第40話 一夜明けて

 山の木々の枝が、風に煽られて暴れていた。

 何度も泥に足をとられ、転びそうになりながら山道を上がっていく。服も髪も池に飛び込んだように水浸しだった。私は「もう少しだから」と、何度も繰り返す。

 そのうちに、恩玲さんの家の灯りが見えてきた。


 私は門を通り抜け、「恩玲さん、梨花です!」と戸を強く叩く。

 すぐに戸が開いて、寝間着の上に羽織り物を着た恩玲さんが出てきてくれた。

「梨花さん……!」

 ずぶ濡れで立っている私に、恩玲さんは驚いて目を見開く。こんな時間にごめんなさいと言うつもりだったのに、言葉が詰まってしまって、私は涙が止まらなくなってしまった。


 恩玲さんは私が抱えている小芳を見ると、すぐに「中へ!」と部屋に通してくれる。

「ごめんなさい……っ、お医者さんのところに行ったんだけど、診てもらえなくて……それで……っ!」

 私はグスグス泣きながら、事情を話そうとした。

 恩玲さんは私のかわりに小芳を抱きかかえると、隣の寝所に急ぎ足で向かう。

 自分の寝台に小芳を横たえると、「宇音を呼んでくる」とすぐに部屋を出て行った。その間、私は途方にくれながら小芳の汗と雨で濡れている顔や体を、袖で拭う。



 恩玲さに呼ばれた宇音先生は、私と小芳がこんな夜分にやってきたことに驚いていたけれど、すぐに事情を察して寝台のそばに行き、小芳の手首を取って脈を調べていた。それから、額に手をやって熱を確かめる。


「宇音先生…………小芳、大丈夫よね?」

「大丈夫かどうかなんて、わかるもんか……っ!」

 宇音先生は怒ったように言うと、薬を調合するために厨房に向かう。私も手伝うために後についていこうとしたけど、「それより、濡れた服なんとかしろ!」と叱られて戸口で足が止まった。


 恩玲さんが「宇音の服なら少し大きいけど、着られるだろう」と、部屋を寝間着を借りてきてくれた。私は小芳の濡れている服を、着替えさせる。


「梨花さん、君も顔色が悪い。少し休んだほうがいい」

 ふらつきそうになった私の手を取って、恩玲さんが寝台の端に座らせてくれた。渡されたお茶を飲むと、すっかり冷え切っていた体がゆっくり温まってくる。気づかなかったけれど、私の手も氷みたいに冷たくなっていて震えていた。


「本当に……ごめんなさい……急に来て……お休みするところだったでしょう?」

「いや、眠れなくて本を読んでいたから……村の医者は?」

 恩玲さんはそばに座って、冷えた私の手をギュッと握り締める。その手の温もりにホッとして、寄りかかってしまいたくなった。

 私は小さく首を横に振る。


「いつも私を診てくれた先生のところに行ったんだけど、診てもらえなくて……薬ももらえなかったの……それで、宇音先生が街で薬を買っていたのを思い出して……迷惑になるのはわかっていたんだけど、ほかに頼れる人がいなかったの。こんな夜中だったし……」

「そうか……けど、来てくれてよかった……宇音に任せておけば大丈夫だよ……あの子は、本当に……頼りになるんだ」


 宇音先生が薬湯を運んでくると、恩玲さんが小芳を抱き起こして飲ませてくれた。熱がようやく下がり始めて、小芳も落ち着いたように眠ったのはもう明け方が誓った。外を吹き荒れていた雨や風の音も気づけば止んでいる。


 もう大丈夫だと安堵したせいか、急に眠けが押し寄せてきて瞼が重くなった。目を開けていられなくてうとうとしていると、肩にそっと腕が回される。


 私が目を覚ましたのは翌日のお昼間近だった。

 小芳の横に寝かされていた私は、ハッとして起き上がる。部屋を見回すと、窓から明かりが差していた。


 寝台に寝かしてくれたのは――恩玲さん?

 私は驚いて、椅子に座ったまま寝ている彼を見る。

 そうだ、小芳の熱――。


 私は小芳の額に手を当ててみる。熱はすっかり引いていて、小芳の寝息も穏やかなものになっていた。私は胸をなで下ろす。

「…………梨花さん?」

 目を覚ました恩玲さんが、私のほうを見る。

「あっ、おはようございます。恩玲さん……ごめんなさい、寝台をすっかり借りてしまって」


 私はあたふたして、寝台を下りた。

「いや……熱はどう?」

 立ち上がった恩玲さんはやってくると、小芳の額にテをやる。

「下がったみたい。宇音先生の薬がよく効いたんだわ」

 恩玲さんは私の顔をジッと見てから、不意に額に手を伸ばしてきた。ピタッと熱を測るように手を当てられて、私はびっくりして瞬きする。


「うん……梨花さんも大丈夫そうだ」

 恩玲さんはニコッと笑って言った。ええ、そうだけど――今のでグンッと熱が上がってしまったと思うわ。

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