13. これからは多分毎日楽しいよ
「おまたせ、ブラウニー」
どうぞと差し出されたお粥には、ケツァールのものと違い玉子は入っていない。そのかわりに、原型をとどめていない緑色の野菜が入っている。先ほど茹でていた葉野菜だろう。
「あ、ありがとう……」
「食べてみて。ケツァールほどは上手くないけど」
そう言ってにこにこしたジャムはそのまま席についた。ブラウニーとケツァールの会話はそれっきりになってしまう。
(お腹、空いちゃったな、本当に……)
けれど、目の前のお粥にさほど関心がわかないのはなぜだろう。食べたいとか、美味しそうなどと思わないのは。
(でもこれ、ジャムが、わたしのために作ってくれた……)
そっとスプーンに手を伸ばし、お粥をすくう。少し冷まして口の中へ。
「……?」
口の中に広がるお粥の味に首を傾げる。玉子と野菜だからか味が微妙にに違うが、今朝のお粥と大差ない味である。
(じゃあ、これがお粥の普通の味なの? わたし、本当にお粥食べたの初めてだったのかしら)
なにしろ食事をした記憶がないのだからわからない。しかし、これがお粥の味なのだとしたら、ブラウニーは今まで食べたことがなかったのだろう。
もうひと口、そしてもうひと口とお粥を口へと運ぶ。その様子をジャムがにこにこしながら見つめてくるのに、妙な気恥ずかしさを感じた。それを誤魔化すように、次々とお粥を口へ運ぶ。
(どうしてわたし食べたことあるなんて思い込んで————)
それはやはり突然だった。全身の血が引いたような感覚に眩暈を起こし、次の瞬間。胸が激しく動悸を起こし、締め付けるような胸の苦しみと共に嘔気が込み上げてくる。
「————……‼︎」
「ブラウニー⁉︎」
慌てて口を押さえる。ここで吐いてはいけない。
立ち上がろうとして足がもつれる。ジャムが弾かれたように席を立ったのが見えた。
足もとから地面が崩れ去っていくような脱力感。
「ブラウニー大丈夫かっ⁉︎」
差しのべられるジャムの手。しかし、その手がブラウニーに届く前に、床に倒れ込んでしまう。身体を起こそうとして仰向けになった瞬間に、一際強い嘔気に襲われた。止められない!
逆流して来た胃の中身は、口腔にあふれたと思うと重力でまた喉へと流れ込む。それが気管へ入り咳き込むが、そのせいで余計に異物が流れ込んでしまう。
体勢を変えようと手を伸ばすが、その手は空を切った。
苦しい‼︎
「いけない‼︎」
ケツァールの珍しく慌てた声が耳に入った。
(嫌、苦しい‼︎)
意識が遠のく。闇に引き込まれようとするその瞬間、ブラウニーの身体が誰かの力によって横へと向きを変えられた。口の端から汚物が流れる。
「少し我慢して下さいね」
頭上からしたのはケツァールの声。
(ケツァール⁉︎)
視界に入ったのは白い手。そして白銀の髪と緑の翼。ケツァールだ。
彼は、ブラウニーの吐き戻した汚物の中に膝をついていた。
そして、ぐっとかがんでブラウニーの顔をのぞき込む。長い白銀の髪が汚物の中に沈んだ。しかしそんなことには頓着せず、ケツァールはブラウニーへ手を伸ばす。
(うそ、うそでしょ⁉︎)
素手だった。素手でブラウニーの口を開き、中の汚物を外へとかき出して行く。
「ジャム、ブラウニーの背を叩いてみて下さい」
「わかった‼︎」
ケツァールの指示通りに、ジャムがブラウニーの背を叩く。その反動で出た咳によって、さらに喉の奥から口へと汚物が流れた。それもケツァールは素手で丁寧に取り除いていく。
(あぁ————……)
ケツァールは服も、手も、髪も、汚物にまみれている。
しかし、本人はそんなことは気にならないようで涼しい顔だ。
「ジャム、タオルを下さい」
「あ、あぁ‼︎」
ケツァールはジャムからタオルを受け取ると、まず自分の両手を綺麗に拭いた。そして、ブラウニーを抱き起こす。
「大丈夫ですか?」
そう訊きながらも、彼の手は止まらなかった。ブラウニーの顔や髪など、汚物で汚れた所を綺麗に拭き取って行く。
「ジャム、コップに水と、洗面器も下さい」
