第85話 別れの言葉を、手向けの涙に

    *


 ざあざあ、ざあざあ、ざあざあ。

 まるで僕の言葉を遮るように降りしきる雨の音が部屋の中に響いてくる。


「そこからは知っている通り神様から力をもらって、海を渡り、今に至った」

「………………」


 そうして絵本を読み聞かせるように、僕の物語を彼女お母さんに語り聞かせた。

 物語を語るあいだ、彼女お母さんは僕の眼を見ながら、うんうんと頷いたり、時折悲しそうに眼を伏せたり、僕の言葉を一生懸命に飲み込みながら聞いてくれていた。

 

 そして話を終えると、ぽつりと一言、


「…………サミーは、苦しくて悲しい思いをしながら生きていたのね」

「…………うん。すごく辛かった」


 あの時お母さんが死んだのも、あの時ライングが死んだのも、今にも吐き出してしまいそうなぐらい辛かった。


「でも…………苦しくて悲しい時に、サミーは笑うのね」

「………………うん」


 そう、苦しくて悲しい時、僕は笑う。

 笑って、笑って、沢山笑って、心を慰めていた。まるで自分の手首をナイフで切り裂くように。


 僕が笑う理由。それは辛い現実に対するある種の逃避行動だった。


「僕は大切な人を失うのが怖かった。でもみんな死んでしまった。生まれ変わる前のお母さんも、今のお母さんも、…………ライングも」

「………………」

「そんな現実に悲しくて、苦しくて、今にも自分の心が壊れてしまいそうで。…………だから僕は笑顔でいることにしたんだ」


 そうすれば苦しまずに夜を眠れたから。

 そうすれば悲しい気持ちにならずに済んだから。

 そうすれば、失う怖さを思い出さずに過ごせたから。


「あと…………」


 僕が笑う理由はもう一つある。

 昔に誓った大切な人との約束。


「自分の心に嘘をつきたくなかった」

「それは…………」


『自分の心にだけは絶対に嘘をつかないでね。それってとても苦しくて、悲しいことだから』


 お母さんと交わした残した約束。

 僕の生き続ける理由にして、一度死んでも違えなかった約束。


「悲しくても、辛くても、自分の心に嘘はつかない。その約束を守るために頑張ってきた。…………だけどね、僕の人生はいつも悲しくて苦しいことばかりだった」


 お母さんが死んで、ライングに裏切られて、バラを傷付けて、そしてライングを殺した。

 その全てを僕のが受け止めてしまった時、僕は自分にこう言ってしまった。


 『お前が悪い』と。


 お母さんが死んだのはお前が未熟だったからだ。

 ライングに裏切られたのはお前が弱かったからだ。

 バラを傷付けたのはお前が自分の力を過信したからだ。

 ライングが死んだのはお前が彼を救えなかったからだ。


「そう、僕が…………僕が…………ッ!」


 お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い。


 お前が…………


「サミー、もういいの!」

「…………ッ! はぁ…………! はぁ…………!」


 思考の泥沼に陥る僕の手を彼女お母さんが強く握りしめ引き上げる。そして油汗が流れる僕の額に手を当ててくれた。


「自分を追い詰めないで。サミーは何も悪くないの」

「…………うん」


 乱れる息に、乱れる思考。

 聞こえるのは強い雨と、荒い呼吸の音だけ。


 転生し肉体が生まれ変わってもこの精神だけはずっと変わらなかった。悲観的で自分の心を傷付ける癖があって、寂しがりな精神だけは。


 そんな幼い精神な僕があの辛い現実を全て受け止めるのは不可能だった。


「だから僕は笑って誤魔化した。そうすれば少なくとも苦しみは忘れられたから」


 忘れたとこで毎日夢で見るんだけどね。と自嘲気味に笑う。


 彼女お母さんはゆっくりと青色の瞳で僕を見つめる。


「…………本当に辛かったのね」

「……………………うん」


 顔を伏せる僕に彼女お母さんはでも、と朗らかな笑みを浮かべながら言葉を続けた。

 

「思い出して、サミーの人生は辛いことだけだったの?」

「それは…………」


 その言葉が過去の記憶を思い起こさせる。

 

