15. あなた……誰……?

「いつも思うのだけれど、ブラウニーは食欲が凄いわよねぇ……」


 今ブラウニーは、完全に密閉された部屋の中で食事をしている。そのブラウニーをモニターで観察しつつ、シャーリーは毎度のことのようにそうつぶやく。

 モニターの中のブラウニーは、ものすごい勢いで食事を続けている。服や体などが汚れるのもおかまいなしに手づかみで食事を口へと運ぶ。


「まるで理性のタガが外れたみたい」

「そうですね。たしかに食事の時だけですよね」


 シャーリーの隣で同じようにモニターをのぞき込んでいるマリーも頷く。


「それとも、こういうものなんでしょうか。本能というか、なんというか……そんなものが働いているとか?」

「うーん。本能、ねえ……?」


 本能が出るのではないか。それはシャーリーも考えたことだ。しかし、いまいちしっくりと来ない。


「本能って言っても、受け答えはしっかりしてるものね、彼女」


 そうなのだ。本能が出ているのではないかというくらいのすさまじさで食事をする彼女だが、食事中に話しかけられたことにはきちんと答える。しかもその受け答え方は、いつもよりしっかりしているようなふしさえあるのだ。

 毎回のことだが、それをたしかめるためにマイクのスイッチをオンにする。そのマイクはブラウニーのいる部屋につながっており、シャーリーの声を彼女に届ける。


「ブラウニー。どう、おいしい?」

『ええ、とてもおいしいわ。ありがとう、お母さん』


 すぐに、モニターの中のブラウニーがカメラ目線で返事を返す。その返事をマリーは、難しい顔をして静かに聞いている。


「そう、ならいいのよ。好きなだけ食べてね、まだたくさんあるから」

『ええ。ありがとう。だからお母さんのこと大好きだわ』

「わたしもブラウニーが大好きよ」


 そう、愛している。たとえ血の一滴もつながりがなくとも。たとえ彼女がシャーリーの研究対象であったとしても。

 お母さん、そう言って慕ってくれる彼女のことを愛している。


『うふふふ。わたしもお母さんに触れたらいいのにな』

「そんなこといつでもできるわよ」


 そう答えて、マイクをオフに切りかえる。その時。


「先生……」


 まるでつぶやくような声でマリーに呼ばれ、彼女の方を向く。そして、彼女の異変に気がついた。

 呆然としたような、焦点の合わない瞳。まるで力の抜けたような表情。


「先生。あの子、誰ですか」

「あの子? ブラウニーのこと?」


 マリーの視線が、いまだ黙々と食事を続けるブラウニーを捉える。


「ブラウニー? ブラウニー、なの……?」

「なに?」


 言っていることの意味がわからない。


「ちょっと、失礼します」

「マリー⁉︎」


 突然なにかに憑かれたかのような顔でマリーが動き、マイクのスイッチをオンに切りかえた。そして、マイクに口を近づける。


「ブラウニー」

「なに?」


 ブラウニーの返事に特に変わったところなどない。

 マリーはなにをしたいのだろう……。


「ブラウニー、食事中悪いんだけど復習したいの。 わたしの教えたクレイジー・マザーを歌ってみてくれない?」

『クレイジー・マザー?』

「ええ。『Mother』でいいわ。あなた気に入ってたでしょ?」


 当然のごとく、モニターの中のブラウニーは怪訝そうな顔をした。


(当然よね。マリー、どうしたのかしら)


