蟻の国

冬眠

第1話 蟻の国

「私たちありの祖先は、地を這う小さな小さな昆虫でした」と隣の教室で教師が話すのが聞こえてきた。エラバルは資料室で本を読んでいる最中だった。


「胡麻粒ほどの大きさしかなく、知能など無いに等しく、只々本能のままに原始的な社会生活を営んでいたのです」


「そこへ、最高神サンガトバイクがその御力みちからによって蟻たちのもうを啓き、我々は進化の切っ掛けを得ました」


「体を貫く中枢神経が発達して「脊髄」となり、外骨格が徐々に軟化して「皮膚」ができると同時に、外骨格の代わりに体を支える「骨」が体内に生えました」


「やがて脚は六本の内二本が退化して四本になり、「手」と「足」に分かれます。移動を二本の「足」に任せてもう二本の「手」が空いた結果、細かい作業が可能になり、脳は活性化し、我々は知能を得ました。複眼は二つの「眼球」になって色覚と立体視が発達し、大顎は「唇」「歯」「舌」と複雑に分化しました」


「嗅覚を特化させた「鼻」という器官もできましが、額から生える触角は残り、五感の補助器官となっています。さらに、肥大した脳を衝撃から守るかのように頭部の産毛が伸びて「髪」となりました。これが今の私たちです」


 エラバルは読んでいた本を開いたまま、その話を聞いていた。昔エラバルも学校で習ったことだ。懐かしいな、と思う。

 その時、廊下から足音がしたと思うと、引き戸がやや乱暴に開けられる音がした。入り口はいくつもの本棚に隠れて見えないが、どしどしという足音がこちらに近づいてくるのがわかる。不味い、とエラバルが慌てるも、やがて本棚の向こうからタランが顔を覗かせた。


「エラ!また本読んでさぼってたな!」

「ご、ごめん」


 エラバルは謝るが、タランの剣幕は収まらない。肩の高さで揃えた緑髪を靡かせ、つかつかとエラバルに詰め寄る。


「部長が怒ってたよ、エラバルに資料を取りに行かせたのに、一向に戻ってこないって」


 またやってしまった、とエラバルは冷や汗が出る。昔から本を読み始めると周りが見えなくなり、気づけば鐘一つ分も時間が経っていた、ということがよくあった。今も資料を取りにきたついでに少しだけ、と手近な本を開いたらそのままのめり込んでしまったのだ。


「私、どれくらいここにいた?」

「部長は、半刻は過ぎてるって」


 本当にアンタ、昔から全然変わらないよね、とタランが呆れる。エラバルは真っ青になった。体感としてはまだ四半刻も経っていなかったというのに、とにかく早く戻らなければ。


   *


 エラバルたちが働く女王立学院は、学校や研究機関、図書館などが併設された国内有数の大規模施設である。国中から優秀な教師や研究者、事務員が集められ、日夜それぞれの業務を行っている。

 エラバルとタランは図書部の職員である。書物の管理や書類の保管、書誌の編纂などを行う部署だ。



「エラバル、私が先月言ったことを覚えていますか」


 部長のラリが仏頂面で言った。これはかなり怒っている時の顔だ。怯えるエラバルの隣で、タランが呆れたようにその様子を見ている。

 図書部の部室にて、エラバルはラリに説教を食らっている真っ最中だった。


「…作業中は作業に集中しろ、次これを破ったら何らかの罰則を考える、と」


 恐る恐るエラバルがそう言うと、ラリは深く溜め息をつく。


「あなたは事務仕事は優秀ですが、如何せん注意力が散漫すぎる。読書の際の集中力を普段から活かしてくれれば良いものを…」


 エラバルには耳の痛い話だった。幼い頃から幾度となく周囲に言われていることそのままで、自分の進歩の無さに嫌気が差す。

 とにかく、とラリは前置きする。


「言いつけを破ったのですから、あなたには罰則を与えます」


 エラバルは思わず首を竦め、触角で顔を隠す。どうか厳しい罰ではありませんように、と心の中で祈った。


「来週の国外調査に参加しなさい」


 ラリが言った。エラバルは思わず「え」と声が出て、呆然とした表情になる。


「うわ、もうそれの時期ですか」


 タランも顔を顰めた。この国は国土の全てが高い城壁によって囲まれており、許可のない者の出入国は厳しく禁じられている。しかしそれでは国外の情報が極端に乏しくなるため、毎年一回は学院と兵団による国外調査が実施される。

