第13話 勉強熱心な弟に

 その日の夕食の後、私は本の包みを抱えて恵順の部屋に向かう。灯りが灯るその部屋の戸を叩くと、恵順が中から出てきた。

「姉さん……どうしたの?」

「あなたに、渡したいものがあって」

 中に入ると、恵順の部屋はすっきり片付いている。散らかっているものは一つもない。


(思玲さんの部屋とは大違いね……)

 クスッと笑っていると、恵順がパタンと戸を閉めた。

 勉強中だったのか、書き物机に書きかけの紙と筆が置かれていた。一冊置かれている古い本は、何度も読んだからか綴じ紐が解けかけていて、かなり傷んていた。部屋の中を見回しても、その一冊しか本はない。


「それで……僕に渡したいものって?」

 恵順の声で、私はあわてて振り返る。そして、「これよ」と抱えていた包みを机の端に置く。

「これ……なに?」

「開けてみればわかるわよ」

 私は両手を自分の後ろに回し、にっこりして答える。

 恵順は怪訝そうな顔をしながらも、包みの結び目を開く。それが本だと分かると、大きく目を見開いて私を見る。


「姉さん……これ……どうしたの?」

 ひどく驚いている声だった。

「実は、いい貸本屋さんを見つけたから、借りてきたのよ」

 私は少し視線を逸らしながら答える。また、禁山に入ったなんて知ったら、恵順は頭を抱えそう。だから、そのことは黙っておくことにした。

「貸本屋……どこの?」

「えーと……あちこち回って移動している貸本屋さんよ」

「そんなの、聞いたことがないんだけど……」

 ジーッと見つめてくる恵順の目に疑いの色が浮かんでいる。私は「なんだっていいじゃない!」と、笑顔でごまかそうとした。


「まさか……姉さん、母さんの形見の簪を売ったんじゃ……」

「えっ! 違うわよ!!」

 お母さんの形見の簪ことも、今始めて知ったくらいだ。今度、部屋を探してみよう。ピンチの時には役に立つかもしれない。

「姉さん……すごく怪しい」

「貸本屋よ……でも、また返さなきゃいけないから、大切に読んでね。破ったら弁償しなきゃいけないんだから!」

「それは……当然だよ。でも……本当に、これ……」

 恵順は本を手に取ると、大事そうにその表紙の文字を手でなぞる。


「正国史に、礼訓経、政書四編……まである」

「私にはよくわからないんだけど……それって、あなたが読みたがった本?」

「当たり前だよ! 全部……必要な本だ」

「それなら、よかったじゃない?」

「…………本当に、大丈夫なんだろうね?」

「ええ、本当に大丈夫! ああっ、そうだ。その本を読み終えたら、次の本を借りてくれるから……あるかどうかわからないけど、読みたい本があるなら、書いておいてちょうだい」


「他にも!?」

「貸本屋さんだもの。他にも色々本は持っているわよ。それはもう……部屋がいっぱいになるくらい」

「それなら、僕が自分で……」

「ああ、それはダメ!」

 私は慌てて首を横に振る。恵順は「なんで?」と、眉間に皺を寄せた。


「あなたはまだ子どもでしょう? 大人じゃないと、信用して貸してくれないの!」

「もう、十三だけど……」

「それでも、まだ子どもよ」

 私は肩を竦めて答える。恵順は「まあ、それなら……仕方ないけど」と不承不承納得してくれたみたいだった。


「分かった……書いておく。けど、本当に大丈夫なんだろうね?」

「もちろんよ! その本、読み終えたら教えてね」

 私はそう言って、部屋を出て行こうとした。

「姉さん、ありがとう……」

 恵順は気恥ずかしかったのか、目線を逸らしたまま小さな声で言う。

「早く、寝なさいね。いつまでも本を読んでいてはダメよ」

 戸口で足を止め、そう言ってから部屋を出た。


(思玲さんはあの子が必要な本を、ちゃんとわかっていたんだ……)

 中庭で夜空を見上げてから、私は自分の部屋に戻る。

 今度会いに行く時には、お礼をしよう。




「やっぱり、豆腐……よね」

 私は部屋の机に向かい、筆を手に独り言をもらす。考えているのは、もちろん肉まんの具について。どうにかお肉を節約する方法を考えている最中だ。何度か明々と試作を繰り返してみたけれど、相変わらず大豆のボソボソとした食感のせいでおいしくならない。


(このままでは、無駄にお肉を消費してしまうだけだわ……っ!)

