第三章 生命の予感

9. ちょっと怖い夢を見ただけなの

 気がつくと、そこはベッドの中だった。明るい日差しが部屋の中を照らしている。


「ん……? ゆめ?」


 暗闇を白い腕に追われ、襲われた。その恐怖がまだしびれのように残っている。それなのに、今自分の瞳に見えているのは光だった。

 さっきのあれは、夢だったのだろうか。


(そう……夢だったんだわ……)


 妙にリアルな夢だったが、怖い夢とは得てしてそんなものなのだろう。そう思って納得する。

 そう、夢だったのだ。現実はこちらだ。

 本当に怖かった。けれど夢だったのだ。

 ふうっと大きく息をついて身じろぎをする。身体を起こそうと横を向き、そこに小さく丸まり安らかに眠っている美少女を見つけた。

 パフィーラだ。

 記憶をたどる。食堂で襲撃されて、ジャムの部屋に帰って来たのだ。そのままここで過ごして夜になり……。

 ジャムが一人暮らしのために借りた部屋だ。二部屋しかない上にベッドは一つ。そのベッドも広いとは言い難く、ブラウニーとパフィーラでいっぱいだ。そのため、ケツァールは自宅へ帰り、ジャムは床で寝てくれたのだ。

 本当ならばブラウニーが床で眠りたかったところだった。しかし、『ジャムはいーの。いいからさっさとベッドで寝なさいよもー。わたしの睡眠時間が少なくなってお肌が荒れちゃったら弁償できんの⁉︎』というパフィーラの身も蓋もない言い分によってあえなく却下されてしまったのだ。

 強気で威勢のいいパフィーラも、眠っている姿はあどけない少女のもの。しかも天使かと思うほどの美少女だ。知らずにブラウニーのほおがゆるむ。

 大丈夫、ここは安全だ。誰もブラウニーを傷つけたりしない。そう確信して息をついたその時。


「あ、目覚めた? おはよう」


 そんな明るい声が頭上から降ってきた。ジャムだ。

 視線を向けると、逆光の中に猫のシルエットが浮かんでいる。その表情は、人の良さしか感じられない優しい笑顔。


「おはよう」


 ブラウニーもあいさつを返し、身を起こす。


「ベッド、ありがとう」

「いや、いいよ、それくらい。それより眠れた? なんだかうなされてたみたいだけど大丈夫?」

「ええ」


 ジャムは優しい人だと思う。優しくて、だからこそ守ってあげたくなるような、そんな感じの人だ。ジャム自身はそう気づいていないかもしれないが。

 そんなジャムに、パフィーラはうってつけの相棒のように思えた。そのパフィーラはまだ眠っている。無邪気そのものの顔で。


「ちょっと怖い夢を見ただけなの」

「そっか、良かった。大丈夫、ここは安全だからさ、安心してていいよ。俺がちゃんと守るから」


 そのジャムの言葉に、自然と顔がほころぶ。嬉しかった。ジャムは、どこの馬の骨とも知れないブラウニーを守ってくれると言うのだ。

 そう、パフィーラもケツァールも同じ気持ちでいてくれているのだろう。それが嬉しい。


「ありがとう」


 今まで追われ、ずっと逃げ回って来た。そんな日々の中で、ブラウニーを守ってくれようとした人などいなかった。初めてだ。

 いつも人は冷たいと、そう思っていた。そして、それが当たり前だとも。

 命を狙われている女を助けたところでなにになるだろう。自分も巻き込まれて危険な目に遭うのが落ちではないか。

 だから、冷たいとは思っても恨みには思わなかった。助けを求めようとも思わなかった。

 助けを求めて巻き添えにして、その人の人生を滅茶苦茶にしてしまうのだけは嫌だったのだ。ただでさえ、巻き添えで人が死ぬというのを毎回経験しているのに。

 けれどジャムは、そういうブラウニーの心情を全てわかった上でなお助けてくれているのだ。大丈夫、守ってやるからと。

 ブラウニーに出会った時点で巻き込まれている。だからあなたのためにここまで来た。パフィーラもそう言ってくれた。言い方はぶっきらぼうだったが、あれはパフィーラのブラウニーを助けてあげたいという気持ちだった。

 その気持ちが本当に嬉しい。ありがたい。


「ん……もう朝ぁ……?」


 小さな吐息が鼓膜を震わせる。隣を見ると、パフィーラが薄く瞳を開いたところだった。瞼の奥の澄み切った青は、まだ焦点が定まっていない。

 ブラウニーが動いたせいだろう、ずれてしまった掛け布団を自分の方に引き寄せてもぞもぞしている。


「あ、ごめんなさい。起こしてしまったかしら」


 パフィーラは朝に弱いのだろう。今の彼女は、いつもの大人顔負けの気丈な美少女とは打って変わって、歳相応の子どもの顔をしている。まるで、着替えが嫌でぐずる子どものようだ。

 しかし、それと同時に素晴らしく可愛らしい。まるで天使の目覚めだ。


「おはよう」


 そう思い、パフィーラにあいさつを返してほほ笑む。


「んーんぅ……。おはよぉう」


 ブラウニーに返事を返したつもりなのか、パフィーラはそううなって自分の髪の中に埋もれてしまう。


「パーフィ、おはよう」


 そんなパフィーラを笑みを浮かべて眺めていたジャムが、やっと声をかける。そして、パフィーラ側のベッドに腰かけ、パフィーラの上体を起こしてやった。


「ジャム? おはよー……」


 そこまで来て、やっとパフィーラはにっこりと笑みを浮かべた。言葉はまだ曖昧だったが、瞳はきちんと開いている。

 パフィーラの手が伸びた。ジャムの顔を引き寄せて、おはようのキスをジャムのほおに降らせる。


(本当に仲がいいのね……)


