11. わたし、この旅の間いつ……

「そっか、そうだよな」

「ええ。すみませんでした。私のミスです」

「あ、いいえ……そんなこと……」


 慌ててかぶりをふり、ブラウニーはケツァールの瞳をのぞき込んだ。そして、絶句する。


(——なに?)


 静かな、静かな緑色の双眸。その双眸はなんの感情も色も表していない。ただ、その瞳にブラウニーの像を結んでいるだけ。

 冷たいというのとは違う。なんの感情もこもらない瞳。感情のなくなったその瞳は、まるでブラウニーの深部を覗き込んで来るような……。


(怖い————)


 一瞬本気でそう思ってしまう。ブラウニーの全てを見すかしているかのようなその瞳が怖い。

 知られてはいけない。


(知ラレテハ……)


 ふいにケツァールの瞳が、思い出したかのようにおだやかな輝きを取り戻す。


「一応、身体に異状がないか診察しておきましょう。そちらのイスに座って下さい」


 そう言って、ケツァールはイスを2つ向かいあわせにならべた。片方にブラウニーを座らせ、自分はその向かい側に荷物と一緒に座る。

 そして、その荷物の中から出したのは聴診器。

 それを耳にはめ、その先たんを右手で持つ。医師だから当然だが、ケツァールにはその格好が異様に似合っていた。


「ジャム。とりあえずあなたはあっちに行っていて下さい」

「えっ? なんで俺だけ?」

「馬鹿ねぇ。女の子の診察シーン見る気なのデリカシーないわねぇ!」

「えっ⁉︎ あっ、あああぁ違うんだよごめんっ」


 慌てた声と足音が向こうの部屋へ消えていく。

 ケツァールの指示通りに上着の端を少しだけ上げると、そこからケツァールは聴診器を入れた。下着の上から何ヶ所か素早くあてて、すっと抜く。


「とくに異常はなさそうですね。ちょっと横向きに座ってもらえますか」


 言われた通りに右を向いて横向きに座る。立ち上がったケツァールがブラウニーの背中にも聴診器を当てたが、こちらもなにもない。

 ブラウニーの体に異常なところは微塵も見られなかった。


「異状はありませんね。なにも食べていませんし、一応栄養剤を打っておきましょう。ブラウニー、注射は?」

「大丈夫、だと思うわ」

「わかりました。では、あちらの椅子へ。腕をテーブルの上に置いて下さい」


 そう言って、ケツァールは荷物の中から黒く細長いケースを取り出してふたを開ける。その中には、注射器が一つ。


「ケツァール、いつもこんなん持ち歩いてんのか?」


 戻ってきたジャムが呆れたように聞く。


「準備いいな」

「いえ、そういうわけでもありませんが」


 ケツァールは淡々とと答えて、使い捨て型の注射針をセットしにかかる。


「今日はたまたまってところです」

「なんだ、そうか」

「ええ。まさかいつも持ち歩いていたら重くて仕方ないでしょう」

「まぁ、それもそーだよなー」


 そのまま二人の会話はごく普通に進んでいく。しかし、ブラウニーの耳にその会話の内容はたいして入ってこなかった。

 今日はたまたまってところです。

 このケツァールの一言が胸につっかえて、言い様のない不安を彼女にもたらしたからである。


『やはり、そうですか……』

『今日はたまたまってところです』


 おかしい。これは、まるでブラウニーがこうなることを知っていたかのような……。


(知っていた⁉︎)


 もし、もし本当に彼が知っていたのだとしたら。

 彼には、ケツァールにはチャンスがあった。朝食の用意をしたのは彼なのだ。しかも、その料理は自宅であらかじめ準備して来たものだ。

 もし、その時になにか————。


「おや? ブラウニー、また顔色が悪くなっていますね。まだ気分が悪いですか?」

「いいえ、違うわ」


 気分が悪いのではない。そうじゃなくて。


(わたし、とんでもないことを考えて……)


 しかし、否定しようとすればするほど不安感は増していく。

 ブラウニーだけがお粥だった。体調を気遣ってくれたのだと思っていたが、そうではなかったとしたら。その思いが拭えない。


「そうですか? ならいいのですが。さ、手を出してみて下さい」


 注射器のセットは終わったのだろう。今彼が手にもっているのはゴムチューブだった。それで、血管をわかりやすくするために二の腕をしばるのだろう。


「ケツァール、あの……」


 そっとケツァールを見上げ、ごくりとつばを飲む。そこにあるものは、先ほどと同じ、静かすぎる双眸。


「なんですか?」

「あの、ごめんなさい……。わたし本当は注射、ダメなの。ちょっと強がってみたけどやっぱり……嫌……」


 嘘だ。別に注射など怖くはない。

 怖いのは……。


「そうですか。大丈夫です、無理にするようなものでもありませんからやめておきましょう」


 ケツァールは、別に怒ることもなくすんなりと引きさがった。そのことに少し安堵する。


「ケツァール、薬かなんか持ってないのか?」

「これは精神的な問題ですから薬で解決できるものではありませんよ。それに」


 ケツァールはそこで少し言葉を区切り、ちらりと横目でブラウニーを見る。


「たった一口二口食べただけで吐いたんです。薬を飲んだとたんにまた吐かないとは言えません」

「ま、そーね。たしかに」


 それにパフォーラも同意している。


「無理に食べるのはやめましょう。食べたくなったら言って下さい。いつでも作りますから」

「ありがとう……」


 一応そう返し頷いておく。


(でも……)


 きっと食欲はわかないだろう。今までだってそうだったから。

 そして、はっとする。


(待って、わたし)


 どうして今まで気がつかなかったのだろう。


(わたし、この旅の間いつ、食事したの⁉︎)


 そんな馬鹿なことがあるはずがない。そう自分に言い聞かせて記憶をたどる。

 しかし。


(うそ、でしょ……)


 覚えていない。食事をした記憶だけがすっぽりと抜け落ちてしまっている。


(じゃあ、どうしてわたし、生きてるの……?)


