しい。

 そして、ブラウニー。これまで食欲がないと言っていたのに、今日はやたらとお腹が空いたと言うのである。そのくせ、ジャムがなにか作ろうかと申し出ると、それでまたわたしに吐かせるのねと妙に皮肉っぽい返事を返す。

 二度も吐いたのだからそう思うのも仕方のないことかもしれないとは思うが、どうにも納得いかない。

 空はいつものように青く澄み切っている。しかし、ここだけはなにかが違っていた。異様に空気が張り詰めている気がするのは、ジャムの勘違いではないはずだ。


「ああ……お腹空いたわね……」

「なあ、本当に食べないのか?」

「ええ、結構よ」


 ブラウニーはなんの迷いもなく即答した。そしてまたお腹が空いたとつぶやく。

 ——わからない。

 それにケツァールも、さっきから立ったり座ったりとせわしない。突然立ち上がって部屋をぐるぐると回ったかと思えばまた座り、なにかを考え込んだりしている。

 明らかに、いつもの彼ではない。


「ケツァール」

「はい、なんですか?」


 座って頬杖をついていたケツァールが、本当になんですかという瞳をしてジャムをとらえる。


「お前なんか落ち着きないよな、今日」

「そうですか?」

「だってさっきから立ったり座ったり歩き回ったり考え込んだり。今日、なにかあるのか?」


 その問いに、たいした意味はなかった。しかしケツァールは少しの間考え込み、そうですねと頷いた。そのことに、訊いた側なのに驚いてしまう。

 なんだか嫌な予感がする……。


「え? 本当になにかあんのか?」

「ええ、おそらくは」


 ケツァールはそう言ったかと思うとまた立ち上がり、窓辺の壁によりかかり外を眺め出してしまう。細く開かれている窓ガラスの隙間から風が部屋の中に入り込み、ケツァールの長い髪を少しだけ舞い上げた。

 今日、なにがあるというのだろう。心当たりは全くないのだが。


「ケツァール」

「はい?」


 窓の外から視線を外してふり向いたケツァールの眉間には、かすかではあるが皺が刻まれている。

 やはり、おかしい。


「なにがあるんだ? 良くないことか?」


 彼の表情がそれを物語っている。この友人が顔をしかめるなどめったにない。もう、それだけでただ事ではないのだと知れる。


「それは————」


 ごまかそうとしたのか、答えようとしたのか。 ケツァールが歯切れ悪く口を開いたその時。


「お腹空いたわ」


 ブラウニーだ。椅子から立ち上がり、軽く伸びをした。ジャムの方へ向き直り、まるで世間話でもするかのような普通の調子で口を開く。


「でも、わたしは知ってるのよ、ジャム。あなたたちの食べているものは絶対、わたしは食べられないって」

「え……? それどういうこと?」


 絶対に食べられない? それを知っている?

 では、ブラウニーは一体なにを食べているというのだろう。それに、知っているのならなぜ、昨日は食べようとしたのだろう。

 話のつじつまが合わない。


「本当は、こんなことにはならないはずだったのよ」


 ブラウニーはジャムの質問を無視してそう言うと笑った。まるで自分をあざけっているかのような自虐的な笑み。

 その表情が、ジャムの背筋に震えを走らせる。


「お母さんは、わたしを外に出れないように暗いところへ閉じこめてしまったの。そのまま、わたしはその場所で死んでしまうはずだった」

「え……? それどういう……」


 話の内容が全く見えてこない。

 母親に閉じ込められて死ぬはずだったなど、穏やかではない。そもそも、母親が自分の子を害するということが、愛されて育ったジャムには理解できないことだった。


「だけど、死んじゃうのは嫌よね?」

「そうですね」


 ケツァールがじっとブラウニーを見つめたまま微かに頷く。


「だから、あなたは出てきたんですか? その、閉じこめられていた場所から」


 そのケツァールの問いに驚く。彼にはブラウニーの話がわかっている?


「そうよ。どうしても嫌だった。だから出てきたの。辛かったわ。わたしを出さないようにって何重にも壁が張り巡らされていて」

「そうでしたか。お察しします」

「ありがとう」


 やはり。やはりケツァールはこの会話の内容を理解しているのだ。


「でもそうやって命が助かったのを知ったお母さんはわたしを殺そうとしている。わたしに銃を向けたわ、何度も」

「それって!」


 何者かに命を狙われているブラウニー。彼女を殺そうと銃を向けた人物。

 脳裏に浮かんだのは、食堂でブラウニーを襲った黒づくめの女の姿。


(でも、ちょっと待てよ)


 あの女はどう見ても若かった。二十代後半か、上に見積もっても三十代前半といったところだ。あの女がブラウニーの母だというのには年齢的に無理がないだろうか。

 では、ブラウニーの命を狙う人物がもう一人いる?


(それとも……)


 年齢的に釣り合わなくても、自分のように養母なのだったらつじつまは合う。ジャムの養母たちも、不可能ではないが世間からすると十七歳の子どもがいるには若すぎる年齢だ。


「けれど仕方ないのよ。わたしだって食べなければ死んでしまうの」

「そうです。それはわたしたちも同じことですからね。そのことを責めるつもりはありませんよ。責めを受けるのはあなたではないはずです」


 責め?


