断編章<ささやき>

8. ドウセ死ヌシカナイクセニ

 なにも見えない。なにもわからない暗闇。そこをブラウニーは必死に走っていた。

 なにかが殺気をまき散らし、ブラウニーを追って来ているのだ。それから逃げねばならない。

 姿など見えない。けれどわかる。それはブラウニーを追ってきている。

 逃げねば‼︎

 それに捕まってはならないのだ。それだけは駄目だ。


(いや、怖い————)


 それの気配をブラウニーはよく知っている。それがなんなのかさえもわからないのに、よくなじんだ気配だと感じる。

 だからこそ嫌だ、怖い。捕まりたくない。もし捕まってそれの正体を知ってしまったら。もしそれの正体が本当にブラウニーが知っているものだとしたら。


(どうして? なぜなの?)


 なぜ、それはブラウニーを追って来る? なぜブラウニーに殺意を抱く?

 いや、それよりもなぜ、ブラウニーはそれの気配をよく知っている?

 わからない。

 わからない、わからない、わからない‼︎


(いや、来ないで)


 見たくない知りたくない感じたくない。

 それの正体を知ってはいけない————‼︎

 走る。真っ暗闇の中をどこへ向かうのかすらわからないまま走る。走って走って、息が切れても背後の殺気は消えない。足が上がらない。どんどん迫る殺気。

 もう前に進んでいるのかすら怪しかった。最初から同じ場所で足踏みしているだけなのではないかという思いが背筋を這い上がる。それでも足を止めるわけにはいかなかった。

 上がらなくなってきた足を必死に上げる。しかし突然、なにかが足先にあたった感触がし身体が前につんのめった。普段ならなんて事のない程度だが、今のブラウニーに踏みとどまる体力は残っていない。

 悲鳴を上げて地面へと倒れる。


「いやっ、なにこれっ……」


 暗闇で見えないが、倒れたそこは粘土のような粘っこいものが地面を覆っているようだった。身体を起こそうと手をつくと指の間にぬるりとしたものが滑り込み、その感触にまた悲鳴を上げる。

 身体中が泥に覆われていく。いや、泥なのかもわからない。なにかもわからないぬるぬるしたそれから身体を起こそうとするのに、なかなかそれが出来ない。

 滑っては倒れ、また泥をかぶる。

 ぬるぬるとしたものが全身を覆い、その感触に吐き気が込み上げる。


(いや、助けて……誰か‼︎)


 早くしなければ、それに追いつかれてしまう。そう思えば思うほどに身体の芯から震えが走り、足が動かなくなっていく。

 指の間を這うように侵入する泥の感触を必死に我慢し、上体を起こす。震える足を踏ん張って立とうと力を込めたものの、足を取られてうまく立ち上がれない。

 殺気が近づいてくる。その圧にまずます身体の自由が奪われて行く。恐怖からの震えが止まらず、息も上手く吸えない。苦しい‼︎

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 殺気がさらに近づく。すぐそこ、もう至近距離にいる‼︎


「いや‼︎」


 叫び、最後の力をふり絞って無我夢中で立ち上がる。一度滑ったものの、今度はなんとか踏みとどまる。泥で重くなった身体を引きずるようにして足を前に出そうとした、その時。

 視界の端に、白くて細長いものが横切ったのが見えた。


「————ッ」


 最初それは蛇のように見えた。ぐねぐねと身体を蛇行させて、身体を白く発光させながら進む蛇。

 しかし、すぐにそうではないことをブラウニーの瞳がとらえた。その蛇の頭のあるべき場所に頭はなかった。

 代わりにそこにあったのは、手のひら。細くてすらっとした女の手‼︎

 蛇だと思ったものは、長く伸びた腕だったのだ。その腕の付け根は地面の中に潜っていて見えない。

 暗闇から生えた蛇のように長い腕。そして殺気。


(これだわ……‼︎)


