第12話 うさぎのお饅頭
私はカゴを腕に下げ、山の斜面を登っていく。途中までくると息が上がってきた。枝の上で鳴いていたカラスが、パタパタと飛び去るのを見届け、フーッと息を吐く。
この山が立ち入り禁止だってことは、もちろん知っている。でも、誰かに見つからなければ平気だ。それに、恋する女の子は勇敢で、怖いもの知らずなんだから。脅されたって、諦めるものですか。
それに、悪事を働くつもりはない。あの人にもう一度会って、あの日のお礼を伝えたいだけ。少しだけでも話ができたらそれだけで十分だから、あの人にも、私の家族にも迷惑がかからないようにすぐに帰るつもりだ。
そう思い、こうして山を登っているけれど、実のところ私はあの人がこの山のどこにいるのか知らない。それほど高い山ではないけれど、雑木林の中を歩き回っていたらまた、迷子になりそうだった。
枝の間をすり抜けた雪が、ゆっくりと落ちてくる。
先日、あの人にあった場所はこの辺りだったはずだけど――。
小川のせせらぎが、聞こえてくる。私はもう少し先に行ってみようと再び、ゴツゴツとした岩が突き出している斜面を、枝や蔦を払いながら進んで行く。
(もっと、体力つけなきゃ……っ)
私は岩に手をかけて、よいしょっとよじ登った。一息吐いてから立ち上がると、その先に垣根が見えた。
周りには、畑が耕してあり、鶏とアヒルが歩き回っていた。あそこが、あの人の家だろうか。外に、家らしいものなんて見当たらない。
粗末な門のそばまで行き、ドキドキしながら中を覗いて見ると、わら屋根の小さな主屋が見えた。その奥には納屋のような小屋も建っている。
畑にいたアヒルが私のそばにやってきて、グワグワと鳴き声を上げた。私は裳を払って、髪を手ぐしで整える。今朝は、いつもより念入りに梳かしてきたし、お化粧だってしてきた。服の破れ目も直してきたし、靴も洗って汚れを落とした。少しは良家のお嬢様に見えるはずだ。
私は胸に手をやって、二三度、深呼吸する。襟から小さな手鏡を取り出して、口紅を確認してから「よしっ!」と、小声で漏らす。
「君は……思いがけない時にやってくるだね」
急に後ろから声をかけられたものだから、私は飛び上がるほどびっくりして「ひゃあぁ!」と、声が跳ねた。
振り返ると、あの人が水を汲んだバケツを提げて立っていた。
「思玲さんっ!」
慌てて後ろに下がろうとしたけれど、足がもつれてよろめく。彼が「危ない」と、咄嗟に私の手首をつかんだ。
水に濡れていた思玲さんの手は、ひんやりとしていて冷たかった。それなのに、私の手はヤカンでも触ってしまったみたいにまっ赤になり、熱くなる。
私はそれが恥ずかしくて、慌てて彼から手を離した。
そんな私を見て、思玲さんは少しだけ困ったように微笑んでいた。
「どうしてまた……ここに? また、迷子になった……というわけではなさそうだけど」
「あっ、えっと、その……っ!! こ、この前のお礼をしようと思って…………こ、これ……ど、どうぞっ!」
私は提げていたカゴを、彼の手に押しつける。
思玲さんは戸惑うようにそのカゴを受け取ると、上にかけてあった布を取る。中には白いうさぎの形をした饅頭が並んでいる。
本当はお肉たっぷりの美味しい肉まんを届けたかったけれど、お肉も乏しいし、試作品の肉まんは今のところ失敗続きだから、恥ずかしくて持ってこれなかった。かわりに、明々が甘く炊いてくれた小豆の餡を包んだあんまんにした。うさぎの作り方を教えてくれたのは明々だ。耳を作り、食紅でちょんっと赤い目も描いた。
「これ、僕に……?」
「甘いものがお嫌いでなければ……っ!」
私はまっ赤になっていいながら、チラッと彼の顔色をうかがう。カゴに並んでいるうさぎのお饅頭を見つめていた彼は、「かわいいな」と微笑んだ。
その優しい言い方と笑顔に、私の心臓がキューンッとなる。
思わずうずくまると、彼は慌てたように「どうしたの? 大丈夫?」と、身をかがめて私の顔を覗き込んできた。
「胸が……苦しい……っ」
「……え?」
「ううん、何でもないの……っ!!」
私はプルプルと首を横に振った。ホッとした顔をして、思玲さんは立ち上がると、「お茶をいれるよ」と門をくぐって主屋に向かう。私は急いで立ち上がると、足もとでうろついているアヒルを見る。
「これは……つまり、お家に入ってもいいってことだと思う?」
小声できくと、「グワグワ」とアヒルたちが返事をした。
『もちろんさ、お嬢さん。あいつは君に気があるってことだよ!』
と、幻聴が聞こえたような気がした。私は密かにガッツポーズを作ってから、急いで彼の後についていく。
すぐに帰るつもりだったけれど――招待されたんだから、受けないわけにはいかない。それに、きっと彼はこの山の管理をしている人だから、その人がいいというのだから、遠慮することはない。
「えっと……あまり片付いていないんだ」
彼は家の前で振り返り、少しだけ恥ずかしそうに言う。
「そんなの全然、かまわないわ! 気にしないもの」
私は大きく首を横に振り、強く言った。なんなら、私が片付けを手伝ってもいいくらい。
「それなら、いいんだけど……どうぞ」
思玲さんが戸を開いてくれたので、私は緊張しながら中に入る。
これは――本当に、片付いていないのね!
