第2話 アンダディシニ

「オス…アリ…?」


言葉の意味が分からず、エラバルは混乱する。オスアリとは何だろうか。やはり自分とは違う、蟻以外の昆虫なのだろうか。


「雄蟻を知らないんですか?」


 アンダディシニと名乗ったオスアリは驚きを隠せない様子だった。表情には微かな絶望が感じられる。


「知りません…あなた、蟻なんですか?」


 エラバルは慎重に言葉を発する。相手は依然、得体が知れない。しかし何か、奇妙な懐かしさをエラバルは抱いていた。やや乱れた亜麻色の短髪と、くっきりとした目鼻立ちに覚えがあったのだ。翅の生えた蟻など今まで会ったことなどないはずだが...


「私は…」


 アンダディシニはそう呟いたと思うと、ふっと虚ろな顔になり、窓の桟から転げ落ちた。あまりに突然だったのでエラバルは再び驚く。気を失ったのだと気づくのにしばらくかかった。


   *


 床に転がしておくのも何だと思ったので、エラバルはアンダディシニを寝台に運ぶことにした。

 首と膝裏に手を掛け、自分の足腰にぐっと力を入れた次の瞬間、あまりの軽さに拍子抜けして少しよろめいた。身長はエラバルよりも少し高いくらいに見えるのに、本当に内蔵が入っているのかと疑いたくなる軽さだ。

 アンダディシニを寝台に乗せ、その体をよく見ると、色々と不審な点があると分かる。服が所々擦り切れているし、肌にもいくつか擦傷があった。本人が言う通り、何者かから逃げてきたせいかもしれない。

 肌は青白く、顔つきもどことなく弱々しい。まるでさっきまで入院していた病蟻びょうにんだ。もしかしたら、どこかの病院から脱走してきた患者だろうか。

 すぐに警邏を呼んでもよかったが、とりあえず怪我の手当てでもしようかと薬類が入った籠を引き寄せ、傷口の消毒をするためにボロボロのズボンを引き下ろす。当然下着が露わになるが、エラバルは下着の股間の部分を見て驚いた。明らかにそこだけが不自然に膨らんでいるのだ。

 もしかしたら酷く腫れているのかもしれない、と思い、流石に不躾かと思いつつ下着も脱がせる。

 股間のを見たエラバルは、下着に手をかけたまましばらく硬直した。これは何だろうか。傷も炎症も無いから怪我をしているわけではない。茸のようでもあるし、蛇のようでもある。もしかしたら巨大な蚯蚓みみず? いやいや蟻体じんたいに蛇だの蚯蚓だのが生えるわけがない。では茸だろうか。もしかしたら体から茸が生える病気で、根本に付いている袋が菌塊かもしれない...では、やはりこの蟻は病蟻びょうにんなのだろうか…

 考えても全く分からないので、エラバルは股間については考えるのを止め、傷の消毒を始めることにした。



 寝台を占領されているので、エラバルは仕方なく寝袋を使って休むことにする。手当ては終わったし、いい加減に通報した方がいいのでは、とも思ったが、このアンダディシニと名乗る蟻が何者なのか好奇心を抑えられないのも事実だった。時間が経っているせいか、怯えも麻痺してきている。もう少しだけ様子を見よう、と考えながら、エラバルはいつの間にか眠っていた。



 朝、目を覚ますと体中が鈍く痛むことに気づく。アンダディシニは、どうやら自分はまだ連れ戻されていないことと、知らない蟻の部屋で一晩を明かしたことを理解する。


「起きたんですか?」


 エラバルはアンダディシニに声をかけた。片手に幾つかのパンとジャムを乗せた皿、もう片方に牛乳が入った壺を持って寝床に近づく。


「怪我は大丈夫ですか? 消毒して、特に酷い傷には包帯を巻いたんですけど」

「…はい、大丈夫です」


 アンダディシニはそう呟く。上半身を起こして布団を払うと、下半身が妙に寒々しい。よく見なくても、アンダディシニは自分が下半身に一切の衣類を身につけていないと気づいた。