 私は「うーん」と、腕を組んで唸る。

(そもそも、こちらの世界には、お豆腐があるのな?)

 明々も作り方を知らないようだった。でも、似たようなものはあるはずだ。そこからまず調べてみなけばならない。


(といっても、調べる方法がわからないよね……レシピ本なんて簡単に手に入るわけないしんだし!)

 私は「なんて、不便な世の中なの!」と、髪をかきむしる。携帯でちょっと調べればわかるあちらの世界が懐かしくなる。

 私は「もうダメ……」と、挫折しそうに机に突っ伏した。


(やっぱり、肉まんを諦めてあんまんを売るべきじゃない?)

 妥協しそうになって、私は頭を起こす。そして、「弱気になっちゃダメだよ!」と頭を振った。


(肉まんったら、肉まんなのよ! あんまんもそりゃ悪くはないわよ? 思玲さんも美味しいと言ってくれたし……けど、私は肉まんを売りたいの!)


 なぜなら、私が肉まんの方が好きだからよ! 

 学校帰りに食べたホカホカの肉まんの味を思い出し、私は「はぁ~」とため息を吐く。特に寒い日に友達と食べる肉まんの幸せなことと言ったら。あの味と幸せを、こちらの世界の人たちにも味わってもらいたい。


(そうよ、私はきっとこちらの世界に肉まんを広めるためにやってきたのよ!)

 拳を握って決意を新たにしてから、私は「って、違うわよ!」とその拳を机に下ろした。私は、先輩にそっくりな思玲さんと運命の出会いを果たし、結ばれるためにこの世界にきたんだから! 


「肉まんは生活のためよっ!」

 肉まんを売って、弟を塾に行かせてあげて、明々にも給料を払って、お爺ちゃんにも綿入りの温かい羽織りと靴を買ってあげるんだから。


「姉さん、ちょっといい?」

 戸の外から声がして、私はパッと振り返る。恵順の声だ。筆を硯に戻して立ち上がった。

「ええ、いいわよ。どうしたの?」

 戸を開くと、恵順が本を抱えて立っている。


「この本、もう読んだから。返しに来た」

「えっ、もう全部読んでしまったの!?」

 私は驚いて聞き返した。まだ十日と経っていない。

「返さなきゃならないんだろう?」

「ええ、でも……そんなに急ぐこともなかったのに。もう少しゆっくり読んでもよかったのよ」


「書き写したから……次の本も、早く読みたかったし。これ……もし、あったらでいいんだ」

 恵順は本と一緒に、読みたい本の題名が書かれた紙を私に渡す。小難しい本の題名がずらりと並んでいた。こんなに読むつもり? 


 私は題名を見ただけで、頭が痛くなってくる。とはいえ、弟がこんなに勤勉だなんて知らなかった。よっぽど勉強がしたかったのね。それなのに、苦労ばかりさせてしまった――。


「そうなの……わかった。返しに行ってくるわ」

「……僕も、一緒に行こうか?」

 恵順が私の顔をジッと見てくるから、私は「いいのよ!」と首を横に振った。

「あなたは忙しいだろうし……私は家にいてばかりで暇なんですもの。いつでも返しに行けるわ。それに、ちゃんとあなたの読みたい本だって借りてくるし。ああでも、あるかどうかわからないわよ?」


「うん……あるものだけでいいんだ」

「じゃあ、聞いてみるわね」

 私はニコッと笑ってから、「お茶でも飲んでいく?」と誘ってみる。けれど、恵順は「部屋で勉強するから」と断って自分の部屋に帰っていった。

 その後ろ姿を見送っていると、部屋に小さな白い粒が舞い込む。暗い空から、チラチラと落ちてくるのは雪だ。


「通りで寒いと思った……」

 私は呟いて、戸をパタンと閉じた。大雪になる前に、また明日、山に行ってみよう。

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