私はびっくりして、部屋の中を見回した。机と椅子の周りを避けるように、足の踏み場もないほど積み上げられてるのは本の山だった。棚の中にも本が押し込まれている。奥の部屋は――寝室のようだった。けれど見えるのはやっぱり、本の山だ。
(す、すごく本が好きな人か、勉強家なんだわ)
椅子の上にも積んであった本を移動させると、彼は「こんなところで、本当に申し訳ないんだけど」と椅子を勧めてくれる。
「お、おかまいなくっ!」
私はそう答えて、椅子に腰を下ろす。お茶の手伝いをしようかとも思ったけれど、茶器や茶葉がどこにあるのかも私にはわからない。大人しく、座ってまっていることにした。
思玲さんは私が渡したうさぎの饅頭のカゴを机に残し、部屋を出て行った。厨房に向かったみたい。
待っている間、私はそわそわして立ち上がり、「ちょっとだけ……」と隣の部屋を覗いてみる。
(だって、気になるじゃない! 知りたいじゃない!)
恋する乙女の好奇心は留まることを知らないのだ。と、私はそーっと入り口から奥を覗いてみた。
本の奥に見えるのは衝立だ。その奥に寝台があるみたい。並んでいる棚もほとんどが本置き場になっている。あまりジロジロ見てはいけないとさすがに良心が咎めて、私はすぐに引き返した。
部屋の中を歩きながら、積んである本を手に取る。難しげな題名が書かれている本。これは杜梨花の記憶があるからなのか、話すことも、読み書きも私は普通にできるみたいだ。これは、国の歴史が書かれている本みたい。その下にあるのは、政治の本。
「恵順を連れてきたら、喜びそうだわ……」
こちらの世界では、本は決して安いものではない。だから、裕福な家の子でなければ本を読むこともできない。本がなければ勉強もできず、出世の道も開かれない。
部屋の戸が開いたので、私は本を閉じてパッと振り返る。思玲が片手に乗せているのは、茶器の載ったお盆だ。
「恵順って言うのは?」
私の呟きを聞いていたのか、彼は机にお盆を置きながらきく。
「ああっ、私の弟なの。十三歳で……塾に行かせてあげたいのだけれど、うちは……そのちょっと、節約しなくちゃいけないから……なかなかできなくて……」
私は苦笑して、椅子に戻る。それから、お茶をいれてくれている思玲さんの顔を見た。
「思玲さんも、試験を受けたりするの?」
科挙という公務員採用試験があって、それに合格すると高官への道が開けると、明々が話がしてくれた。本当は、恵順もその試験を受けたいのだろう。けれど、その試験に合格するためには、相当勉強しなければならない。
「試験? ああ……いや……僕はただ、暇潰しで……ここでは、他にすることもないから」
小さな受け皿に乗った湯飲みを、彼は「どうぞ」と私の前に置く。
「ありがとう……いただきます!」
湯飲みを持とうとした私は、「熱っ!」と思わず手を離した。蓋を開いてみると、茶葉と花びらが浮かんでいた。ふわっと、甘い香りがする。
(何のお茶だろう……)
うちで使っているお茶っ葉よりずっと上等なのはわかる。
「桂花茶だよ」
そう、思玲はニコッと笑って教えてくれた。
「桂花茶……おいしいっ!」
「よかった」
思玲は椅子に腰を下ろし、私が作ったうさぎのお饅頭に手を伸ばす。
一つとると、うさぎの顔をしげしげと眺めていた。
「あまりかわいいから、食べるのがかわいそうになる」
そう言って、思玲さんが微笑む。かわいいのは、あなたのほうよと私は思わず言いそうになった。だって、まるで真っ白でフワフワしているうさぎみたいな雰囲気の人。一緒にいるだけで温かくて、優しい気持ちになれる。
彼は一口食べてみると、「おいしいな」と呟いた。
「本当に……本当に、そう思う?」
私はジッと見つめて尋ねた。そわそわして、私はうさぎのお饅頭を手に取ったままだ。
「うん、おいしい」
「甘すぎない?」
私があまりにも真剣な顔をしてきくので、彼は戸惑うように頷いた。
「ちょうどいいと思うけど?」
「そう! やっぱり、肉まんは諦めて、あんまんを売るべきかも……」
私は腕を組んで独り言を漏らす。彼が「え?」と、目を丸くした。
「ううん、なんでもないの! おいしかったのなら、よかった! 明々の教え方が上手なのね」
「君は家族がたくさんいるんだね」
「お爺ちゃんと、明々と、弟の恵順の四人よ。思玲さんは……その……一人で住んでいるの?」
「色々と世話をしてくれる人はいるよ……今は、遠くまで買い物に出ているから、留守にしているけれど……頼りになる子だよ」
「家族……は?」
私はちょっと躊躇いながら、思い切ってきいてみる。
一瞬口を噤んだ思玲さんは、「遠くに……」とだけ答える。その声が少しかたく聞こえた。あまり話したくないことなのかも。
会いたくても、会えないとか?