そして、的確に指示を出していく。
「とりあえず、うがいをどうぞ」
コップを手渡され、洗面器をあごの下に構えてくれたケツァールの姿に、胸がいっぱいになってしまう。
何度も頷き、洗面器の中へうがいをする。そうしながらブラウニーは泣いていた。
(わたし————)
どうして、こんな人を怖いなどと思ってしまったのか。ケツァールも、こんなにもこんなにも優しい人なのに。
(ごめんなさい……)
心の中で何度も何度もケツァールに謝る。ごめんなさい、と。
ただ、ただ謝った。謝って泣いた。涙が止まらない。
ジャムが窓を開けてくれたのだろう、少しひんやりとした空気がほおをなでていく。
「どうしました? 気分が悪いですか?」
「いいえ、違うの……ごめんなさい……」
そうではないのだ。そうでは……。
「そうですか。シャワーは浴びれそうですか? 今日は身体を流してもう休んだ方がいいでしょう」
「そうだね。ケツァールもそう言ってるし、そうしよう。立てる?」
ジャムの腕がふんわりと伸びてきて、ブラウニーを立たせる。そして、そのままバスルームへと導いた。
その二人の姿をよそに、ケツァールはブラウニーの撒き散らした汚物を、やはり素手のまま片付けにかかっていた。
その姿を目の端にとらえ、たまらずに向き直る。
「ケツァール」
「おや、どうしました?」
細い両腕も綺麗な銀髪も、白い服も。ブラウニーの吐いた汚物がついている。
「あ、ありがとう……。そんな、そんなこと、させて。そんな汚いもの、いっぱい……ごめんなさい……」
「ああ」
始めはなにを言われているのだろう? という顔をしていたケツァールは、納得したように軽くほほ笑む。
「いいんですよ、こういうことには慣れています」
「でも」
「たしかに感染症の可能性を考えれば素手は褒められた手段ではありません。手袋はもちろん、マスクやガウンも必要です。拭き取りもタオルではなく使い捨てのペーパータオルでなくてはなりませんね。消毒も必要です。ですが、緊急時では仕方がありません。またあなたの様子からも感染症を持っているとは考えにくいでしょう」
「ふふ……」
いつものおっとりした口調からすると別人かのような早口で、しかも大真面目に解説し出したケツァールに思わず笑みがもれる。
「吐き戻しは精神的なものでしょうね。とすれはブラウニー?」
「……?」
「汚くはないでしょう?」
その時受けた衝撃を、どう言い表したら良いかブラウニーにはわからなかった。
頭を鈍器で思いっきり殴られたような、それでいて優しく抱きすくめられたような……。
とにかく、言い表すのは不可能だと思うほど、その一言はブラウニーの胸を貫いた。
そして、素直に納得できた。ああ、そうなんだ、と。
ケツァールは感染症の可能性を承知していながら、それでもブラウニーを優先してくれたのだ。そのことに、心の底からありがたさがわき上がる。嬉しい。
「だから、どうぞ気にしないでシャワーを浴びてベッドへ入って下さい」
「本当にありがとう」
今度は素直に頷き、ジャムに連れられてバスルームへ向かう。
「ねえ、ジャム」
「うん?」
「ケツァールって、強いのね」
彼は強い。そう思う。
「ああ、うん。ケツァールの場合多分生まれてこのかた、ああいうのを汚いって思ったことないんじゃないかな。そういう奴だから」
けれど、それがケツァールの強いところでもある。ジャムはそう言って苦笑した。
「ごめん。俺、本当は少しためらった」
「ううん。それが普通だと思うわ。わたしなら……ええ、絶対に嫌だって思ったはずだわ」
「ケツァールといると、あんなのまだまだたくさんある」
ジャムはそう言って笑った。それは、仲間を思う優しい笑み。
「だからブラウニー。これからは多分毎日楽しいよ」
「ええ。そうね」
「そうだよ」
ジャムと瞳を合わせて笑い合う。
体のだるさとは別に、気分はすっかり晴れていた————。
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