「どういうことなんだよっ、二人とも‼︎」


 我慢できなくなり、ジャムは二人の間に割って入る。焦りにも似た予感が、ジャムの鼓動を早めさせた。自分をのけ者にして二人はなにを話しているのか。

 しかしジャムに返って来た返事は、お腹が空いたのという的はずれなブラウニーの声だった。


「それで、わたしたちを?」

「まさか。そんなこと、いくらわたしでもやらないわ」


 ブラウニーが皮肉めいた微笑を浮かべる。ジャムの質問に答える気はないようだ。そのことにも苛立ちが募る。

 仲間だって言ったのに‼︎


「だって、ジャムもケツァールも、わたしたちを守ってくれていたでしょう? きっとあなたたちがいなかったら、今頃わたし殺されていた」

「そうかもしれませんね」

「わたしもね、人間の感情を持っているのよ。これでも」


 そう言ってうつむいたブラウニーの表情は髪に隠れ見えなくなる。だだわずかに覗く唇だけが、強く噛み締められているようだ。


「ジャムは守ってくれたわ。ケツァールはわたしの存在を察していたのにずっと黙っていてくれた。二人とも好きなの。だから、もう一緒にはいられない。わたし、お腹空いてしまったから」

「ブラウニー⁉︎ どういうことだよそれ‼︎」


 一緒にいられない⁉︎


「ジャム。わたしをブラウニーって呼ばないで」

「え……?」

「それは、わたしの名前じゃないわ。それは、食べることを知らなかった子の名前よ」

「え、だって、どういう……」


 ブラウニーじゃない⁉︎ そんな馬鹿な。

 今まで、彼女はブラウニーという偽名を使っていたとでもいうのだろうか。


「それに、わたしはブラウニーを殺すわ」

「殺す⁉︎」

「そうよ。ブラウニーのせいで、わたしは最後までお母さんにも、マリーにも……触れられなかった……」


 ますます意味がわからない。お母さん? マリー? 誰だ?

 彼女がブラウニーじゃないというのならば、ブラウニーとは一体誰のことだというのだろう。


「お母さんに触れてみたい。そう思うのは悪いことなの?」

「いいんですか? ブラウニーはあなたの半身のはずでしょう」

「望んだわけじゃない‼︎ わたしが生きるためにも、あの子は邪魔なの‼︎」


 そう叫んで顔を上げた彼女の瞳に隠しようもない殺意が見え、知らず一歩後ずさってしまう。

 本気だ。本気で人を殺そうとする瞳————。


「だから、あなたたちとはお別れよ。もう二度と出会わないことを祈るわ」


 そう言って彼女は颯爽とジャムとケツァールに背を向けると、部屋の出入り口の方へと歩いて行く。


「ちょっと待って下さいッ」


 その彼女の腕を取り引き止めたのはケツァールだった。ひどい怪我を負った時のような、痛々しくて必死な顔をしている。

 あんなケツァールの表情は初めてだ。


「待って下さい、もう少し我慢できませんか⁉︎ なんとかならないか試してみますから‼︎」

「無理よ」


 そう言ってふり返った彼女は、先ほどまでとは打って変わって冷たい氷のような表情を浮かべている。


「お母さんに出来なかったことがあなたにできるはずないでしょう? お母さんは科学者よ。わたしを造った組織にいたの。あなたには、造ることすらできない」


 ケツァールの顔に朱が走る。図星だったのだろう。


「ですが、こちらにも科学者がいます。もしかしたら同じ組織かもしれない。そうだとしたら……」

「だとしたら? それでも当面はわたしの食事が必要よね? 設備は今すぐに用意できるの? 培養方法はわかっているの? そもそも、この国では倫理的にそれが許されているのかしら。わたしを造った組織〈黒蝶〉ですら問題視されていたのに」

「それは……」

「なら、それは間に合わないと言うわ」


 ブラウニーの瞳が細まる。その奥の色は、ぞっとするくらいに冷ややかだ。

 なんのことかはわからない。それでも、この会話がただならぬことはわかる。ブラウニーは造られた人? そんなことが可能だなんて信じられない。

 それに培養? 倫理的に許されないものを?


「けれどあなたにならわかるはずです。外の人達にも、愛する人がいるということが」

「わかっているわよ。なによ、わたしのことは責めないって言ったくせに」


 彼女はぎゅうっと顔を歪め、泣き出す一歩手前のような表情になる。


「責めているんじゃありません、そうじゃ……」

「うるさいッほっといて‼︎」


 勢いよく彼女はケツァールの腕をふり払った。そして、出口へと歩を進める。


「……ジャム。わたしの名前は、ホムンクルスA型・シーレンよ。ブラウニーじゃないわ」

「シーレン……」


 各地でサイレン、セイレーン、シーレーンなどと呼び方の差こそあれ同じものを指す。

 それは、人をその美しい歌声で呼び、罠にかかった人を食べてしまう化け物の名だ。

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