「わっ!?」

「ああ、ごめんなさい。寒いだろうとは思ったんですけど、元の服がボロボロな上に泥だらけでしたし、私の服は丁度洗濯中で」


 エラバルは顔を真っ赤にして布団をかけ直すアンダディシニを見て、そんなに慌てなくてもいいのに、と不思議に思いつつそう言った。



「改めて、私の名はアンダディシニ。名前が長いので、アンダで結構です」


 まずは助けてくれた礼を言わせてほしい、とアンダは丁寧に言う。昨日の夜も思ったが、「ここに居るアンダディシニ」とは珍しい名前だ。


「…ところでアンダさん、匿ってほしいと言ってましたけど…あなた、追われてるんですか?」


 アンダは一瞬びくりと体を震わせ、明らかに狼狽し始めた。


「すみません、昨日は無我夢中で、かなり迷惑なお願いをしてしまいました。それに突然窓から乗り込んだりして…驚かせて本当にすみません」


 すぐに出ていきます、とアンダは布団を払おうとするが、下半身に服を着ていないことを思い出した様で、ぴたりと動きを止める。


「あの、私のズボンを返していただけないでしょうか…」


 情けない顔でそう言ってくるアンダを見て、エラバルは思わず小さく吹き出した。アンダが何故逃げているのか分からないが、アンダは悪い蟻ではないと、何となくそう思ったのだ。

 自分でも理由は分からないが、アンダの話を聞きたい、アンダのことをもっと知りたいと、エラバルは感じていた。アンダを匿えば隠匿罪にあたる恐れがあるにも関わらず、不思議なことにエラバルはアンダを警邏隊に引き渡したいとは全く思えなかった。

 自分の感情が自分でも上手く把握できない。こんなことは初めてだった。アンダに対するこの感情は何だろうか?


「安心してください、通報する気はありませんから。怪我が治るまではここにいていいですよ」


 とりあえず食事をどうぞ、とエラバルは言った。アンダは警戒するように、パンを撫でるように軽く触った後、手に持って口に運んだ。嚙みちぎるのに少し難儀していた。


「私の名前はエラバルです」

「エラバル···」


 アンダが何か思い出した様な顔になった気がしたが、エラバルは気の所為だということにして話を始める。


「あなた、「オスアリ」って言ってましたけど…」


 オスアリとは何なのか、それをまず教えてほしいと頼むと、


「…逆に、何故知らないんですか? 貴女は雌蟻めすありでしょう?」

「メス…? 蟻は蟻でしょう?」


 お互いに疑問ばかりで話が進まず、お互いに混乱していた。言葉は通じるのに、根底となる常識が全く違うという感じだ。


   *


 アンダは少しずつ、自分の話を始めた。

 アンダはある「部屋」に住んでいた。その部屋は「星宮せいぐう」と呼ばれていて、定期的にアンダの世話に来る使用蟻と「ハハオヤ」以外の蟻には会ったことがなかったらしい。

 ハハオヤというのが誰なのかエラバルには分からなかったが、誰かの名前だろうと思った。

 ある時、ハハオヤがアンダの部屋に来て、真剣な顔で、このままではあなたは殺される、と言ったらしい。


「殺される!? どうして?」

「…詳しい理由は分かりませんが、私は不適格、だそうです。だから殺されるのだと」


 それでアンダはハハオヤにこっそり部屋から逃がしてもらい、しかし警邏に見つかって、必死に逃げてきたそうだ。屋根の上にいたのは翅を使ったからのようだが、あまり長い時間飛んだり、高く、速く飛んだりすることはできないらしい。アンダは辛そうに唇を噛んだ。体が微かに震えていて、エラバルに説明をしているうちに追われる恐怖が蘇ってきたようだ。


「やっぱり、すぐに出ていきます。エラバルさんまで危険が…」


 そこまで喋ると、急にアンダの瞼が垂れ下がり、半目になったかと思うと寝床にあおむけに倒れ込んだ。


「すみません…まだ、昨日の疲れが残っているみたい…で…」


 絞り出すようにそう言ったあと、アンダは気絶するように眠りについた。あまりに突然眠ってしまったので、まさか死んだのではないかとエラバルはアンダの口に手を当てたが、ちゃんと息はしていた。

 アンダは殺されるところを逃げてきた、と言っていた。犯罪を犯したというわけでもなさそうだったが、不適格とは何のことだろうか。このままアンダを匿っていて本当にいいのだろうか、と今更のように不安になる。

 しかしこんな目立つ風貌の蟻がうろついてたのなら、目撃されていない方がおかしいし、とっくに通報されてこの家も割り出されているのではないか、とエラバルは不思議に思う。窓から外を見ても、いつもより警邏隊の人数が多いということはない。アンダを負っていた連中はもう追う気がないということだろうか…

 そんなことを考えていると、遠くから七の鐘が聞こえた。出勤時刻だ、と、エラバルは慌てて支度を始める。昨日の今日で遅刻なんてしては、今度こそラリに愛想を尽かされそうだ。



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