 別れの記憶、裏切りの記憶、人を殺した記憶。失った記憶。


 僕の人生は辛いことが多かった、だけど。


『依頼については後にしようか。まずはごはんを食べよう』

『だよな! さすがサミーはわかってるなぁ!』

『ライングは調子に乗らない。でもごはんを食べるのは賛成よ』

『…………そうだね』


 仲間と一緒に楽しくご飯を食べて。


『それじゃあサミー! 早速特訓しよう!』

『え? 今から?』

『おうよ! その盾の感触を試してみたいだろ!』


 お互いの技術を高め合って。


『あ、そうだ。あの物語を喋ったのはアンタが初めてだぜ、サミー』

『…………僕も初めてだよ』


 一人の綺麗な女性に恋をして。


『早く冒険者になりたいぜ!』

『冒険者……!』

『わたしもなりたい!』


 そして親友と共に夢を語り合った。


「あ…………」

「ね、人生は辛いことばかりじゃないでしょ?」


 彼女お母さんは満面の笑みを浮かべながら、その澄んだ青色の瞳で僕を見つめた。


「私たちはね、辛いことばかり覚えている生き物。だけどね、それ以上に楽しいことを沢山あるのよ」


 それは僕の人生を認めてくれた言葉だった。

 そう、辛いことばかりが人生じゃない。楽しいことも沢山あるんだ。

 だけど僕はそんな大切なことを忘れて、自分で勝手に落ち込んでいたんだ。


「そうだよね……楽しいことも人生だよね」

「うん…………、そう…………よ」

「ッ! お母さん!」


 ふと、彼女お母さんの様子がおかしくなり、頭を押さえながらベッドに倒れ込んだ。


 冷たい汗を滲ませながら彼女お母さんはゆっくりとその理由を話す。


「私の人格と記憶はね…………今夜を過ぎると全て無くなるの」

「…………え?」

「神様との…………約束、だからね。ちょっとだけ…………おまけしてもらっていたんだけどね」


 それは、彼女お母さんと神様が交わした約束。

 『活動できるのは三年の間』という誓約。


「今まで伝えられなかったけど…………今ならようやく伝えることができるわ…………ゴホッ」

「…………ッ、お母さん!!」

「心配いらないわ。私が消えても『シアーちゃん』はサミーと一緒だからね」

「そんな…………!」


 また、また大切な人を失ってしまうのか。

 成す術もなく再びこぼれ落ちてしまうのか。


 いやだ、そんなの嫌だ…………!


「サミー、聴いて………!」

「え?」


 ふと、彼女お母さんは僕の腕を掴んで顔を耳元まで近づけた。

 

 そして、ゆっくり、ゆっくりと僕に向けて言葉を紡ぎ始める。


「私は言ったわね…………『自分の心に嘘はつかないで正直にいてね』って」

「…………うん」

「だけどね。正直のままでいるとね、ゴホッ………………苦しいことや悲しいことを受け止めたとき…………心が『重く』なっちゃうの」

「━━━━」

「ゴホッ…………心を重くし続けるとね…………心が重さに耐えきれずに潰れちゃうの」

「あ…………」


 声が、段々と霞んでいく。

 あぁ、あぁ、離れていく。その気配が、その温もりが。

 

「だからね、ゴホッ…………苦しいことや悲しいことがあった時は心を軽くしないといけないの。重いままだと辛いでしょ?」

「…………でも、どうやってやればいいの?」

「そんなの簡単よ」


 ━━━━泣いていいのよ、サミー。


「いっぱい泣いて、一眠りすれば次の日は元気一杯だからね」

「お母さん…………」

「うん。ようやく…………伝えられたわ…………」


 そう言うとお母さんは僕の腕をすり抜けるようにしながらベッドへ倒れた。

 その顔は笑いながら大粒の涙を流している。


「もう…………時間みたい」

「お母さん! お母さん!」

「サミー…………貴方ともう一度お話ができて、本当に嬉しかったわ」

「待って! まだ逝かないで!」

「お母さんは…………サミーのことが大好きよ………………━━━━━━━━」


 さて、そうして彼女は笑いながらその眼を閉ると、電池が切れたおもちゃのように動かなくなった。

 一人取り残されたサミーはベッドに縋りながら彼女の顔を涙混じりに見つめている。


「お母さん…………! お母さん…………!」

 

 嗚咽の漏れる声が部屋に響く。

 彼女に縋り付く彼の瞳には涙が止めどなく溢れ、ぽつりぽつりと雨粒のように落ちていく。

 一粒、また一粒と流れる雫はベッドにこぼれ落ちてその悲しみの重さごと吸い取っていく。


 涙は全てを受け入れる。

 喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも。

 ありとあらゆる感情を優しく抱き留め。心の重さを軽くしてくれる。


 そう、涙があるからこそ人は生きていられるのだ。


「お母さん…………! ありがとう…………! さようなら…………!」


 そして彼。

 サミーは産まれてから心からの涙を流したのは二回しかなかった。


 一つは事故で母親を亡くした時。

 そしてもう一人の母親を病気で亡くした時。


 彼の心を保つのに、二回の涙では到底足りなかった。

 人の心はそこまで強くないのだから。

 しかし、サミーはようやく気付いたのだ。彼女の言葉の本当の意味を。本当に伝えたかったことを。


「僕は…………泣いてもいいんだね…………!」

 

 そうして彼は初めて、本当の意味で心からの涙を流したのだ。

 自分のための涙を。

 誰かに手向けるための涙を。


 …………涙は全てを受け入れてくれる。

 辛いことも、悲しいことも、苦しいことも、嬉しいことも。

 小さな水滴が心の全てを優しく、そっと包み込んでくれるのだ。

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