 ブラウニーは人間だ。人間どころか生物は皆なにかを食べたり吸収したりしなければ生きていけないはず。

 そうだ、今ここにこうして生きているのだから食べているはずなのだ。特に飢えているわけでもない。

 食べているはず。ではどうして食べた記憶がない⁉︎

 胸がドキドキする。なぜ⁉︎


(ソレハ……)


 どす黒いなにかが胸を締め付ける。ひどい寒気がした気がして、無意識に自分で自分を抱き締めた。

 そういえば、いつからこうして旅をしているのだろう。そもそも、どこで生まれて、どこで育った?

 旅をしている事になんの疑問も持たなかった。追われるようになってからは必死で、余計にそんな事など考えなかった。


(どうしよう、怖い……)


 これを打ち明けていいのかわからない。いや、言えない。特にケツァールには。

 そんなブラウニーの葛藤は、ジャムを呼ぶパフィーラの愛らしい甘えた声に遮られた。


「なに?」

「わたし、ちょっと出かけて来るわね」


 そう言ったパフィーラは、ブラウニーの不安など知らず憎らしいまでに晴れやかに笑う。


「どこにさ」

「ちょっとね〜。もしかしたらしばらく帰って来ないかもしれないけど、あとよろしくね」

「あぁ……って、えっ? そんなになにするんだよ」

「うふふ。気にしないで。ちゃーんと戻ってくるから。じゃあね♡」


 パフィーラは三人に向けて、とびきりの笑顔で投げキッスをした。そのままひらひらと手をふりながら、ふり返ることもなく部屋を出ていく。


「なんだろ……パーフィ」

「さぁ? まぁ、彼女のことですから心配はいらないでしょう」

「そうだけど」


 不思議そうな顔をしたジャムが、ブラウニーの方へ視線を向ける。その金色の瞳が優しげな色を浮かべ、気が抜けたようにイスに座ったままのブラウニーの顔をのぞき込む。


「ブラウニー大丈夫? ベッドで休む?」

「あ、うん……」


 考えがうまくまとまらない。それに体もだるい。


「そうさせてもらえる?」

「もちろん。立てる?」


 すっと差し伸べられたジャムの手につかまり、椅子から立ち上がる。


(ジャム……)


 ケツァールが信用出来ないなら、ジャムもパフィーラも信用してはいけないはずだ。それなのに、ジャムの瞳には疑わしいところがなにも見つけられない。

 すっと離れたジャムの手を追いそうになり、慌てて手を引っ込める。少し熱いくらいのジャムの温度が、まるで自分をすくい上げてくれるような気持ちになる。

 今までブラウニーは一人だった。孤独で、誰も信じられず、恐怖に怯えていた。だから仲間だと言ってくれた、それは本当のことだと信じたいだけなのかもしれない。

 そうだとしても、今、しっかりとつかんでいられる手はジャムのものだけだ。


「はい、いいよ」


 朝起きた時のまま乱れていたベッドを整え、ジャムがブラウニーを促す。その促しのままにブラウニーはベッドの中へ入った。


「ゆっくり眠ってていいからさ。なにかあったら向こうにいるから呼んでくれれば来るよ」

「ありがとう」

「うん。じゃあ……」


 そう言って去ろうと背を向けたジャムの後姿に、急に心細くなる。

 目を閉じたら、もう会えないのではないか。そんな妄想めいた不安が押し寄せてたまらない。

 また夢の中で得体の知れない化け物に追われて、そして今度こそ……。


「待って」

「うん? どうかした?」

「あ、えっと、ジャム……」


 胸が高鳴る。不安だから呼び止めたのはたしかだ。けれど、胸が高鳴るのはまた別のものだった。


「眠るまで側にいてくれる……?」


 言ってからしまったと思う。なんて子どもっぽいことを言ってしまったのだろう。

 しかし、ジャムは笑顔で頷いた。


「いいよ。あ、ちょっと待ってて」


 ジャムは一度向こうへ姿を消すと、椅子を抱えて戻ってきた。その椅子をベッドの横に置いて、ジャムはそこに座る。


「ここにいるよ。だから安心して休んで」

「ありがとう」


 優しい。ジャムがここにいてくれる。

 きっと、眠っても大丈夫。


「ううん、いいんだって。俺にできることってこんなことくらいだし」

「そんなことないわ。わたしを守ってくれている……」


 少し気恥ずかしくなり瞳を閉じる。

 やわらかくジャムが笑った気配がした。


「おやすみブラウニー」

「うん、おやすみ」


 * * *


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