第25話 小さな誓い――

 春節を迎える前日、私は恩玲さんの部屋の掃除を手伝った後、一緒に窓や戸に赤い切り絵や提灯の飾りをつけていた。

 この世界に来てから、私が初めて迎える春節だから、私も楽しみで仕方なかった。縁起のいい魚や福の文字の飾りが、部屋を明るくしてくれる。


「梨花さんが来てくれたおかげで、この部屋も随分綺麗になったな」

 恩玲さんは数日前まで本に埋もれていた部屋の中を見回す。棚に入りきらなかった本は、隅に積まれている。

「恩玲さんは、毎年宇音先生と一緒に過ごしてたの?」

 私は飾り付けをしながら尋ねてみた。

 家族や親戚とは一緒に過ごしたりしないのだろうか。恩玲さんにも実家はあるはずだ。山の管理をしていても、お正月休みくらいありそうなのに。

 それとも、他に代わりの人がいないから、ずっとここにいないといけないのかな?


 そんなことが、色々と気になってしまうけれど、聞いていいのかどうか、少し分からなくて迷う。恩玲さんには色々、事情がありそうだから――。


「いや……いつもは……もっと、静かに過ごしてるよ」

 恩玲さんはそう言うと、「こうして、飾りをつけるのも始めてかもしれないな」と楽しそうに呟いた。

「いつもは春節のお祝いしたりしなかったの?」

「そうだね……宇音はご馳走を用意してくれたけど、飾りは……その……面倒くさくて」

 恩玲さんはそう言って首を竦める。正直なのねと、私はつい笑ってしまった。それにつられたように、恩玲さんも笑い出す。


「でも、今年は……梨花さんが飾りを持ってきてくれたから……」

 この部屋に飾る赤い切り紙の飾りを持ってきたのは私だ。あの気前のいい美男子のくれた金のおかげで、立派なお肉も買えたし、このところお客さんが買ってくれて、少しだけお金も入ったから。


 先日街に行った時に、ちょっと贅沢をするつもりで、春節の飾りを多めに買った。恩玲さんや宇音先生にも、お正月の気分を一緒に楽しんでほしくて――。


 手を伸ばして窓の上につけようとしたけど、なかなか届かない。背伸びをしていると、すぐ後ろに立った恩玲さんが私の手から飾りを取る。そして、かわりに上のほうに貼ってくれた。


 振り返ると、恩玲さんの襟元がすぐ目の前にあって、私はドキドキしてあわてて前を向く。やっぱりたくさん買ってよかった。

 私は心の中で、密かにガッツポーズをする。

 恩玲さんは私が緊張しているのがわかったのか、「ああ、ごめん」とあわてて後ろに下がっていた。それから、部屋の飾りに視線を移す。


「……やっぱり、飾りがあるといいものだな」

 私と目が会うと、恩玲さんは少し照れたように微笑んだ。

「去年の春節は?」

「本を読んでたよ……雪が降ってたから」

「その前は?」

「その前も多分……同じ、かな?」

 恩玲さんは隣の窓にも、飾りをつけながら答える。


「いつも、本を読んでたの?」

「他にすることもないから……」

「だから、この部屋にはこんなに本がたくさんあるのね」

 私は笑って言ってから、ふと先日の恩玲さんの言葉を思い出した。


『――誰の役にも立たないから』


 胸の奥がズキッとして、顔が曇る。ここにある本は、恩玲さんの寂しさの表れのような気がして――。


「……梨花さんは?」

 気づくと、恩玲さんが私の顔を見つめている。

 私はハッとして「私は……」と、口を開いた。


 毎年、大晦日は家族とテレビを観て、おそばを食べて、元日は友達と待ち合わせして初詣に出かけた。好きだった先輩に今年こそは告白できますようにってお願いをして、絵馬も書いた。

 こんなふうに、知らない世界でこの人と出会うことになるなんて少しも想像していなかった。


 ぼんやり考えていた私は、ごまかすように笑みを作る。

「わ、私は病気で……ずっと、寝てたから……」

「そういえば……すみません、余計なことをきいてしまって」 

「ああっ、気にしないで。私はもうすっかりいいんだから! この通り元気一杯だし……きっと、お祈りがきいたんだわ」

 慌てて答えてから、私は「そうだ」と思い出す。


「恩玲さんは、清明湖って行ったことある?」

「清明湖……いや……でも、聞いたことはあるよ」

「そこに龍を祀る廟があるんですって。明々が話してたの」

「その廟に行ったことが?」


「ううん、行ったことはないの。でも……その龍神様にお祈りすると願いが叶うというから、遠くからお祈りしてて……」

 本当の梨花さんがどんなふうに過ごしていたのか、何を思っていたのかも私にはわからない。けれど、明々に話を聞いた時、なんだかそんな気がした。


「元気になったら、行ってみたいって……ずっと、思ってたの」

 私の話を、恩玲さんは穏やかな表情のまま聞いてくれる。

「いつか……恩玲さんと一緒に行けたらなって……」

 そんな願いが、ふと自然と口からこぼれていた。

 言った後で、私は急に赤くなって視線をギュッと握っている自分の手に向ける。


「あ、ただ、そうできたら、いいなって思っただけなの! 宇音先生も一緒に……」

「うん……」

「そう遠くないみたいだし……暖かくなったら、梅が咲くって明々が話していたから……きっと、綺麗だと思うの!」

「そうだね……」

 恩玲さんは笑顔のまま頷いてくれる。けれど、私にもわかっている。それが簡単なことじゃないくらい。恩玲さんはこの山から簡単に出られないから――。


「いつか、でいいの……」

 私の声が次第に萎んでいく。恩玲さんが、私の手をスッと取った。熱を持つ指先を包むように握ると、「いつか……一緒にいけるといいと、私も思う」と優しく見つめながら言ってくれる。


「……本当に? 信じていい?」

 私がきくと、恩玲さんは少し迷うように黙ってから、私を真っ直ぐ見る。

「約束する。必ず……君を連れて行く」

 その言葉に、私は涙ぐみそうになる。それを堪えて、「絶対ね」と笑みを作った。

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