 ずっとブラウニーを追ってきていたもの。ブラウニーへ殺気を向けてきていたもの。

 それは、この腕だ‼︎

 頭で理解し咄嗟に逃げようとするが、瞳がその腕に吸い寄せられて動けない。身体が完全に硬直して言うことを聞かない。

 冷や汗が背を滑り落ちる。

 そのブラウニーの足元を、腕は蛇行しながらゆるゆると動き回る。なにかをつかみたそうに、手のひらを広げたままで。

 そうして、ゆっくりとした動きでブラウニーの足首を白い手がつかんだ。そのひやりとした感触と、そこから流れ込む殺気にますます身体が動かなくなる。

 そんなブラウニーを、それは嗤ったようだった。それに顔があるわけではない。それはただブラウニーの足首をつかんでいるだけ。

 しかし、ブラウニーにはわかったのだ。それが嗤ったのが。とてつもなくいやらしい笑みを浮かべたのが。

 そしてその気配は、やはりよく知っているもののように感じる。そのこともブラウニーの恐怖をさらに強めてくる。

 それはひとしきり声を伴わない声で嗤っていた。しかし、不意にその嗤いを消したかと思うと、勢いよくブラウニーの足を引っ張った。


「きゃあぁっ‼︎」


 もとより硬直していた身体だ。なんの抵抗もできずに、勢いよく背中から下へと落ちる。下が粘土質のおかげでさほどのダメージにはならなかったが、衝撃で息が詰まった。

 逃げなければ。ただそれだけが頭の中を占める。満足に動かない身体でもがくが、足首をつかまれているせいで起き上がることも出来ない。

 視界に白い手が迫る。相変わらず足首はつかまれたままだ。手が増えている⁉︎

 そのままあっと思う間もなく手がブラウニーの首に取り付き、ぎりぎりと締まり出す。


「いやッ……誰かっ……」


 その手を引き剥がそうと必死に抵抗するが、手はびくともしない。逆に、呼吸が出来ないブラウニーの力がなくなっていく。

 苦しい。息が吸えない、苦しい‼︎

 駄目だ、逃げられない。


(助けて、誰か助けて————)


 殺されてしまうのは嫌だ! 嫌だ‼︎


(わたしは————)


 殺されるために逃げていたんじゃない。違う‼︎


(わたしに与えられたものは、自由よ‼︎)


 自由を与えられて放されたのだ。二度と戻ることの叶わない故郷から。

 だから、死にたくない。死ぬわけにはいかない。


(放して、化け物ッ‼︎)


 心の中で叫んだ、その瞬間。ふいっとのどを締め付ける手の力がゆるめられた。

 そうして聞こえてきたのは、乾いた嗤い声。声ではない声で嗤っているのは、それだということがブラウニーにはわかっていた。

 するすると白い腕がブラウニーから離れて行く。


(ドウセ死タシカナイクセニ)


 そして、それは言葉を発する。毒々しく、そして鮮やかに。


(忘レタノ? 五日モ経タナイウチニ倒レタクセニ)

(今、誰ノオカゲデ生キテイラレルト思ッテイル)

(アノママダッタラ死ンデイタクセニ)


 それの声がわんわんと暗闇の中に響く。胸を抉られるような恐怖が走り、ブラウニーは身体を小さく折りたたんだ。震える腕をかき抱く。

 起き上がることすら出来ない。

 怖い。

 聞いてはいけない、この声の主を知ってはいけない‼︎


(オ前ナンカ死ンデシマエバイイ)

(ナニモ知ラナイクセニ)

(ワタシノ苦シミスラ)

(ソノ聖人面ガ憎イ)

(オ前はイタイケナ少女ナドデハナイ)

(オ前ダケガ自由ナド許サナイ)

(ワタシガ自由ヲ得ルタメニ、オ前ハ死ネ)


 その言葉に戦慄する。それはブラウニーの命を狙っているのだ。


(あの人、なの……?)


 このブラウニーを狙っているそれは、昼間食堂で撃って来た……あの人?

 いや。気配が違う。

 あの人に感じたのは懐しさ。けれど、それに感じたものは、それを知ってはいけないという恐怖だ。

 違う。

 ということは、ブラウニーは少なくとも二人の人物に命を狙われていることになる。


(そんな……)


 狙われる覚えなどない。本当にないのに。

 それで死ねと言われても理解できない‼︎


(なぜなの⁉︎)


 なぜ、狙われねばならない⁉︎


(ソノ、存在ガ邪魔)

(オ前タチサエイナクナレバ)

(ワタシハ、自由ニナレル)


「やめて‼︎」


(邪魔ナノヨ)

(ダカラ、死ネ)


 言われていることがわからない。ブラウニーが死ぬ事で自由になれる?

 そんな覚えなどないのに‼︎


(死ネ。死ンデ、消エテシマエ)


「やめて‼︎」


 それの言葉に耐えられなくなり、両手で耳を塞ぐ。知らず、涙がほおを伝った。

 しかし、それの声は情け容赦なく鼓膜に響いてくる。耳を塞いだくらいでは消えてはくれない。


(消エテシマエ、オ前ナンカ)


「やめて‼︎」


(消エテナクナッテシマエ)


「いや‼︎」


 助けて!!


(——助けて、お母さん‼︎)

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