第2話 ただひたすらに歩いてみよう!
前略
あれから丸1日が過ぎた。
いま俺は草原を闊歩中だ。
とりあえず平地を目指そうと丘を下ることにしたのはいいが、これが正しい選択だったかどうかはわからない。
随分歩いたが、人里も人も見当たらない。
手つかずの自然のなかを淡々と歩き続ける。
絶え間なく底知れぬ恐怖心が湧き続けてくる。
足が竦む。
そのたびに襲い来る負の感情を無理やり抑え込む。
そうして淡々と歩く。
丘を下り平地を目指す。
平地にたどり着けばなんとかなる気がする。
かなり歩いたが見える景色は変わらない。
やっちまった感が幾度も襲い来る。
昨晩は蚊に襲われほとんど寝られなかった。
時折聞こえる動物の鳴き声や物音にも神経をすり減らされた。
目下、ようやく見つけた小川でたっぷり水分補給し、麻パジャマの脇腹ポケットに入っていた乾燥したハト麦の様なものを腹を壊す覚悟を決め恐るおそる齧りつつ空腹を少しでも宥めようと試みている。
このまま小川を下れば、いずれは大きな川へ繋がり、その豊富な水を利用する人々が生活しているだろうというおっさんの知恵を採用し行動している。
おっさんて俺ね。
色々無理やり置き去りにしている問題が多々ある。
それらはとりあえず封印している。
解決しようにも情報が少なすぎて無理だから。
衣食住環境が皆無な今、体力のある内に移動距離を稼げるだけ稼ぐことが良案だろう。
なんたって今の俺は幼児。
そして幼児体の俺は体力面に不安を抱えている。
力尽きる前になんとか人とのコンタクトを図かるんだ。
わかったならさっさと歩け
あれこれ考えるな
偉そうにおっさんが告げる。
いや、だからおっさんて俺だし…
いまだ馴染めない心身を奮い立て、大事の前の小事、いまとにかくサメのように動き続けることを最優先。
しかし、なぜおっさんこと俺が、この幼児体の持ち主なんだろう。
この幼児体の本当の持ち主はどこにいるんだろう。
この大宇宙の未知なる惑星か形而上的などこかで生きていたこの幼子の身体へ俺は憑依してしまったのか、それともこの幼児が不幸なことに心身分離症のような精神障害を患うか何かでポッカリ空室となってしまった幼児の精神体に、架空のおっさんこと俺がどういうわけか身代わりになった…?
考えてもまったくわからない。
おっさんの常識の範疇にないイベントが起こっているのは確かだ。
あれこれ考えず進むんだ…
昨夜、襲来する蚊を潰すため、ペチペチと自虐的体罰を幼児の肉体へ繰り返していたとき、ここが地球ではなく未知の惑星だと認識した。
見上げた夜空には、なんと月が7つも浮かんでたからだ。
満月のような月が7つ。
微妙に大きさや明るさが違う。
7つの月明りが地上を照らす。
めちゃ明るい。白夜?
ここは少なくとも俺の知る地球ではない。
7つの月。そのどの月にもウサギの姿を見つけられなかった。
走り出したい衝動を抑えこめ、そして淡々と確実に一歩を刻め…
この身体は俺のものではない。
いや俺のものなんだけど、かつて知ったる俺の身体ではない。
そしてこの身体の持ち主の記憶が俺には全くない。
認識できるのは俺ことおっさんが地球という青い星で過ごしてきた30年間の記憶だけ。
この幼児の名前も住所も年齢もわからない。親兄弟の存在や昨日まで何をして生きてきたのか、どうしてあそこで寝転んでいたのかさえ全く思い出せない。
ただ確認したから性別だけがわかっている。
男の子だ。
まだ毛が生えてなかったし、身長や声変わりしてない声帯から推察するに、たぶん年齢は5才前後だろう。
小さな大人ではなかった。
なぜこんな幼い子の身体に俺はいるんだろうか?
幼児化した俺が、どういうわけかしらないが、この星に転移してきたんだろうか?
なぜ俺は見知らぬ土地にいるんだろうか?
俺の身体はどうなってしまったのだろうか?
もしかして、俺とこの子の身体だけお互いにチェンジしてしまったのだろうか?
とすると今の元俺は、肉体年齢30才、精神年齢5才の超ヤバい大人になってるんだろうか?
そしたら間違いなく社会不適合者扱いされてるんじゃないだろうか?
