第38話 弟にまで
その日、恵順はいつもよりも帰りが遅かった。その上、戻ってくるなり、自分の部屋にすぐに入ってしまったみたい。夕餉の時間になって呼びに行っても、「いらない」と部屋の中から答えたきり、出てこない。
私は心配になり、夜食を持って恵順の部屋に向かった。
「恵順、お夜食持ってきたわよ。何も食べてないでしょう?」
戸を叩いて外から声をかけてみたけど、返事がない。
「恵順? 入るわよ」
戸を開こうとすると、「いいっ! いらない」と恵順の声がする。いつもより強い口調だった。私は驚いて、少し迷ってから戸を開く。
中に入るとガタッと椅子の音がした。
「姉さん、いらないって……っ!」
「恵順……っ!」
私は驚いて、夜食のお粥が載ったお盆を机に置き、恵順のそばに行く。気まずそうに顔を背けた恵順の頬には擦り傷と殴られた跡がついていた。パッと押さえた腕にも痣の跡が見える。
「ひどい……なんでこんな……仕事で何かあったの?」
私が頬に手を伸ばそうとすると、恵順はそれを避けるように後ろに下がった。私と目を合わせたくないように横を向いて、強く唇を噛んでいる。その唇の端も切れていて赤黒い血が固まっていた。
「何でもない……転けただけだよ……」
「そんなわけないでしょう! やっぱり誰かに……もしかして、周文雄の取り巻きなの? あの人たち、あなたのところにも行ったのね!?」
周文雄たちは私のことを杜家の娘だと知ってる。だから、恵順のこともすぐにわかったのだろう。
「ごめんなさい……私のせいね……後先考えず、ケンカを売ったからだわ」
私は落ち込んで俯いた。
「恵順、しばらく家にいたほうがいいわ……私もしばらくお饅頭を売りに行くのはやめるつもりだし……」
そう言うと、恵順がようやく私のほうを見る。
「……心配しなくても、行かないよ……仕事も辞めさせられたから……」
「あの、日雇いの仕事も……?」
それも、周文雄が雇わないように言ったからだ。
なんて、卑怯な人なのと私は心から腹が立ってきた。弟は関係ないのに、巻き込んで手を出すなんて!
私は力一杯自分の手を握り締める。
「本当に……ごめんなさい……すぐに手当しなきゃ」
「いいよ……たいしたことない」
「駄目よ。せめて冷やす物だけでも……」
私が身を翻して部屋を出て行こうとすると、恵順が「姉さん」と呼び止める。
「姉さんは……何もされなかった?」
「私は……」
仙睡楼で働いていたことは、実のところ恵順には話していない。だから、クビになったことも知らない。
「ええ、大丈夫よ。お饅頭は駄目になってしまったけど……それだけよ」
ニコッと笑ってみせると、恵順は「それならいいけど……」と少しほっとしたような表情を見せる。
「心配してくれてありがとう。あなた、やっぱり優しいわね」
本当にいい子だわ。だから余計に周文雄やその取り巻きの汚いやり方が許せなかった。
「姉さんが、無鉄砲だから……家にいてくれるならそのほうがいい」
「ええ。明々と春に向けて野菜を作るつもりよ。畑を耕さなきゃ。あなたは、勉強に集中できるじゃない」
こんな時だから、私が前向きでいなきゃ。恵順は「そうだね」と微かに笑う。
「お夜食、ちゃんと食べなさいよ」
私はそう言い残して、部屋を出る。パタンと戸を閉めると、しばらくその場で俯いていた。
泣きそうだったから――。
こんなことで、負けるわけにはいかないわよ。
あんなやつ。今度街で会ったら、グーで殴ってやるわ。恵順に手を出したんだから、絶対許すものですか。
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