私もそうだ。あちらの世界に、実の両親がいる。その両親とは、もう――会えないのかもしれない。そう思うと、急に寂しさがこみ上げてきて、私はうさぎのお饅頭を口に押し込んだ。
「ごめんなさい。余計なこと聞いちゃった……」
「……ここにある本……読みたいものがあるかどうかわからないけれど、よかったら持っていっていいよ」
思玲は本の山に視線を移して言う。私は「えっ!」と、驚いて彼の顔を見た。
「で、でも……っ、大切な本……でしょう?」
「読んでしまったものばかりだよ。それに少し片付けたいと思っていたところだし……見ての通り、ここにはもう置く場所もない」
困っているんだと、彼は小さく肩を竦める。
「ほ、本気にしてしまうわよ?」
もし、ここにある本を何冊かでも借りられたら、きっと恵順は喜ぶはずだ。思玲さんの申し出はありがたいし、私としても願ったりかなったりだけど、それに甘えてしまってもいいのだろうか。
(図々しいと思われない?)
「君の弟は、どういう本が読みたいんだろう?」
立ち上がった思玲は、山積みになっている本を見回してきいてくる。
「私にはよくわからないけど……試験に一発合格できるような本だと思う!」
そう答えると思玲さんは私を振り返り、フッと笑った。
「一発合格できるかどうかは、わからないけど……」
彼は本の山を避け、棚に押し込んであった本を数冊取り出し、埃を手で払う。
「基礎から学ぶなら、この辺りは読んでおく必要があると思う」
彼は戻ってくると、私の前に本を重ねておく。私は「うっ!」と、小さく声を詰まらせた。
「こんなに……勉強しなくちゃいけないのね……」
勉強が苦手な私は、まるでテスト前に参考書をどっさり渡されたような気分になる。といっても、私が勉強するわけじゃないけれど。
「ありがとう。読み終わったら、返しにくるわ!」
私がそう言うと、思玲さんは一瞬黙ってから、視線を下げる。
「返しにくる必要はないよ。私にはもう、必要のない本だから……それに……」
彼は言いよどんでから、私に視線を戻し、ぎこちなく微笑んだ。
「ここには、もう来ない方がいいから」
「ど…………どうして?」
私は不安になって、胸の前で手を握りながらきく。
「ここは……危ないから。熊も出るし……君を怪我をするかもしれない」
「やだ……会いに来る……っ!」
私が俯いて言い張ると、思玲さんはひどく困ったような顔になっていた。聞き分けのない子どものようだと思っているのかもしれない。
「君は知らないからもしれないけど……ここは……」
「立ち入り禁止の山なのは知ってるわ! それなら、思玲さんの方が私に会いに来てくれる?」
「ごめん……それは、できない……」
そう声を詰まらせるように言い、彼は視線を逸らす。
「僕はこの山から、勝手に出られないんだ」
「どうして? お役目だから? 少しだけでもダメなの? 私の家はこの山のすぐ近くなのよ。人に見つかることもないわ」
どうして、ダメなのかわからない。何がいけないの。それとも、思玲さんはこの山にずっと閉じこもって一生過ごすつもりなの?
そんな馬鹿なことって、あるものですか。どこに行くのも、自由のはずだ。囚われの身というわけでもないのに。
思玲さんは答えてず、立ち上がった。
「麓まで送っていくよ」
そう言って微笑むから、私はそれ以上聞けなかった。
この前と同じく山の麓まで下りると、思玲さんは足を止めた。山をぐるりと囲むように小川が流れ、石の橋がかかっている。その石の橋の手前で、私は本の包みを抱えたまま振り返った。
「この本は、絶対に返しにくるわ!」
思玲さんは開きかけた口を、諦めたように閉じると小さくため息を吐く。
「君は頑固な人だ」
「ええ、そうよ。ダメと言っても聞かないから」
彼はまた困った顔で私を見つめたまま、手を伸ばしてくる。少しビクッとして、私は緊張して目を閉じた。恐る恐る目を開くと、彼は私の髪についていた枯れ葉を取り、それを私に見せると小さく笑う。
「気をつけて」
「家はすぐそこなのよ。心配はいらないわ」
橋を渡れば家の裏手の道が続く。その先に家を囲む塀と屋根が見える。私は橋を渡ると、クルッと足の向きを変える。橋を隔てて彼と向き合うと、「また、来るから!」と勝手な約束を取り付け、返事を待たずに家までの道を駆け出した。
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