今頃、路上で泣き叫んでたりして…
もしそうなら、ごめんね。
おっさんがしたことじゃないんだけど、ごめんね。
大変だろうけど、どうか君の無事を願ってるよ。
日が高くなってきた。
これ以上気温が上がると、これから先かなり体力を削られるな。
今はとにかく進むんだ。
だけど、この身体の持ち主だった子供は、きっと昨日まで無邪気に健気に天真爛漫に幼年期を過ごしてきたんだよなぁ。
その身体を突然30才のおっさんが、無理やりかどうかわからないけど、結果的に奪い取ってしまった状況にあるんだよなぁ。
これって、許されることなんだろうか。
いや許されることじゃないでしょ。
少なくとも俺にはすでに1度地球で幼年期を過ごした記憶がある。それなりに家族との幸せな思い出もある。
決してワザとじゃないとしても、この男の子の人生を盗んでしまっているといっても間違いでない。
このまま俺がこの子の身体に居座り続けてしまったなら…、本来この子が生きていくうえで味わっていく悲喜交々な人生を、そんなことを微塵も望んでないけど、俺が略奪してしまったことになる。
俺自身、被害者でしかないんだけど、この子のことを思うと心が痛む…。
神様か何か誰がこんなことをやったのか知らないけど、もしもあんたがこういう理不尽極まりないことを企図し実行したんなら、その真意はおいといて、あんたってどえらいクズでしかないよ。
そういう力は持ってても使っちゃいけないもんでしょ。
ねぁ、聞いてる?
聞いてるんなら、反省しろ。
そしてもし元に戻せるんなら、とっとと戻せ。
益々日が高くなり陽差しが強くなり始めた。
歩け歩け
進め進め進むんだ
いろんな思いが交雑するけど、いまはこの男の子のために、この身体を安全なところへ連れていくことが俺の役割なんだろう。
いつこの子と再び入れ替わっても、そん時この子が無事でいられるように。
俺が30年間過ごしてきた日本なら、季節は初夏といった感じだろうか。勢いよく伸び始めた植物の新芽が日差しを浴びてツヤツヤと輝いている。緑の濃い香りが鼻を刺激する。
様々な昆虫の精一杯の鳴き声が、なぜか胸をほのかに熱くする。きっと日和そうな俺には声援にでも聞こえてるんだろう。
でも仮にこの気温で今が春だったりすると、この星の夏って相当ヤバいな。気温50度とかありえるのか…。いやそれどころか今が真冬だという可能性だってありうる…。気温30度で冬…、夏になったら…、いやその前に春を越せないだろうな…。こんなことになって初めて知ったけど、何もわからない世界によくわからない自分がいて、この星での経験も知識も何もないとこにポツンと置かれ、さぁ生きていけって…、無茶ぶりにもほどがあるだろ。前途多難というよりお先真っ暗って感じ。少しでも気を許すと頭が真っ白になるような底知れない恐怖が問答無用で襲いかかってくる。だから、今はただひたすら川沿いを下ることだけに専念し余計なことは考えない。考えたら瞬く間に恐怖心にやられてしまう。思考できる冷静さを保ちながら思考に落ち込まない。矛盾してるようで矛盾してない。こうしないと動けなくなってしまう。今は動くことが大事。いい子だから今はおっさんの感性にこの身を委ねてね。
小川を視界に入れながら、比較的歩きやすいルートを進み丘を下っていく。
昨夜寝不足だったにも関わらず、この幼子の足取りはとても軽快だ。
裸足なので、草むらに隠れた蛇やムカデのような虫に嚙まれないか不安だったが、なぜかやつらがいる場所が分かるような気がする。そんなやつらのいる気がする場所を避けることで、ここまで順調に移動できている。
しかし軽快に歩きながらも、だんだんとこの子の身体に違和感を抱き始める。
地球で生きていた時の時間感覚だと、昨日からすでに8時間以上は歩き続けているだろう。
しかも日差しのきついうだるような暑さのなかをだ。
歩いた距離にすれば20km~30kmといったところか。
体感で30度前後の気温の中、延々と歩き続けているのだが、この子の身体からは全く疲れというものを感じない。疲れがないため思考もクリアだ。
足にマメができたり潰れたり皮がむけたりという外傷もない。
この小さな足は見た目に反して、ありがたいことに相当丈夫だ。
前世の自分より遥かに優れた身体能力だ。
若い身体だからだろうか?
俺も若かったころはこんな感じだったんだろうか?