 そう思って、ふいっと二人から瞳をそらす。なぜだか、仲のいい二人の姿を見るのはあまり気持ちが良くない。

 そんなことを思ってしまっていることに気づいて、胸がざわつく。


「あ、ジャム。リボンちょーだい」


 そのパフィーラの声に視線を戻すと、ジャムがパフィーラに黄色いリボンを手渡しているところだった。パフィーラがそのリボンを受け取り、ベッドの枕元にかけてある古ぼけた鏡をのぞき込む。器用に手ぐしで髪をすき、サイドの髪にリボンを結んだ。


「どお? ジャム。おかしくない?」

「大丈夫」

「そ? 良かった。あ、ブラウニー。どーぞ」


 パフィーラが丁寧に鏡を譲ってくれる。その言葉に甘えて、髪を少し整えた。

 ブラウニーの髪は肩より短い上に、元々ウェーブがかかっている。手ぐしだけで十分だ。

 そうこうしているうちに、自宅に帰っていたケツァールがやってきた。その手には自分の荷物らしきバッグとは別に、二つの紙袋がしっかりと抱えられている。


「あれ? ケツァールそれなに?」


 ケツァールを迎え入れたジャムに、ケツァールが大真面目に朝食ですと答える。


「昨日のこともありますし、出歩くのは控えた方がいいでしょう。ですから、私がなにか朝食を作ろうかと思いまして」

「うそー、ほんとに? やーん、ケツァールったら気が利くぅ♡」


 ケツァールが朝食を作ると聞いて、パフィーラは語尾ハートマークで喜こんでいる。ぴょんとベッドで跳ねると、その勢いのまま飛び降りて駆けていく。それにブラウニーも続いた。


「ケツァールの料理は美味しいのよぉ♡」


 パフィーラによると、ケツァールの料理はそこらの食堂のものよりも美味しいらしい。ただ、本人が面倒くさがってめったに作ってくれないらしいが。


「まぁ、こういう時ですしね。こんな時くらいは進んで作らせていただこうかと思いまして」

「うんうん。進んで作らせてあげる♡ 早く早くぅ」

「そう焦らないで下さい。作りますから」

「だってー、今この瞬間に地震起きたら食べられなくなっちゃう。だから、早くう」

「起こりませんてば……」


 そんな軽快な会話を交わしている二人に、口もとをゆるめる。一時的なものだとしても、なんて幸せな時間なのだろう。


「どうです? ブラウニー、食事は取れそうですか?」

「あ……」


 そういえばと軽くお腹をさする。結局昨日も一口も口に物を入れなかった。しかし、空腹を感じるかと言われれば否だ。


「ごめんなさい。まだ……」

「そんな、ブラウニー大丈夫なのか⁉︎」


 本気で心配してくれているのだろう、ジャムの耳としっぽがせわしなく動く。

 その顔も心配そうだ。

 心配ばかりかけている。そう思うと申し訳なかった。どうして自分はこうなのだろう。


「なにか食べないと体に悪いよ」

「そうですね」


 医師であるケツァールも頷いている。


「でも」


 どうしてだろう、本当になにも食べる気になれない。


「あんなものを見れば無理ないことですが。けれど、とりあえず食べて下さい。もう二日食べてませんからね」


 もう二日。いや、本当は……。


「体に毒ですよ」

「ええ」


 それはわかっている。皆が心配してくれているのもわかる。


「じゃあ、あの、少しだけなら……」


 なにも食べる気にはなれないが、少しくらい食べて三人の心配を軽くしてやらなければ。心配ばかりかけてもいられないだろう。


「そうしましょう」


 めずらしくにこりと笑って、ケツァールは頷く。


「では、食べやすいようにおかゆでも作ります」

「ありがとう」


 どうやらケツァールは消化にいいものを選んでくれたらしい。


「おかゆねぇ、ケツァールの作るおかゆも美味しいわよ。ジャムが熱出した時に食べたけど、味付けが絶品よ」


 すっかり目が覚めたらしく、パフィーラがいつもの調子でケツァールのおかゆを褒める。


「そうなの?」

「うん、そりゃあもう。楽しみにしてていいわよ、ブラウニー」

「ってパーフィ。なんで病人の俺じゃなくてパーフィが食べてんのさ」


 呆れたようなジャムの顔。たしかに、言われてみればそうである。パフィーラがさも当然のように言うものだからなかば見落としていた。


「え? ジャムにもちゃんと食べさせてあげたでしょー? この天上天下超絶美少女におかゆ食べさせてもらえただけでラッキーでしょ。気にしないの」

「なんだよそれ」

「ふふっ」


 やはり、ジャムにはパフィーラがぴったりのようだ。仲のいい二人を見ていると時々胸がちりちりするが、それでもぴったりだと思う。

 なんだかうらやましい。ブラウニーは今まで一人だったから。一人で……。


(一人……ダッタ?)


 そう、一人きりで逃げていた。だから羨ましいのだ。そうやって信頼し合って、笑い合える関係が。

 そこで笑い合うジャムとパフィーラ。そして、台所に立つケツァール。この三人は信頼という絆で結ばれている。


「いいわね」

「なにが?」


 ブラウニーとしては、かろうじて意識している程度のレベルでぽろっともらした言葉だった。しかし、それをパフィーラは聞き逃さなかったようだ。


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