 内容は動植物の調査、他国の偵察などが多く、蟻数にんずうなどの規模はその時によって変わる。


「我々図書部の調査における役割は研究資料の管理、調査後の報告書の作成などです」


 それはエラバルも知っていた。ラリが言った仕事内容はただの建前で、実際は体のいい雑用係として毎回呼ばれていることも、だ。

 そのことはラリも当然分かっている。だからこそエラバルへの罰として成立すると考えたのだろう。


「あなたはまだ調査に行ったことがないし、良い経験になるでしょう」


 真面目なラリは多分、そういう意味でもエラバルに調査を担当させようとしているのだろうが、少し離れた席から華やいだ声が聞こえる。去年まで調査を担当していた先輩だ。調査への参加はやはり貧乏くじ扱いということだろう。


「改めて。業務命令です、エラバル。図書部代表として国外調査に同行しなさい。それがあなたへの罰です」


   *


「大変だとは思うけど、この際自分磨きと思って頑張ってきなよ」


 仕事帰りに立ち寄った公衆浴場で、タランはそう言った。


「そうは言っても、雑用働きで何を磨けっていうの?」

「…それもそうか」


 エラバルは体を濡れた手拭いで拭いながら不満げに答えた。自業自得とは言え随分と面倒な仕事を与えられてしまったものだ。しかも調査に同行するには事前に健康診断と研修会に参加しなくてはならず、週末は丸潰れだ。


「そうそう、もうすぐ誕生祭でしょ」

「そういえば…」


 タランの言う通り、もうすぐ女王の誕生祭があるのだ。その日は祝日で仕事は休みになり、街には屋台が立ち並び、国民は飲み食いを楽しむ。


「調査から帰ってきたら一緒に行こう? 疲れを労ってあげるからさ」

「うん、ありがとう」

「今年はレディーギラも行けるといいけどね」


 エラバルは少し元気が出てきた。タランの友情に改めて感謝をした。



夕方、エラバルは職員寮の自分の部屋に帰ってきた。荷物を椅子に掛け、戸棚から残り物のパンと兎肉の燻製を取り出して机に並べる。別の戸棚に蛇苺のジャムがあることを思い出し、それも持ってきて机に置いた。

 パンにジャムを塗りながら、エラバルはラリに命じられた件についてぼんやり考える。憂鬱なのは変わりないが、それはそれとして、


「外の世界が本に載ってる通りなのか、ちょっと気になるな」


 エラバルは小さく独り言つ。ちらりと部屋の壁際の本棚に目を遣り、『国外見聞録』の背表紙を見る。学生時代に、学院の書類校正のアルバイトの稼ぎで買った本だ。確か図書館の処分品だったろうか。

 「水青蛾みずあおが」が住む国、「蜜蜂」が住む国、この国を囲む「荒野こうや」という地帯や西方にあるという「森」、蟻食いの化け物ペマカンセムトなど、刺激的な事柄の数々が本には書かれていた。

 ペマカンセムトには断固遭遇したくないが、「兎」の実物は見てみたいな、とエラバルは目の前の燻製肉を見ながら思った。兵団にいる幼馴染のレディーギラが言うには、膝の上にちょこんと乗せられるくらいの大きさで、長い耳が特徴の動物だそうだ。エラバルは生き物の実物などほとんど見たことがない。



 簡単な夕食を終えると、エラバルは窓際に立ち、外を眺める。この部屋は二階にあるので、地上よりわずかに遠くが見えた。たくさんの建物の遠く向こうには朧気に城壁が見える。