いやいや違う。遠足で2時間もあるけばヘトヘトになっていた記憶がある。
疲労という感覚の欠如した世界なんだろうか?それとも活性酸素を生まない身体なんだろうか?すると老化しないってことか?免疫は大丈夫か?老化せず病気もせず成長もしない幼児体ってことか?テロメアが伸び続ける生命体ってことか?
…全くわからないけど興味深い。
さらに前世では持ちえなかった視力と嗅覚と聴力を有していることも体感した。
そよぐ風の音、小川のせせらぎに混じり、人影に驚き動き出す魚の発するかすかな水音まで聞き逃さない。
意識し聞き耳をたてると更に聴力は上がるようだ。
道中杖代わりに拾った木の枝を槍代わりとばかりに魚へ向かって、
トオーっと一投。
一撃必中で、狙い通り魚の頭を貫く。
恐ろしいほどの動体視力と反射神経、投擲技術…。
見た目は人間と同じようだが、身体能力は地球人と雲泥の差。
これがここで生きる人間の一般的な身体能力なのだろうか?
人族だが科目は地球人と違う分類なんだろう。
適者生存の法則が正しいなら、幼児クラスでもこの身体能力が必要なほどに、この世界は人にとって厳しい生存環境なのかもしれない。やば。
火を起こす時間を節約するため捕えた魚の内臓を、割った石の尖ったところを使って切り出し、小川の水で良く洗い生のまま頭から食べる。骨もボリボリ食べる。
予想通り生臭いだけで美味しくない。醤油が恋しい。
なぜか硬い骨を食べても大丈夫な気がする。うん、予想通り内臓も頑丈だ。でも口に残る生臭さは避けられない。
うがいうがい。かなり口を濯いだが生臭さは消せない。ついでに手も魚臭い。
そのうち消えるさ。
それから少し進むと小川を駆け上がってきた風が一定リズムで木を叩くような高い音を運んできた。
ついにきた。
こちらに来て初めて聞く人工音だ。
ビンゴ!
人の気配に気持ちが自然と沸き立つが、慌ててはいけない。ここは注意が必要だ。
はい深呼吸、すーはーすーはー。
相手が良い人かどうかわからないし、言葉もわからない可能性もある。
仮に騒動にでもなった場合、いくら身体能力が前世の俺より遥かに高い幼児でも、こっちの大人相手に勝てるかどうかわからない。
普通は負ける。
なので迂闊に接近するのは危険だ。
念のため少し遠目に一端隠れてしばし観察してみよう。
警戒しながら30分ほど歩くと人工音の発生源が目視できた。
小さな水車小屋だ。
きっと脱穀か何かで使っているのだろう。
とすると、初遭遇は農家さんかな?
少し安心する。
だって前世の記憶から、農家さんってほぼほぼ悪人いなでしょ。
一段低くなっている小川の淵沿いへ歩くルートを変更し、物音を立てないよう気を付けながらさらに下る。
たまに川渕から顔を覗かせ辺りを確認する。
蕎麦だろうか?
緩傾斜一面に白い花を咲かせた植物が栽培されている広い畑がある。
その畑の日当たりの良いところにお墓のような石碑がある。
いた!
人だ!!
その石碑の横の広葉樹が創り出す木陰に二人の大人がのんびりと昼食をとっているのが見えた。
うん、たしかに見た目は人族だ。
ホッとし頭を下げ川渕に腰をずり落とす。
よかったな!
よく頑張ったな!!
この身体をなんとか人のいるところまで連れてこれた…。
俺のこの幼児体を眺めてるいと込み上げてるものがある。
でも本番はこれから。
気を抜くな!
もう一度川渕から顔だけ出し、木陰で食事中の人たちをしばし確認する。
よくある異世界転生ものの小説に出てくるのような魔物とか未知の生物じゃなく、ここから200mほど先の木陰で食事をしているのはこの子と同じ人形態だ。
さてと、これからどうするかな?
いろいろ情報収集を兼ねて接触する必要があるけど、言葉が通じなかった場合、身振り手振りでちゃんとコミュニケーションできるのだろうか?
地球人に身体を乗っ取られたこの子のことをどう説明しようか…。いわゆる記憶喪失状態なわけだけど…。
記憶喪失なのは事実なんだから、まぁ、ある程度正直に話してみよう。隠す意味もなさそうだし隠し通せるとも思えないから。
ただ想定外にヤバい事態になったら、この高い身体能力を生かして全力で逃げよう。
そう腹を決め震える足に力を入れる。
小川から身を乗り出し、普通そうに歩いて食事中の二人の方へ歩みを進める。
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