 ブラウニーと同じく、シャーリーも怪訝な顔をしてしまう。

 しかし、次の瞬間に、その表情は驚きで凍りつくことになった。


『それ、なに?』

「え……?」


 マリーの横顔を凝視する。


「歌よ、ブラウニー。今日もほら、朝から『腹ペコこまどり』を教えたでしょう? それでもいいわよ。あなた全部、歌えるようになったものね。歌ってみてくれないかしら」


 微かにマリーの声が震えている。


『そんなの知らないわ、。マリーはわたしにそんなもの教えてくれたことないわ』

「あなた……」


 マリーは一瞬言葉に詰まった。一度ごくりとのどを鳴らし、絞り出すように口を開く。

 そこから発せられる言葉を、シャーリーは正確に予測し、それによる動悸で息が詰まった。

 まさか、そんなこと……。


「あなた……誰……?」


 引き絞ったようなかすれたマリーの声がマイクを振るわせる。


『わたし? ブラウニーよ。そうなんでしょう? だってお母さんもマリーもわたしのことそう呼んでいるじゃない』


 そうだ。たしかに彼女のことをブラウニーと呼んでいた。しかし、それは……。


「でも、違うのね、あなたは。普段のブラウニーとは。わたしがクレイジー・マザーを教えてやったあの娘とは」


 マリーは今にも泣き出しそうな顔をしている。いや、そんな顔をしているのは自分だったのかもしれない。


『マリー? 気がついてなかったの? お母さんも? だからわたしのこと、ブラウニーって、呼んでたの……?』


 返ってきたのは、こっちこそ信じられない、といった顔をしたブラウニーの——いや、ブラウニーの体を持つもう一人の少女の声。

 彼女も、今にも 泣き出しそうな顔をしている。


「ごめんなさい。ブラウニーに自覚はないようだし……」


 言って、シャーリーは唇をぎゅっと噛み締める。

 この娘は……この娘もいつもいつもお母さん大好き、そう言ってくれていたのに。

 自分を慕ってくれていたのに。

 それなのに自分が見ていたのはブラウニー一人だったなんて。


『ええ、そうよ。あの子が主人格だもの』


 ぽつりとつぶやくような声で、少女はそう言った。そして、次の瞬間、なにかを決意したかのようにシャーリーを呼ぶ。


『お母さん。 ねえお母さん。わたしに名前をちょうだい。ねえ』


 そうしたら、お母さんはわたしのことを見てくれる。そう続け、モニターごしにシャーリーをじっと見つめてくる。


『お母さん』

「——ええ、いいわ。名前をあげる。なにがいい?」

『本当? だったらお母さん、あの名前をちょうだい。昔呼ばれてた、わたしたちの正式名称』

「ああ……」


 そういえば、忘れていた。ブラウニーという名前をつけてからは一回も使ったことがなかったから。


「ええ、いいわよ。あなたにあげるわ」


 声が震えそうになるのを必死でこらえてそう答える。

 これで、シャーリーはこの娘の母にもなったのだ。本当に。


『ありがとう、お母さん! やっぱりお母さんが大好きよ』

「ええ、わたしもあなたが大好きよ。ブラウニーじゃなくて、あなたが」


 愛している。だから人として生きられるよう、誰かの役に立つ道を模索している。

 それは、ブラウニーの身体を共有する別の人格がいたとしても、驚きこそすれ変わらない。


「さあ、ゆっくり食事なさいね」


 マイクスイッチ、オフ。

 ブラウニーは、いや、ブラウニーとは違う彼女はにっこりとカメラに向かって笑った。そして、また一心不乱に食事を始める。


「ずっと気づかなかったなんて」

「ほんとね。わたしたちはあの子の一体なにを見ていたのかしら」


 シャーリーを疲労感が襲う。それと同時に、科学者としての熱がわき上がるのも感じた。

 いつ二人は入れ替わっているのか。自覚のないブラウニーとは違って、別人格という自覚がある彼女との違いはなんだろう。


「先生、ブラウニーには話しますか?」

「そうね。でも、ある程度彼女に話を聞いてから考えましょう」


 モニターの中へ視線を送る。そこには、まだ食事を続けている少女の姿。


「そうですね。これからはどちらと話してるのかも注意してないと。でも、彼女の言い方だと食事の時だけ交代してるのかもしれませんね」

「そうね。そんな感じだったわね」


『わたしもお母さんに触れたらいいのにな』そんな言い方をしたということは、彼女は直接シャーリーに触れたことがないのだ。

 シャーリーに触れられなくなるのは、食事の時だけに限られる。食事の時だけは、彼女を隔離しなければならない。それを彼女も理解しているからこその発言だったのだろう。


「統合した方がいいのかしら、それとも……」


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