16. たとえ命がなくなろうとも
「え、今、なんて……」
「殺処分決定がされたわ」
「どういうことなんですかッ」
蒼白になった顔を引きつらせてマリーが肩を震わせる。
ブラウニーを先に帰らせてから、シャーリーはマリーを呼び出した。組織の決定を伝えるために。
「先生はッそれを黙って受けて帰って来たんですかッ⁉︎」
シャーリーが呼び出されたのは今朝だ。それからは、気を抜けば目頭が熱くなるのを我慢するのに精一杯だった。
そして、ある事を考えるのに。
「様子がおかしいとは思っていましたけど……そんな……」
マリーの喉から嗚咽がもれる。
ブラウニーは、マリーにとって初めて任された大きな研究だった。それでなくとも、妹のように可愛がっていたのだ。
(それは、わたしのせいかしらね……)
娘だなんだとブラウニーを可愛がったのはシャーリーだ。それを見て、マリーだってそんな気持ちになったのだろう。
だが、研究対象とはいえ、ブラウニーを見て愛さないことなど出来るのだろうか。あの、明るくて人懐っこくて、愛らしい娘を。
「ブラウニーを活かす道はない。これが上の判断よ」
もちろん、そんなことはないと反論はした。だが、食事の内容、そして方法——それらを活かすことが出来る道が厳しいだろうことはわかっている。
だからこそ、研究をしているというのに。
「そんな、だからって——ブラウニーは人間ですよ⁉︎ 理性も感情も知性もある!」
「そうよ。でも組織にとっては実験動物と同じなのは、あなたも理解出来るわね」
「だからってッ‼︎」
マリーがわっと泣き伏す。いやいやをするように身体を震わせた。
「ひどい……」
「そうよね。酷いわ。私たちの家族を殺処分ですって?」
「せ、せんせい……?」
シャーリーの声色が暗く変わったことに気づいたのか、マリーの泣き声が遠慮がちになる。
「冗談じゃないわ。そんなことさせてたまるもんですか」
ここにいる限り、餌を培養して与えることが出来るから問題ない。が、外へ出たらそうは行かなくなる。
しかも、餌はあちこちにゴロゴロといる。それなのに隔離は出来ない。ブラウニーを震源地とした惨事が起きることは確実だ。
だから事は慎重に、そしてスピーディーに運ばなくてはならない。もう殺処分は決定事項なのだから。
「マリー。ちょっと聞いて欲しいことがあるのだけど」
これが正しいこととは思えない。ブラウニーを救うことにもならない。
ブラウニーはいずれ死ぬしかない。それでも。
「そんな……‼︎」
さっと顔色を変えたマリーが、肩を落とす。
「他に案がある?」
「いいえ……」
マリーにもわかっているのだ。殺処分から逃がしたところで、ブラウニーを外で生きて行かせるわけにはいかないことを。
そして、殺処分を覆せるほどのなにかを自分たちが持たないことを。
「わたしとマリーで逆らっても、私たちも殺処分で終わりよ。わたしたちじゃ到底敵わない。一緒に死んだところで、ブラウニーの命が終わるのは同じ」
「はい……」
「なら、まだ少しだけ可能性がある方法で、ほんの一時ブラウニーに自由をあげたいの」
それは時限付きの自由。
「ブラウニーを逃がしましょう。わたしたちが疑われるのは避けられないけれど、決定的な証拠がなければなんとかなるわ」
「上手くいくでしょうか」
「するのよ。セキュリティシステムも掌握してるわ。出来るはずよ」
ブラウニーの存在は、ここでだけ許されるものだ。それはつまり、ここでも許されなくなる可能性をも孕む。
そんなことにならなければいい。そう願いながら、来ないで欲しい未来の備えとしてセキュリティシステムを解析してきた。
「バレたら先生もわたしも命、ないですよ」
「ええ、そうでしょうね」
間違いなくそうだろう。この組織はそういう所なのだ。決して表の世界に出ることなく、その科学力で世界を裏から動かす組織〈黒蝶〉は。
裏切りは決して許されない。裏切りの代償は己が命。
「でもそうね、わたしだけならともかく、あなたまで危険な目には合わせられないわね……」
マリーはまだ18歳なのだ。科学者としてもかなり優秀だ。彼女にはまだ将来がある。やりたいことも夢も希望も山積みだろう。
「先生は、一人でも実行するつもりですか?」
「するわ。たとえ命がなくなろうともね。だってブラウニーは、わたしの娘だもの」
そうだ。誰になんと言われてもいい。ブラウニーは大切な娘だ。
血が繋がっていないとか、そもそも彼女は実験体だとか、そういうことは関係ない。そんなことよりも、ともに過ごしてきた時間が真実だ。
「そうですか」
つぶやくようなマリーの声。そして、彼女の顔が上がる。その瞳に強い輝きを乗せて。
「先生、ブラウニーはわたしの妹です。大事な、大切な、そして大好きな妹なんです。その妹が処分されるなんてそんなの耐えられません」
「マリー!」
マリーは、しっかりと頷いた。決意を浮かべたいさぎ良い瞳で。
「協力します」
「……ありがとう、マリー。ごめんなさい」
「謝らないでください。わたしがそうしたいからで、先生が同じ気持ちなのはそう、偶然です」
「ふふ……あなたには負けるわ」
ブラウニーを外へ逃がそうという考えはしませんでしたけど、とマリーが独り言のようにつぶやく。
「でも、それしかないですよね。どの道外でずっと生きて行かせるわけにはいきませんから……」
マリーの顔が歪む。そして静かに、涙を流した。その様子に、シャーリーの喉の奥からも熱が込み上げてくる。
それを必死で抑え込み、ゆるゆると息を吐き出した。
今泣くわけにはいかない。まだだ。
* * *
あの時、どうして撃てなかったのか。
激しい後悔に苛まれながら、シャーリーは暗がりで一人唇を噛んだ。
その身にまとうのは、闇に紛れる暗色の上下。その手には一丁のアサルトライフル。
ブラウニーをなんとか逃がしてから半年以上経っている。とっくにどこかでその生を終えたのだろう、そう思っていた。そのブラウニーが生きていると知った時、一瞬嬉しかったのば事実だ。しかし、しょせん彼女は化け物。
そして、ブラウニーを殺処分するようにという命令がシャーリーに下された。明らかにシャーリーが逃がしたことを疑っているからこその命令。
あの時、小さな宿にいたブラウニーを処分できるはずだった。そうしなければならなかった。
それなのに。たった一言ブラウニーが——いや、もう一人の彼女が叫んだ言葉にひるんでしまった。
『——お母さん‼︎』
そう叫んで泣きそうな顔をしたあの娘を撃てようか?
化け物でも、シャーリーにとっては大切な愛すべき娘なのだ。
どうあっても彼女を処分しなければならないのはよくわかっているのだ。これ以上、犠牲者を出さないためにも。〈黒蝶〉の存在を世から隠すためにも。
「ブラウニー……」
ただ、愛しただけだったのに。
「ごめんなさい、ブラウニー」
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