第51話 禁忌
部屋で物静かに本を読んでいた恩玲は、急に開いた扉の音で顔を上げる。いつもは必ず声をかけてから入ってくる宇音が、顔色を変えて飛び込んできた。
「若君!」
「……宇音、どうしたんだ?」
「それが、あの……山を下りる途中、麓の杜家が見えたのですが……」
「梨花さんの屋敷?」
眉根を寄せる恩玲に、宇音は「それが、煙が上がっていて……」と、言いよどむ。
恩玲は本を置いてすぐに立ち上がり、部屋を飛び出した。
「若君!」
宇音が呼びながら、後を追って部屋を出てくる。
山道を途中まで下り、大岩の上に乗ると、麓が見えた。宇音の言う通り、川を隔てた先にある杜家の屋敷から煙が上がっている。竈の煙ではないのは明らかだった。はっきりと屋敷の屋根が火に包まれているのが見える。
恩玲は「梨花さん……」と、彼女の名前を呟いて、すぐに大岩を下りた。
「若君、俺が様子を見に……」
「いや、私も行く」
そう言うと、宇音が目を見開いて、「で、ですが」と戸惑う声を漏らした。
「お前はここにいてくれ」
恩玲はそう言い残して、山道を駆け下りていく。宇音は「何をおっしゃっているんです!」と、後を追いかけてきた。
「若君はこの山から出ることは許されて……っ!!」
言い終わらないうちに、宇音は口を噤む。わかっていると、恩玲は険しい表情になる。山道を下り、川にかかる赤い橋のそばまでくると、躊躇するように足が止まる。
杜家の屋敷全体が赤い炎に包まれていた。
その黒い煙が、夕空に広がっていく。
恩玲は自分の服をつかむと、足を踏み出した。後を追ってきた宇音が、「若君!」と焦ったように呼ぶ声が聞こえる。
屋敷の前では騒ぎになっていて、人が集まっていた。
「離せ、離してくれ! 姉さんが……っ!!」
「ダメだ、もう火が回っている!!」
屋敷に飛び込もうとする少年を、瑞俊が押さえていた。
護衛の楽雲が取り押さえているのは、見知らぬ若者だ。随分と身なりのいい恰好をしたその若者は、「あの生意気な女に分からせてやっただけだ!」と悪態吐いている。楽雲がその背中を蹴り飛ばし、「黙れ」と睨み付けていた。
あの少年が、梨花の弟だろうか。
小芳を抱えた侍女らしき女性が「お嬢様!」と、叫びながら号泣していた。
「瑞俊!」
恩玲は人を押しのけて彼らのそばに駆け寄る。
「恩玲……!!」
瑞俊が驚きの表情を浮かべて、梨花の弟から手を離した。梨花の弟は、怪訝そうな顔をしてこちらを見る。
「梨花さんは?」
恩玲が尋ねると、瑞俊は屋敷の方を見て首を振る。
「私が戻った時には、すでに火が回っていた。彼女は中だ。屋敷の周りをうろついていたこいつらは捕らえたが……」
瑞俊はそう言うと、冷ややかな目を若者に向ける。
放火ということなのだろう。「訴えられるものか! 俺の親父は知県だぞ!!」と、地面に這いつくばったまま喚いていた。
瑞俊の使用人や近所の人たちが桶を手に水をかけているものの、火の周りが早く手の施しようがない状態のようだった。
「わかった……私が、助けに行く」
「何をバカな! あなたは、自分の立場が……」
瑞俊の腕を振り払い、恩玲は桶を手にしている女性の元まで走る。その桶の水を頭からかぶると、火の粉が舞う門の中へと入っていった。
濡れた袖で口もとを押さえ、火の粉を払いながら庭を見回す。
回廊の柱も炎に包まれていた。梁が焼けこげて今にも崩れ落ちそうだ。
「梨花さん……っ!! 梨花さんっ!!」
大声で呼びながら回廊を走る。その時、悲鳴が聞こえた。
回廊の屋根が崩れ落ちて、灰や火の粉が舞っているのが見える。梨花はそのそばに倒れて、衣にも火が移りそうになっていた。
落下した梁の一部を飛び超して、恩玲は彼女に駆け寄る。
「梨花さんっ!」
呼びかけて抱き起こすと、彼女が薄らと目を開いた。
彼女はホッとしたように笑みを浮かべると、恩玲の袖をつかむ。
「あなたが、好きです――」
梨花の唇が動いて、囁くような小さな声が漏れる。
恩玲は息を呑んで、数秒彼女の表情を見つめていた。意識は朦朧しているのか、すぐに梨花は目を伏せて腕の中で気を失ってしまう。
その手から、カランと翡翠の腕輪が滑り落ちた。恩玲はそれを拾い上げて、眉間にギュッと皺を寄せる。
「こんなもののために……」
呟いて、翡翠の腕輪を強く握り締める。
彼女の命を代償にしてまで、守るほどの価値などこの腕輪にはありはしない。
そこまで大切にしてほしいと思ったわけでもなかった。
ただ――彼女にあげられるものが、他になくて。
だけど、この腕輪は不運しか招かない。
恩玲は彼女の衣についた火の粉を払い、その体を抱えて立ち上がった。
絶対に死なせるものか――。
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