第20話 誰の役にも――。

 お昼ご飯に三人で食べた割包は、ほっぺたが落ちそうになるくらいにおいしかった。これを、屋台で売れたらきっと大繁盛になるのに。そう思ってしつこく作り方を聞いてみたけど、宇音先生は教えてくれなかった。


 まったく、ドケチね――。

 私はお昼ご飯を食べたかわりに、こうして恩玲さんの部屋の片付けを手伝うことにした。恩玲さんの部屋は相変わらず積まれた本のせいで足の踏み場もないくらい。


 窓を開けて、本をパタパタと払っていると、舞い散った埃で軽く咳き込んでしまった。

「すみません、片づけの手伝いまでさせてしまって……」

 奥の寝室から、本の山を抱えた恩玲さんが出てきて申し訳なさそうな顔をする。

「いいの。私は掃除が大好きなんだから!」

 私はあわてて首を横に振って答えた。本当は掃除なんてそれほど好きではないし、片付けも得意じゃない。あちらの世界では、毎日のようにお母さんに怒られていたくらいだ。けれど、恩玲さんと二人きりになれるんだから苦手な掃除も張り切るというものだ。


「この本は、どこに片付ければいい?」

 私が尋ねると、恩玲さんがそばにやってきて、ひょいと本を覗く。

「ああ、これは……向こうの部屋だから、持って行くよ」

「だ、大丈夫。私、本を運ぶのが大好きなんだから! これくらい、軽いし……っ!」

 私は慌てて腕に本を抱えて言い張った。そんな私の顔を不思議そうに見ていた恩玲さんは、「じゃあ、お願いするよ」と微笑んだ。

 棚に入りきらない本は、端に積み上げておく。

 足の踏み場くらいは作れたところで、私は「フーッ」と額を手で拭った。


「これじゃあ、もっと大きな本棚がいるわね」

「もう、ほとんど読んでしまった本だから……処分してもいいんだけど」

 恩玲さんが本を置いて、困った顔をする。

「処分するなんてもったいない! なかなか買えない本もあるのでしょう?」

 うちの恵順が知ったら、きっと泣くわ。

「それなら、梨花さんがもらってくれる? 邪魔にならなければだけど……」

「もちろんっ! ああっ、でもちょっとずつじゃないと、怪しまれるかも……」

 恩玲さんは「怪しまれる?」と、首を傾げる。

「ここに出入りしていることは、その……弟には内緒にしているの」

 私が首を竦めて言うと、恩玲さんは「ああ、そうか」と呟いた。


 掃除が一段落したところで、恩玲さんがお茶をいれてくれた。

 お菓子は、宇音先生が作ってくれたゴマ団子だ。

「私、これ大好き!」

 私はお茶をのみながら、ゴマ団子を頬張る。中のゴマを練り込んだ餡もおいしい。

「やっぱり、宇音先生は料理の天才ね!」

「うん、私もそう思う」

 恩玲さんも嬉しそうに頷いた。


「恩玲さんは……受験……科挙っていうのを、受けたりはしないの?」

 私はふと、そう尋ねてみた。弟の恵順は、いつか挑戦したいと思っているみたいだ。それに、あの周家のどら息子もそのうち受けるつもりみたい。科挙に合格して官吏になれば、将来は安泰だ。


 恩玲さんはこんなにたくさん勉強しているんだから、受験すればきっと受かるはずだ。そうすれば、こんな山の中に閉じこもっている必要もない。

 それとも、もう受けたのかな? 


「そうできればいいと思ったこともあるけれど……資格がなくて」

「…………どうして? こんなに勉強しているのに?」

 つい、そう尋ねると恩玲さんが私の顔を見る。真っ直ぐな澄んだ瞳に、少しだけ陰が落ちた。


「意味のないことなんだ」

「え……?」

「私は、何の役にも……誰の役にも立てないから……」

 湯飲みのお茶に視線を移すと、恩玲さんは苦笑するように答えた。

 なんで、そんなふうに――何もかも諦めたように言うのだろう。


「だ、誰の役にも立てないなんて、そんなことない!」

 私は胸が痛くなって、気づくと立ち上がっていた。そんな私を、恩玲さんはびっくりしたように見上げる。私は自分の胸を、パンッと強く叩いた。

「恩玲さんは、私の役に立っているわ! それに、宇音先生の役にも立っているわよ!」

 それに、ピータンズだって。恩玲さんがお世話をしていなければ、きっと今頃、誰かに捕まって北京ダックになっているかもしれない。

 つい強い口調で言ってから、私はハッとして赤くなりながらストンと椅子に腰を戻した。


「ごめんなさい……っ! 私ったらつい……!」

 俯いて小声で言うと、恩玲さんがフッと笑った。

「いや……そうか……私は梨花さんと役に立てているのか……」

 楽しそうに笑って言うから、私は「そうです!」と大きく頷いた。


 だって、私がこの世界にいる理由は、きっと恩玲さんだもの。

 この人と出会うために、私は――私の魂は、この世界にやってきたんだから。


 恩玲さんが私をジッと優しい目で見つめてくるから、私は顔から湯気が立ちそうになって慌てて下を向く。

「ありがとう」

 そう言われて、少しだけ視線を上げた。

「その言葉だけで、救われた気がするよ」

 真っ直ぐ見つめてくる彼を、私も息を止めて見つめ返す。心臓の音しか聞こえてこない。

 なぜか、私は胸が苦しくて、切なくて、泣きそうになった――。

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