第35話 連れ込まれた部屋――。

 倒れそうになって目を瞑った時、後ろから誰かの腕にかばわれた。驚いて振り返ると、私の肩に腕を回しているのはあの時の、気前のいい美男子だった。そのすぐ後ろに、無表情な黒服の男も控えている。この男の人は、楽雲と言っていたかしらね。気前のいい美男子の方は私はまだ名前を知らない。


「お、お前はあの時の~~~っ!!」

 周文雄は顔を歪め、美男子を指差す。大通りのど真ん中で恥をかかされたことを思い出したみたいだった。

「楽雲、この喧しい豚饅頭のことを知っているか? 私はさっぱり思い出せないんだけどね。どこかで会ったかな?」

 美男子は眉間に皺を寄せて後ろの楽雲さんに尋ねた。

 しかめた顔もどこか品があるのは、美男子だからだ。


「はい、若君が先日、舌を切り損ねた豚饅頭でございます」

「ああ、思い出したよ……せっかくいい気分で飲んでいたのに。私の目と耳が穢れてしまった。この罪をどうこの豚饅頭に償わせるべきだろうね?」

「万死に値するので、首を切り落とすべきかと」

「なるほど、楽雲、その通りだ。そうすれば二度と、この豚饅頭の耳障りな声を聞かなくてもすむ。だが、困ったな。この場で首を切り落とすと、私の衣が汚れてしまう」

 心底困っているように、美男子は片手を顎に運ぶ。

 その間も、もう片方の腕は私の肩を抱いたままだった。

 ど、どういう人なのかよくわからないけど、今は動かない方が安全だ。私は緊張して冷や汗をたらたら流していた。

 周文雄はギョッとした顔で後ろに下がる。


「お、お前は……な、なんだって、まだこの街にいるんだ! 偉そうにしやがって……どこの誰だ!?」

 周文雄の大声で、女性たちが部屋から顔を出す。みんな、この周文雄が連れてきた女性たちみたいだった。けれど、周文雄よりも、私の後ろにいる美男子のほうにすっかり目を奪われて、色めき立っている。

 それも、まあ――当然よね。


「店の外に連れ出し、始末しておきます」

 楽雲さんは大きな剣をすぐに引き抜くと、周文雄の襟をつかんだ。

 引っ張られた周文雄はさきほどの威勢はどこへやら、「ひいいいっ、やめろっ! お父様に言いつけるぞ!! 俺に手を出せばどうなるか……た、助けてくれ!」と泣きそうになりながら懇願し始めた。


 けれど、楽雲さんは容赦なく引きずっていこうとする。

 襟がしまり、「ぐうっ!」と苦しそうな声が漏れていた。

「あ、あの……ほ、本当に始末しちゃうの?」

 私はいささか気の毒になって恐る恐る美男子に尋ねてみる。それはちょっと、問題になるんじゃないかしらね。


 美男子はにこやかに私を見る。

「困るのかい?」

「いえ……私は困りはしないけれど……あの人も人の子なのだから、悲しむ人はいると思うのよ。一人か二人くらいは……」

「そうか、なるほど。それも道理だな。楽雲、二度と私やこの人の前に現れる気にならない程度に痛めつけて、川に放り込んでおけ。始末しなくてもいいぞ」

 美男子が言うと、振り向いた楽雲さんが「承知いたしました」と無愛想に返事をする。


 その間も文雄は泣き叫びながら「やめてくれ!」と、必死に手足をばたつかせていた。けれど、その声が聞こえないように、楽雲さんはズルズルと引きずって、階段を下りていく。


 まあ、それくらいは――自業自得ね。

 今の時季の川の水はきっと冷たいと思うけれど。

「あの……ところでなんですけど……そろそろ離してもらえます?」

 私は肩にかかっている彼の腕を見て、控えめに言った。確かにこの人は美男子だけれど、私には恩玲さんという心を誓った人がすでにいるんだから。


「ああ、これは失礼」

 美男子は私からパッと腕を離してくれる。「ああ、もう……後できっと怒られるわね」と、私は床に散らばっている徳利の破片とこぼれているお酒を見てため息を吐く。

 

 しゃがんでお盆に破片を集めていると、不意に美男子が私の横にしゃがんで、破片に伸ばした手をパッとつかんだ。

 驚いてその顔を見ると、彼は笑みを消し打って変わったように真剣な表情になっていた。

 その視線が向けられているのは私の手首だ。


「な、なんですか?」

 私は慌てて手を引っ込めて尋ねる。手首にはめていた腕輪を袖の中に急いで隠した。

「その腕輪……君のものか?」

 尋ねる声が今までより低くて、私はたじろぐ。


「そ、そうよ。もらいものだけど……」

「もらいもの?」

 美男子に手を引っ張られて、私は一緒に立ち上がる。その間も、彼は鋭い目で私をジッと見つめていた。


 な、なに? 私みたいな貧乏人がいかにも高そうな腕輪をつけていたから、盗んだとでも思われているのかな。そうだとしたら、心外だ。これは恩玲さんがくれたものなんだから。


「誰からもらったものだ?」

「だ、誰からでもいいじゃない。あなたに言う必要はないでしょう?」 

 私は「仕事の邪魔をしないで」と、破片を集めたお盆を手に立ち去ろうとした。美男子は私の腕をつかむと、強く引っ張っていく。


「えっ、ちょっと……!」

 階段を上がっていくから、私は躓きそうになりながらも後についでいくしかない。

 連れ込まれたのは、三階の一番上等な部屋だった。 

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