 この国は巨大な城塞都市であり、城壁の内部に街があって北区、東区という様に方角で区分けされている。その中心に中央街があり、さらにその中心には女王が住む城がある。

 そういえば、と幼い頃を思い出す。エラバルはタランとレディーギラに連れられ、城壁に設置されている城門を見に行ったことがあった。

 当時の三人にとっては保育所から外出して中央街の大通りを往き、城門を見るだけでも大冒険だった。エラバルは部屋で静かに本を読んでいるのが好きな子供だったので、その日出かけたのもタランとレディーギラが半ば無理矢理連れていったようなものだったが、保育所の屋根よりも遥かに高い、聳え立つ門に圧倒されたことは今でも覚えている。


「あたし、大きくなったら兵団に入って、この門から外に冒険に行くの!」


 レディーギラは確かそう言っていた。思えば当時から活発な子供で、彼女の燃えるような真紅の髪もその性質を表すかのようだった。


「えー、わたしは外なんて出たくないよ。門の外には蟻を食べちゃうぺナ、ぺマカンセムトっていう怪物がいるんだよー」


 タランはそう言ったと思う。騒ぎ過ぎず、大人し過ぎない常識的な子供だった。今も昔も、人付き合いが苦手で場に馴染めないエラバルを助けてくれるのは彼女だ。

 エラバルが城門を見た時に思ったのは、なぜ門を堅く閉じ、誰も出たり入ったりできないようにしているのか、ということだった。調査団や狩猟部隊は通れるのに、それ以外に誰かが門を出入りしたのは見たことがない。保育所に帰り、保育官たちに聞いてみても「それが女王様のご意思だから」としか言われなかった。



 エラバルが昔に思いを馳せていると、ふと、目の前の建物の屋上に蟻影ひとかげが見えた。始めは大して気に留めなかったが、蟻影ひとかげに翅があるのが見えた時、あっと声を上げそうになった。

 翅の生えた蟻型ひとがたの生き物と言えば、『国外見聞録』で読んだ他国の昆虫が思い浮かぶ。ではあの影は密入国者ということだろうか。だとしたら早く警邏隊けいらたいに知らせなくては、とエラバルが額に汗を滲ませながら考えていると、その昆虫がこちらを見ていることに気づいた。つまり、目が合ってしまった。

 次の瞬間、その昆虫が翅を広げ、エラバルの部屋めがけて飛んできた。エラバルは声にならない叫びを上げ、手と触角で反射的に顔を隠す。その拍子に体は大きくのけ反り、エラバルはバランスを崩して床に倒れてしまった。

 顔を上げると、窓の桟に先程の昆虫が停まっていた。その昆虫の体が月明かりを遮り、エラバルはその影の中にいた。

 昆虫をよく見ると、それは蟻だった。少なくともエラバルにはそう見えた。翅が生えていること以外はエラバルと同じ様な姿をしていたのだ。


「あの」


 謎の翅蟻が口を開き、エラバルは思わず身を縮める。怯えで体が動かなかった。蟻に見えても実は違う生き物かもしれないし、密入国者ではなくとも危険蟻物じんぶつという可能性は高い。

 翅蟻はエラバルの怯えを感じ取ったのか、一瞬逡巡する様な表情になったが、意を決したように再び口を開いた。


「お願いです、どうか匿ってください」


 エラバルは言葉の意味を呑み込むまで少し時間がかかった。匿う? 誰が、誰を、誰から?


「私はアンダディシニ。雄蟻おすありです」





【脚注】


・昆虫 ··· この世界では昆虫が霊長として進化している。翅や触角などを除き、外見はこちらの世界の人間と全く同じである。

・触角 ··· 額に生える感覚器官。味覚と嗅覚を併せた様な機能を持ち、自由に動かせる。

・鐘一つ ··· 一時間

・半刻 ··· 三十分

・警邏隊 ··· 街の警備を務める、兵団の下部組織。

 


 

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