第54話 運命
馬車に乗り込んだ恩玲は、俯いて膝の上で拳を握っていた。「待って! 行かないで!!」と、聞こえてきた声は遠ざかり、聞こえなくなる。
向かいに黙って座っていた瑞俊が、「これを」と懐から取り出したものを差し出してきた。その手に持っているのは、小さな蒼龍石のついた房飾りだった。蒼龍石は清明湖周辺で採れる珍しい石だ。湖の色に似た深い青色をしている。
「あの子が、あなたに会ったら渡してほしいと……」
「梨花さんが……?」
清明湖の廟にお参りに行くと話していた彼女のことを思い出し、恩玲は手を伸ばす。
「……翡翠の腕輪のお礼だからと言っていました。なぜ、あの翡翠の腕輪を渡したのです? あれがどのようなものか、あなたは分かっているでしょう。あの翡翠に彫られている鳳凰は……」
「私が持っていたところで、意味はない。それだけだ……あの人は、何の関わりもない。何も知らない……」
「そうでしょうね。知っていたら、恐れ多くて簡単に受け取ることなどできなかったでしょう」
瑞俊は「あれは、あなたの母君……姫皇后の形見の腕輪だ」と、呟くように言う。
恩玲は蒼龍石の飾りを、手の中で握り締めた。
「私に、誰かと将来を誓うことが許されるとでも? 人知れず、死にゆくことしか許されぬ身であるのに……」
あの山は禁山だ。それは、この自分を生涯幽閉し続けるための山だったからだ。
牢獄――いや、墓と言ってもいい。そんな場所だった。
宇音は幼い頃、山に迷い込んできた。捨てられて、行く宛もないと言う。一人で生きていけるようになるまではと、あの山で面倒を見ていたら、それを恩に感じたのか、世話を熱心にしてくれるようになった。共にいてくれる相手がいるだけで、恩玲にとっても救いだった。
そんな時、彼女が山にやってきた。
禁山だと知っても、彼女は嬉しそうに足繁く通ってきては、宇音と一緒になって世話を焼いてくれる。話し相手になってくれて、掃除をして、時には手作りの点心を持ってきてくれる。
何者でもなく、ただの一人の人間として、彼女は笑いかけてくれた。
たくさんの話を聞かせてくれた。こんな自分でも、明日を生きたいと望むことを許されるのかもしれないと、そんな微かな希望を抱くことができた。
自分が咎人であることを忘れたわけではない。
誰かと幸せになることを、許されてはいないことも。
この先ずっと――なんて望まない。ただ、今だけ、ほんの少しだけの間、共にすごせたらと、淡い夢を見た。
それだけだったんだ――。
両手で握り締めた飾りを額に押し当てる。
『恩玲さん――』
目を輝かせながら、楽しそうに話をする彼女の顔が瞼の裏に浮かんできた。
感情も考えていることも、すぐに表情に表れる。そんな彼女の顔を見ているだけで、楽しかったんだと、言葉に出しては伝えられなかった。
寄せてくれた好意にも、答えることができない。
それが、どれほど心苦しくて、気づかないふりをしていることも辛かったんだと。
『必ず会いに行くから!』
そんな彼女の声が耳に残っている。
会いになど、来ないでほしい。きっと、自分はその時には――もういない。
忘れてほしい。何もかも、心に一片の傷も残さぬように。全てを忘れ、誰かいい人と、彼女を大切に思う誰かと、幸せになってほしい。
さようならと、微かに動かした唇を強く噛みしめた。
生きることに未練などなかったのに。こんなにも、悔いが残ってしまった。
この手で幸せにできなかった、そんな悔いだけが――。
「殿下……」
「そう呼ばれる資格は私にないよ」
「私は陛下の命であなたを迎えに来たのです。陛下の病状が思わしくない以上、殿下に皇位を継いでいただかなくてはならない」
恩玲は微かに目を見開いて、瑞俊の顔を見る。
瑞俊は立ち上がると、床に膝をついて深く拝礼する。
「どうか、お戻りください。皇太子殿下」
なんて皮肉だと、恩玲は自嘲を浮かべる。
手の中の蒼龍石には、龍の彫り物がされていた。
どれだけ、運命に翻弄されればいいのだろう。
望むものは、一つも手に入らないのに――。
手放したいものばかり、この背に重くのし掛かってくる。
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